第5話【SIDE:シャルロッテ】「姉の思い出を守るのは、わたくしの役目ですから」
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シャルロッテ・ヘルミナには、朝いちばんにすることがある。
わたくしのことである。
鍵を開けることだ。
この屋敷の三階の、いちばん奥。北の庭を見下ろす角のお部屋。お姉様のお部屋の鍵は、わたくしが持っている。
三つあった鍵のうち、二つはわたくしが預かった。もう一つは、お姉様が亡くなった月に失くなった。失くなったことにした、と申したほうが正しいかもしれない。
旦那様が一度だけ、鍵をお貸しとおっしゃったことがある。
「シャルロッテ。あの部屋の鍵を」
「まあ、旦那様。お入りになるのですか」
「いや……入らない」
「入らないのに、鍵をお持ちになりますの」
「……いや。いい。君が持っていてくれ」
それだけだった。この方は、ご自分で決めたことをご自分で破れないお方なのだ。
わたくしは鍵を回す。蝶番が鳴る。
お部屋のなかは三年前のままにしてある。寝台の掛け布も、櫛も、窓辺の椅子にかけた膝掛けも、あの朝のまま。侍女に触らせたことは一度もない。埃だけはわたくしが自分で払う。
お姉様の匂いは、もう残っていない。それだけが少し惜しい。
お姉様は美しかった。
これは負け惜しみで申すのではなくて、ただの事実である。おなじ金の髪で、おなじ青い目でも、人はお姉様の前でだけ足を止めた。お姉様がお笑いになると、部屋の温度が変わったように見えた。
王都の夜会では、お姉様が広間にお入りになるとだれかが必ず名を呼んだ。アデライン様、アデライン様と、いくつもの声が重なって、その声の切れ間にわたくしの名が入ることは、ついに一度もなかった。
わたくしは、その隣に立っていた。ずっと。
お姉様は意地悪な方ではなかった。一度も、ただの一度も、わたくしにつらく当たったことがない。
そのかわり、わたくしを数えていなかった。
夜会から帰ってきた朝、お姉様はお茶をお飲みになりながら、こうおっしゃったことがある。
「まあ、シャルロッテもいたのね」
おなじ馬車で行って、おなじ広間に四時間いて、帰りもおなじ馬車だった。
わたくしは笑って、そうですわと申し上げた。
あの三月だけは違った。
最後の三月、お姉様が呼ぶ名前はわたくしだけだった。朝も昼も夜も、シャルロッテ、シャルロッテと。お姉様の手が、わたくしの手を探した。
わたくしは、あんなにお姉様に必要とされたことがなかった。
……この話は、もうよそう。
午後は追悼の会の支度をした。
一月十五日。この屋敷で、いちばん大事な日である。三年で八十通の紙を出してきた。王都からもお越しになる。
卓の飾りも、蝋燭の数も、楽士の並びも、ぜんぶわたくしが決める。三年間、だれにも渡したことがない。
王都から運ばせる菓子の型も、去年とおなじ職人に頼んである。お姉様がお好きだった杏の砂糖漬けを重ねたもので、あれをお出しすると、年寄りの伯爵夫人たちがそろって目のふちをお拭きになるのだった。
「シャルロッテ」
「はい、旦那様」
「今年も、君に任せてよいか」
「まあ。ほかにどなたがおできになりますの」
「……そうだな」
「お姉様がどの花をお好きだったか、どの曲で笑われたか、存じているのはわたくしだけですわ。お姉様の思い出を守るのは、わたくしの役目ですから」
旦那様は、少しのあいだ黙っておられた。
この沈黙は、わたくしの好きな沈黙だった。旦那様がお姉様のことを考えておられる沈黙。この三年、この方にこの顔をさせられるのはわたくしだけだ。
「旦那様。今年は、奥様にも何かお役をお願いいたしましょうか」
「……君がそう思うなら」
「でも、奥様はお姉様を存じませんものね。ご自分で末席がよいとおっしゃいましたのよ」
「そうか」
「お可哀想に。わたくし、奥様のお顔を見るたびに胸が痛みますわ」
お可哀想。これは便利な言葉である。三年つかってきて、まだ一度も減らない。
あの方のことは、正直に申せばよく分からない。
嫁いでいらして三年、一度も声を荒らげたことがない。泣いたところも見たことがない。旦那様に触れられもせず、名前も呼ばれず、それでも毎朝おなじ顔で階段を降りてくる。
ずっと帳簿を見ている。夜も見ているらしい。
数のことばかり考えている方なのだと思う。だから、あんなことをお尋ねになるのだ。
――お義姉様のご命日は、いつでございましょう。
よくもそんなことを、食事の卓で。
わたくしは、あの月のことを忘れてなどいない。忘れられるはずがない。
ただ、日にちのことは口にしたくないのだ。二十八日と三十日のあいだにあったことは、わたくしとお姉様だけのものだから。
お姉様のご遺言の紙を旦那様にお渡ししたのは、わたくしだ。
あの紙があるかぎり、この屋敷の奥様の席は永久に空いている。座ろうとする人がいれば、お姉様の願いだと申し上げればいい。旦那様はそれで動かなくなる。
わたくしがあの席に座ることもできた。できたけれど、しなかった。座った者がいちばん先に疑われる。
空けておくのが、いちばん安全なのだ。
「マルタ。会の日には、お姉様のお部屋を開けましょう」
「……よろしいのですか」
「一日だけ。みなさまに、お姉様のいらしたお部屋を見ていただくの」
「かしこまりました」
マルタはお姉様にお仕えした侍女頭で、お姉様のことを本当に好きだった。だから扱いやすい。お姉様の名前をひとつ出せば、この人はどんなことにでも頷いてくれる。
夕方、ニナを呼んだ。
「ニナ。会に使う花のことだけれど」
「はい」
「一月になったら、氷花を採らせるわ。庭の北側の、あの雪のところ」
ニナの盆が、かたかたと鳴った。
「……北側は、雪が深うございます」
「深いところの根がいちばんよいのよ」
「ほかの場所でも咲きますでしょう」
「わたくしは北側がいいと言っているの」
「……はい」
「ニナ。あなた、この三年、北側をお通りにならないわね」
「……お許しくださいませ」
「叱っているのではないわ。わたくしは、あなたに感謝しているのよ」
ニナは頭を下げたまま出ていった。あの子は臆病で、それがちょうどよい。
夜、寝る前に窓を開けた。
雪だった。庭の北側だけは、三年ずっと高さが変わらない。除けさせたことがないからだ。
お姉様。
わたくしは、お姉様の思い出を守っております。だれよりもきちんと。
そのために鍵を持って、日付を書いて、花を選んで、八十通の紙を出しました。この家のなかで動いているものは、ぜんぶわたくしの手から出ております。
これでよろしいでしょう。
シャルロッテはこの時点では、まだ何も気づいていなかった。冬館の客が何者であるかも、あの帳簿の十二行がすでに読まれてしまったことも。
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