第6話「では、家政の帳簿はわたくしが預かります」
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翌朝、私は旦那様の書斎の扉を叩いた。
自分から用があってこの扉を叩いたのは、三年で四度目か、五度目だった。
「旦那様。お願いがございますの」
「……珍しいな」
「家政の帳簿と、出納の印をお預かりしたいのですわ」
旦那様は書き物の手を止めた。
「印を」
「はい」
「なぜだ」
「この三年、どなたの印もない支出がございます」
「印もない」
「去年のお義姉様の会の費えが、しめて金貨三十一枚。注文はシャルロッテ様、お支払いは公爵家の出納から。承認の印は、どこにもございませんの」
「シャルロッテが」
「シャルロッテ様を責めているのではございませんわ。印を押す者がいないことを申しておりますの」
公爵家の家政は、本来なら奥方の手にある。台所の注文から侍女の給金まで、紙に押されるのは奥方の印である。
私にはその印が渡されていなかった。渡されないまま三年が過ぎて、だれもそれを不思議だと言わなかった。
「ギュンターは」
「ギュンターは、命じられたものに判を押すだけですわ。命じる者がおりませんの」
旦那様は、しばらく紙の上を見ておられた。
「君は、数が読めるのか」
「実家は、交易で身を立てた伯爵家でございますから。ご存じでしょう」
「……ああ。そうだったな」
三年たって、この方は私の持ちものを何ひとつ知らない。それも今日はじめて知ったことではない。
「好きにしてくれ」
「よろしいのですか」
「屋敷のことは、本来、君の仕事だ」
本来。
三年前からそうだったのなら、なぜ三年かかったのか。訊かなかった。訊いてもこの方は嘘をつかずに困るだけで、困っている顔を見たいわけではない。
この方は、意地悪でこれを渋ったのではない。渋りもしなかった。求められなかったから渡さなかっただけで、求めれば一分で渡す。
三年、私はそれを求めなかった。求めるかわりに、自分の写しをつけていた。
「ただし」
「はい」
「アデラインのものには触れないでくれ」
「お義姉様のお部屋には、はじめから入っておりません」
「……そうか。すまない」
お義姉様のもの。
私が三年触れなかったのは、あのお部屋だけではない。この方の手も、この方の名を呼ぶことも、ぜんぶそのままにしてある。
以前の私は、それを数えていた。
でも、もういい。なんとも思わない。
「まあ。奥様が、お勘定を」
朝餐の席で、シャルロッテ様が匙を置かれた。
「はい。旦那様のお許しをいただきましたの」
「でも奥様、会の支度はもう半分が済んでおりますのよ」
「ええ。ですから、これから出る分だけ拝見いたしますわ」
「わたくしのやり方が、お気に召しませんの」
「気に召さないのではございませんわ。印がないだけですの」
「印」
「注文の紙に、どなたのお名前も入っておりません。あれではもし、お店が値を一桁違えて書いても、だれも気づけませんでしょう」
シャルロッテ様は口を開いて、それから閉じた。
「……お好きになさって」
「お花は白のみ。楽士は四人。菓子は去年とおなじ職人に。シャルロッテ様のお決めになったものは、ぜんぶそのまま通しますわ」
シャルロッテ様の眉が上がった。今度は、下りるのに少し時間がかかった。
「わたくしの決めたものを、そのまま」
「ええ。お義姉様のお好きだったものを存じているのは、シャルロッテ様だけですわ」
言ってから、私は微笑んだ。判で押したような、いつもの微笑みを。
旦那様は皿に目を落としておられた。この卓で何が起きたのか、たぶんお気づきになっていない。
会の采配は、そのまま置いてさしあげればいい。私が取り上げたのは花の色ではなくて、紙に押す印だけだ。
人の顔を立てておけば、たいていのものは静かに手に入る。実家でそう教わった。
午後、侍女部の小部屋へ行った。
マルタは昨日とおなじところに座って、昨日とおなじ布を数えていた。
「マルタ」
「……奥様」
「侍女部の帳を、お預かりにまいりました」
マルタは布を置いた。それから立ち上がって、机の前に立った。体で机を隠すような立ち方だった。
「前の奥様は、帳簿などご覧になりませんでした」
「ええ。書庫でお会いしたときにも、そう伺いましたわ」
「あの方は、数のことなど一度もお口にされませんでした。みなが好きにお仕えして、それでこの屋敷は回っておりました」
「回っておりましたでしょうね」
「……奥様にはお分かりになりません」
「分かりませんわ。わたくしはお義姉様を存じ上げませんから」
マルタの口が動いて、言葉にならずに閉じた。
「マルタ。ひとつ申し上げてよろしくて」
「……」
「お義姉様が帳簿をご覧にならなかったのは、ご覧になる必要がなかったからですわ」
マルタが顔を上げた。
「みなが心を尽くしてお仕えしていたのでしょう。主人が数を数えなくてよい家は、よい家ですの。それは、この屋敷の誇りですわ」
「……奥様」
「わたくしは、お義姉様を軽んじたことは一度もございません」
「…………」
「この屋敷でいちばんお義姉様のお品を大切に扱っているのは、たぶんわたくしですわ。使っておりませんもの。膝掛けも、櫛も、お部屋も。三年、いちども」
マルタの手が、エプロンの端を握った。
「けれど、マルタ」
「……はい」
「あの三月だけは、だれかが数えていなければならなかったのではありませんか」
小部屋が静かになった。布の山の向こうで、蝋燭が一度だけ鳴った。
「毎週、お薬が買われておりました。十二週。金貨二十四枚」
「……」
「そのお薬をだれが受け取って、どこへ運んで、お義姉様が召し上がったかどうか。この屋敷のだれも書いておりませんの」
「……」
「だれも数えなかったのですわ。心を尽くしていた者ばかりのお家で」
マルタの肩が、一度だけ大きく上下した。
「……わたくしは」
「はい」
「わたくしは、お運びしたかったのです」
「ええ」
「お薬でも、湯でも、粥でも。わたくしがお運びしたかった。あの方がお嫁ぎになった日から、ずっとお仕えしてまいりました。それを」
「マルタ」
「……お許しくださいませ」
マルタは机から一歩どいた。
引き出しを開けて、革の綴じを三冊出して、机の上に並べた。侍女部の帳、洗濯と蝋の控え、それから薬と湯の受け取り。
それを、私のほうへ押した。
「では、家政の帳簿はわたくしが預かります」
私は三冊を胸のところで受け取った。思っていたよりずっと重かった。
「かしこまりました、奥様」
返事は聞こえていた。けれど私は、腕のなかの紙の重さのほうに気を取られていた。胸のところで、綴じの角が肋にあたった。
私は微笑んだ。いつもの微笑みを。うまく押せたかどうかは、自信がなかった。
三冊のうち、いちばん下の一冊がいちばん薄かった。薬と湯の受け取りである。
三年前の夏の綴じを親指でめくると、七月の途中から紙の色が変わっていた。書く手が途切れた紙は、そこだけ汚れないまま古くなる。
「マルタ。ひとつだけ伺ってよろしくて」
「なんでございましょう」
「なぜ、お運びできなかったのですか」
マルタは窓のほうを見た。
庭の北側に、雪がいちばん高く積もっている。あの年の九月のあとに降ったものが、掘れば下からそのまま出てくるのだそうだ。
それから、この人は初めてその名を口にした。
「……アデライン様は、最後の三月、お部屋から出られませんでした」
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