第7話「氷花は、この領地でしか採れません」
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朝の卓に、白い花が盛られていた。
「……奥様。お気づきになりました?」
シャルロッテ様が、硝子の鉢に指を添えてこちらを見た。
「氷花ですわ。去年の乾かしたものを水に戻させましたの。お姉様がいちばんお好きだった花です」
「まあ。きれいですわね」
「一月には雪の下から生のものが出ますから、追悼式の広間はこの花で埋めますわ。お姉様のために」
「それは、よろしいことですわね」
白い花弁は水を吸って、縁のほうから少し灰色になっていた。
この花の根が、一週で金貨二枚の煎じ薬になる。私はその数字を、帳簿の上で三月ぶん数えたばかりだった。
その苛立ちを、微笑みに押し込めた。
「シャルロッテ様。お花の代は、家政の帳簿から出ますわね」
「……ええ。そうなりますでしょうけれど」
「では、いくつ要るのか、あとで教えてくださいませ」
シャルロッテ様は少し口を開けて、それから笑った。
「奥様は、近ごろ帳簿のお話ばかりですわね」
「お預かりしたばかりですので」
廊下へ出ると、マルタが追悼式の用の布を抱えて立っていた。
「奥様。一月十五日でよろしゅうございますね」
「ええ。そのように伺っておりますわ」
「……あの方の亡くなられたのは、一月ではございません」
「存じております」
マルタはそれ以上何も言わずに、布を抱え直して去っていった。
シャルロッテ様の書かれる命日は、紙ごとに動いている。三年、だれも写しを並べてみなかった。書庫の紙だけが、それをぜんぶ覚えていた。
その日の午後、私は橇で領都へ降りた。
ヴァイセンベルクは城から坂を半刻ほど下ったところにある。雪の壁が道の両側に胸の高さまで積んであって、そのあいだを馬の鼻先が白く曇りながら進んでいった。
家令のギュンターが向かいで手綱の音を聞いている。
「奥様。薬舎は帳面のやりとりだけで三年まいりましたが」
「ええ。だから一度、顔を見ておきたいのです」
「先の奥様はお降りになりませんでした」
「そうでしょうね。わたくしは降りますわ」
隣で、先生が黙って外を見ていた。
朝、書庫で行き先を話したら、この方は「行きます」とだけおっしゃった。理由は訊かなかったし、おっしゃらなかった。
薬舎は坂の途中の、屋根の低い石の建物だった。
戸を開けると、乾いた草の匂いが厚く立っていた。
「まあ、お城の奥様がじきじきに」
出てきたのは、白髪を布で包んだ小さな老女だった。腰から下げた鉢が歩くたびに鳴る。
「この土地のものを、いちから教えてくださいませ」
「いちから、でございますか」
「ええ。いちから」
老女は笑って、奥の棚から浅い箱を出してきた。
「花は一月に咲きます。雪の下で、こう、雪を持ち上げるようにして咲くのでございます」
「掘るのは、花ですの」
「根でございます。花は飾りにしかなりませぬ。根を乾かして、薄く削って、煎じます」
箱の中には、木の削りかすのようなものが入っていた。これが金貨二枚の中身だった。
先生が箱へ手を伸ばした。ひとつまみ取って、指の腹でこすって、鼻の前まで持っていった。
「去年のものです」
「……お目が高い」
「よく乾いています。日に当てていませんね」
「当てれば効きが落ちます。この土地の者は、みな暗いところで干します」
私は、その指先を見ていた。
迷いがなかった。薬草を初めて見る人の手つきではなかった。
「効きますのは、心の弱りにでございます。この土地では昔から心弱と申します」
「心弱」
「胸が苦しくなって、坂で息が切れて、そのうち起きられなくなる病でございます。生まれつきの者もございます」
「それが、この根で治りますの」
「治りはいたしませぬ。抑えるだけでございます。毎週飲んでおれば、その病の者も、まず人並みに暮らせます」
「毎週」
「毎週でございます。溜めておくということができぬ薬で、飲み続けねば効きませぬ」
先生が、初めて口を開いた。
「止めれば、どうなります」
「……止めれば、もとに戻ります。もとより悪くなる者もおります」
「三月です」
老女の手が止まった。
「飲んでいた者が止めれば、三月で心臓が弱ります。そこから先はもちません」
「……お若い方。あんた、それをどこで」
「どこかで聞きました」
先生はそれだけ言って、口を閉じた。
老女はしばらくこちらの客を見ていたが、やがて肩を下ろした。
「そのとおりでございます。三月。私も三人、看取りました」
「三人」
「銭が続かなくなった家の者でございます。金貨二枚は、村の者には重うございますので」
老女は箱の蓋を閉めた。
「ですが奥様。これは毒ではございません」
「毒ではない」
「毒なら、飲まされて死にます。氷花は逆でございます。飲まずに死にます」
「……」
「ですから、あとに何も残りませぬ。医者が見れば、心臓の弱りで死んだ人でございます」
何も残らない。
膝の上で、手袋の中の指が勝手に動いた。
寒いからだ。そう思うことにした。
戸の外で荷を積んでいた男が、笠を取って頭を下げた。
「お城の奥様。おらたちの村は、この花で冬を越しております」
「ええ。伺っておりますわ」
「南の公爵家からも、王都の薬舎からも、みなここへ買いに参ります。氷花は、この領地でしか採れません」
「よそでは育ちませんの」
「雪の下から出るものは、雪の下でしか育ちませぬ。溶けぬ雪が要るのだそうで」
私は老女のほうへ向き直った。
「三年前の夏と秋。お城へは、毎週お届けくださっていましたか」
「届けました。帳面を出しましょうか」
老女は分厚い帳面を運んできて、指を舐めて頁をめくった。
「七月から九月まで、毎週。九月の終いの週まで、確かにお届けしております。十二度でございます」
「受け取りは、どなたが」
「お城の、若い侍女の方でした。いつもおなじ方で」
「お名前は」
「……伺っておりません。裏の戸でお渡ししておりましたので」
「裏の戸」
「はい。そう言われておりましたので、そのように」
「この頁を、写させてくださいませ」
「帳面を、でございますか」
「日付と、数だけで結構ですわ」
老女は少し考えて、それから紙と炭筆を持ってきた。私はその場で十二の日付を写した。
「表ではなく」
「表は、お客の目がございますので。お薬のことは人の口に乗りますから、そういうお家もございます」
老女は悪気なくそう言って、帳面を閉じた。
私はその音を聞いていた。
三年ぶんの家政帳簿には、裏の戸のことなど一行も書いていない。帳簿に書かれるのは金額と日付だけで、金貨二枚がだれの手に渡ったかは、どこにも残らない仕組みになっている。
「では、この冬のぶんはわたくしが受け取りますわ」
「奥様が、でございますか」
「わたくしが。表の戸で」
老女は少し目を丸くして、それから深く頭を下げた。
帰りの橇の上で、先生は何も言わなかった。
雪だった。
道の両側の雪の壁は、朝にここを下ったときより高くなっていた。削っても下は去年の層に当たるのだと、御者が言った。
三年前の夏、この花の根は毎週お城へ運ばれた。裏の戸で、おなじ人の手に渡された。
そして、お義姉様のお部屋には一度も届かなかった。
氷花は、この領地でしか採れない。
だから、その薬を止めることができたのも、この領地にいるだれかだけだった。
――名前を出すには、数字だけでは足りない。
私は手袋の中で、写してきた十二の日付を指の腹で数え直した。
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