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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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6/30

第6話「では、家政の帳簿はわたくしが預かります」

2作目を書きました。既に完結迄書き切った作品ですので、良かったら、ブックマーク登録して頂けますと幸いです。毎日投稿予定。

 翌朝、私は旦那様の書斎の扉を叩いた。


 自分から用があってこの扉を叩いたのは、三年で四度目か、五度目だった。


「旦那様。お願いがございますの」


「……珍しいな」


「家政の帳簿と、出納の印をお預かりしたいのですわ」


 旦那様は書き物の手を止めた。


「印を」


「はい」


「なぜだ」


「この三年、どなたの印もない支出がございます」


「印もない」


「去年のお義姉様の会の費えが、しめて金貨三十一枚。注文はシャルロッテ様、お支払いは公爵家の出納から。承認の印は、どこにもございませんの」


「シャルロッテが」


「シャルロッテ様を責めているのではございませんわ。印を押す者がいないことを申しておりますの」


 公爵家の家政は、本来なら奥方の手にある。台所の注文から侍女の給金まで、紙に押されるのは奥方の印である。


 私にはその印が渡されていなかった。渡されないまま三年が過ぎて、だれもそれを不思議だと言わなかった。


「ギュンターは」


「ギュンターは、命じられたものに判を押すだけですわ。命じる者がおりませんの」


 旦那様は、しばらく紙の上を見ておられた。


「君は、数が読めるのか」


「実家は、交易で身を立てた伯爵家でございますから。ご存じでしょう」


「……ああ。そうだったな」


 三年たって、この方は私の持ちものを何ひとつ知らない。それも今日はじめて知ったことではない。


「好きにしてくれ」


「よろしいのですか」


「屋敷のことは、本来、君の仕事だ」


 本来。


 三年前からそうだったのなら、なぜ三年かかったのか。訊かなかった。訊いてもこの方は嘘をつかずに困るだけで、困っている顔を見たいわけではない。


 この方は、意地悪でこれを渋ったのではない。渋りもしなかった。求められなかったから渡さなかっただけで、求めれば一分で渡す。


 三年、私はそれを求めなかった。求めるかわりに、自分の写しをつけていた。


「ただし」


「はい」


「アデラインのものには触れないでくれ」


「お義姉様のお部屋には、はじめから入っておりません」


「……そうか。すまない」


 お義姉様のもの。


 私が三年触れなかったのは、あのお部屋だけではない。この方の手も、この方の名を呼ぶことも、ぜんぶそのままにしてある。


 以前の私は、それを数えていた。


 でも、もういい。なんとも思わない。


「まあ。奥様が、お勘定を」


 朝餐の席で、シャルロッテ様が匙を置かれた。


「はい。旦那様のお許しをいただきましたの」


「でも奥様、会の支度はもう半分が済んでおりますのよ」


「ええ。ですから、これから出る分だけ拝見いたしますわ」


「わたくしのやり方が、お気に召しませんの」


「気に召さないのではございませんわ。印がないだけですの」


「印」


「注文の紙に、どなたのお名前も入っておりません。あれではもし、お店が値を一桁違えて書いても、だれも気づけませんでしょう」


 シャルロッテ様は口を開いて、それから閉じた。


「……お好きになさって」


「お花は白のみ。楽士は四人。菓子は去年とおなじ職人に。シャルロッテ様のお決めになったものは、ぜんぶそのまま通しますわ」


 シャルロッテ様の眉が上がった。今度は、下りるのに少し時間がかかった。


「わたくしの決めたものを、そのまま」


「ええ。お義姉様のお好きだったものを存じているのは、シャルロッテ様だけですわ」


 言ってから、私は微笑んだ。判で押したような、いつもの微笑みを。


