第8話「医師でいらしたのですね」
2作目を書きました。既に完結迄書き切った作品ですので、良かったら、ブックマーク登録して頂けますと幸いです。毎日投稿予定。
三日後、私は城下の村へ降りた。
冬の配りがある。薪と塩と灯し油を、冬のあいだに人数ぶん分けて回す。三年前からずっと私が数を組んでいた仕事だけれど、帳簿を正式に預かってからは、行って自分の目で見ることにした。
マルタが台の横で数を読み、村の女たちが籠を持って並んだ。
「奥様。塩は、ひとり半升でよろしゅうございますね」
「ええ。子どもの多い家には、あとで足しますわ」
マルタは台帳から目を上げないまま頷いて、次の家の名を読んだ。この人の読む数は、私の組んだ数と一つも違わない。
「……奥様。ありがとうございます」
籠を受け取った女が、ひと呼吸置いてからそう言った。
「前の奥様は、お一人ずつにお声をかけてくださいました」
「そうでしたの」
「お顔を覚えておられて、子の名まで呼んでくださいました」
「ええ。よく伺いますわ」
その苛立ちを、微笑みに押し込めた。
私はこの三年、この人たちの塩の数を数えてきた。名は覚えていない。覚える機会をだれも与えなかったし、私も求めなかった。
先生は台の端で、村の子に薪の束を渡すのを手伝っていた。
今朝、行くと言ったら、この方はまた「行きます」とだけおっしゃった。
マルタが数を読む手を止めて、そちらへ目をやった。
「奥様。あの方を村へお連れになって、よろしかったのですか」
「なにか、まずいことがありますかしら」
「素性の知れぬ方でございます。屋敷に置くだけでも、みな申しております」
「ええ。わたくしにも聞こえておりますわ」
「……申しておりますのは、わたくしではございません」
「存じております」
マルタは唇を結んで、また数を読みはじめた。
この人は言い方を変えない。それでも、言う相手を選ぶようになった。
「奥様。あの方は、どこへ行かれるおつもりなのでしょう」
「伺っておりません」
「お名も」
「ないのだそうですわ」
台の上の塩が、女たちの籠に移っていく。灯し油の壺が鳴る。冬のはじめのこの音を、私は三年聞いてきた。
――そのときだった。
女の声が、屋根の向こうから裂けるように上がった。
「落ちた! うちの子が落ちた!」
人が走った。私も走った。
家の裏手の、雪を下ろしていた屋根の下だった。落ちたかたまりの上に、十四か五くらいの男の子が投げ出されている。
左の腕が、あってはならない向きに曲がっていた。額から雪の上へ、赤い筋が伸びていた。
母親が雪をかき分けて、子の肩を抱えようとした。
「動かさないでください」
先生の声だった。低いのに、それがいちばんよく通った。
「そのまま。首に触らないで」
「先生……!」
「湯を。沸かしたものを、桶に。それと布を」
「布は」
「裂いてください。いちばん清いものを」
マルタがすぐに動いて、女たちに指を向けた。
「どこから落ちましたか」
「屋根の……いちばん上から。雪と一緒に」
「下は雪でしたか」
「雪です。下ろしたばかりの雪でした」
「よかった」
母親が、その言葉に顔を上げた。
「よかった、とは」
「石の上なら、話は別でした」
先生は膝をついて、まず子の顔をのぞきこんだ。腕ではなく、顔だった。
「名前を言えますか」
「……ヤン」
「よし。ここがどこか、言えますか」
「村」
「吐きたいですか」
「……ううん」
「よろしい。目を開けたままで」
先生は子の指を一本ずつ握らせて、それから足の先を軽く押した。
「奥様。ここを押さえてください」
「額を、ですか」
「額です。布を折って、まっすぐ上から。血が止まるまで離さないで」
私は膝をついて、言われたとおりに押さえた。
布の下で脈が打っていた。指の背に伝わってくるのが自分の脈なのか子の脈なのか、途中でわからなくなった。手袋を外していたので、指先が赤くなった。
先生は腰の薬箱を開けて、板と細い布を出した。
「腕は折れています。折れているだけです」
「だけ、ですか」
「骨が皮を破っていません。それがいちばん大事なことです」
先生は子の腕を取って、母親のほうを見ずに言った。
「押さえていてください。少し鳴きます」
子が鳴いた。短く、一度だけ。
板が当てられ、布が巻かれ、腕は身体に固定された。手際というより、順番が決まっている人の動きだった。
「奥様。手を」
私が布を離すと、額の傷が見えた。長さは指の二本分ほどある。
「縫います」
薬箱から、針と糸が出てきた。
母親の喉が、ひっと鳴った。村の男が言った。
「あんた……医者かね」
「違います」
「けんど、領都のボルツ先生は雪の日には来られん。ここまで橇で二刻かかるから」
「二刻」
「冬に落ちた者は、みな待ってるうちに死にました」
先生は答えずに、湯で手を洗った。指の関節までていねいに洗って、それから針を湯にくぐらせた。
縫うあいだ、私は子の手を握っていた。握れと言われたわけではなかった。
終わったのは、思ったよりずっと早かった。
「六週で動きます」
「六週」
「そのあいだ、この腕で雪を下ろさせないでください。治りかけが一番折れます」
「……はい。はい」
先生は雪を掬って手を洗った。血が雪に落ちて、その部分だけが沈んでいった。
右手の甲に、古い傷があった。凍傷の跡である。雪の中から拾った夜に、私はその手を湯に浸けた。
「熱を出します。今夜か、明日に」
「どうすれば」
「水を飲ませてください。少しずつ、何度も」
「薬は」
「要りません。要るようなら、私が来ます」
母親が何度も頭を下げて、それから私にも下げた。
「奥様。奥様、ありがとうございます」
一拍は、なかった。
人が散りはじめたころ、年寄りの女が一人、先生の袖を引いた。
「お若い方。あたしは坂で息が切れるんだが」
「胸が、押されるように痛みますか」
「痛む。夜に、起きてしまう」
「薬舎へ行ってください。氷花の根を、煎じて」
「高いんだよ、あれは」
「……高いです。それでも、始めたら止めないでください」
「止めるとどうなる」
「戻ります。始める前より悪くなります」
先生はそこで一度、口を閉じた。
「続けてください。それだけです」
帰りの橇は、来たときよりゆっくり進んだ。日が落ちて、雪が青くなっていた。
あの年寄りの女は、たぶん薬舎へは行かない。金貨二枚は、村の家が一冬で使う塩と油の代よりまだ高い。
この領地を富ませている花は、この領地のいちばん貧しい者には届かないのである。
そして公爵家には届いていた。毎週、裏の戸に、十二度。
――十二週。三月。
橇が揺れて、私は膝の上の指を組んだ。お義姉様が亡くなったのは九月の終わりで、帳簿の薬が使われなくなったのは七月からである。
止めれば三月で心臓が弱ると、あの薬師の老女は言った。
数が合ってしまった。それだけのことなのに、背中のほうから順に固まっていくような気がした。
「先生」
「はい」
「針は、いつもお持ちですの」
「持ちます」
「薬箱に、板と布と針が、あの順で入っておりました」
「……よく入る順です」
私は膝の上の手を見た。爪のあいだに、まだ赤いものが残っている。
「あの子は、助かりましたわね」
「はい」
「先生。わたくし、ひとつ気づいたことがございます」
「どうぞ」
「血を止める前に、あの子の名前を訊かれました」
先生が、こちらを見た。
「頭を打った人には、まずそれを訊くのだと、だれかに教わった方の順でしたわ」
「…………」
「湯を先に言う人も、そう教わった人だけです」
橇の鈴が鳴った。雪を踏む音が二度、三度。
「医師でいらしたのですね」
先生は、否とはおっしゃらなかった。
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