 旦那様は皿に目を落としておられた。この卓で何が起きたのか、たぶんお気づきになっていない。


 会の采配は、そのまま置いてさしあげればいい。私が取り上げたのは花の色ではなくて、紙に押す印だけだ。


 人の顔を立てておけば、たいていのものは静かに手に入る。実家でそう教わった。


 午後、侍女部の小部屋へ行った。


 マルタは昨日とおなじところに座って、昨日とおなじ布を数えていた。


「マルタ」


「……奥様」


「侍女部の帳を、お預かりにまいりました」


 マルタは布を置いた。それから立ち上がって、机の前に立った。体で机を隠すような立ち方だった。


「前の奥様は、帳簿などご覧になりませんでした」


「ええ。書庫でお会いしたときにも、そう伺いましたわ」


「あの方は、数のことなど一度もお口にされませんでした。みなが好きにお仕えして、それでこの屋敷は回っておりました」


「回っておりましたでしょうね」


「……奥様にはお分かりになりません」


「分かりませんわ。わたくしはお義姉様を存じ上げませんから」


 マルタの口が動いて、言葉にならずに閉じた。


「マルタ。ひとつ申し上げてよろしくて」


「……」


「お義姉様が帳簿をご覧にならなかったのは、ご覧になる必要がなかったからですわ」


 マルタが顔を上げた。


「みなが心を尽くしてお仕えしていたのでしょう。主人が数を数えなくてよい家は、よい家ですの。それは、この屋敷の誇りですわ」


「……奥様」


「わたくしは、お義姉様を軽んじたことは一度もございません」


「…………」


「この屋敷でいちばんお義姉様のお品を大切に扱っているのは、たぶんわたくしですわ。使っておりませんもの。膝掛けも、櫛も、お部屋も。三年、いちども」


 マルタの手が、エプロンの端を握った。


「けれど、マルタ」


「……はい」


「あの三月だけは、だれかが数えていなければならなかったのではありませんか」


 小部屋が静かになった。布の山の向こうで、蝋燭が一度だけ鳴った。


「毎週、お薬が買われておりました。十二週。金貨二十四枚」


「……」


「そのお薬をだれが受け取って、どこへ運んで、お義姉様が召し上がったかどうか。この屋敷のだれも書いておりませんの」


「……」


「だれも数えなかったのですわ。心を尽くしていた者ばかりのお家で」


 マルタの肩が、一度だけ大きく上下した。


「……わたくしは」


「はい」


「わたくしは、お運びしたかったのです」


「ええ」


「お薬でも、湯でも、粥でも。わたくしがお運びしたかった。あの方がお嫁ぎになった日から、ずっとお仕えしてまいりました。それを」


「マルタ」


「……お許しくださいませ」


 マルタは机から一歩どいた。


 引き出しを開けて、革の綴じを三冊出して、机の上に並べた。侍女部の帳、洗濯と蝋の控え、それから薬と湯の受け取り。


 それを、私のほうへ押した。


「では、家政の帳簿はわたくしが預かります」


 私は三冊を胸のところで受け取った。思っていたよりずっと重かった。


「かしこまりました、奥様」


 返事は聞こえていた。けれど私は、腕のなかの紙の重さのほうに気を取られていた。胸のところで、綴じの角が肋にあたった。


 私は微笑んだ。いつもの微笑みを。うまく押せたかどうかは、自信がなかった。


 三冊のうち、いちばん下の一冊がいちばん薄かった。薬と湯の受け取りである。


 三年前の夏の綴じを親指でめくると、七月の途中から紙の色が変わっていた。書く手が途切れた紙は、そこだけ汚れないまま古くなる。


「マルタ。ひとつだけ伺ってよろしくて」


「なんでございましょう」


「なぜ、お運びできなかったのですか」


 マルタは窓のほうを見た。


 庭の北側に、雪がいちばん高く積もっている。あの年の九月のあとに降ったものが、掘れば下からそのまま出てくるのだそうだ。


 それから、この人は初めてその名を口にした。


「……アデライン様は、最後の三月、お部屋から出られませんでした」


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