第4話「お義姉様のお薬は、届いていなかったのですね」
2作目を書きました。既に完結迄書き切った作品ですので、良かったら、ブックマーク登録して頂けますと幸いです。毎日投稿予定。
その日は朝から雪だった。
私は書庫で、三年前の夏の巻をもう一度開いていた。指の下に、おなじ文字が十二回並んでいる。
――薬代。氷花の調薬。金貨二枚。
七月の第二週から、九月の最後の週まで。十二行。合わせて金貨二十四枚。
数えなおしたのは、これで三度目だった。一度目は夜の燭台の下で、二度目はギュンターに取らせた写しのほうで、三度目が今朝のこの巻だった。三度とも、おなじ数が出た。
「ギュンター。この薬代のことを伺いたいのですけれど」
「はい」
「これは、いつから計上されておりますの」
「前の奥様がお嫁ぎになった年からでございます」
「はじめからですの」
「はい。毎週、欠かさず」
「ご病は、生まれつきと伺いましたけれど」
「心の弱りでいらしたそうでございます。氷花を飲んでおられれば、ふつうにお暮らしになれると」
「では、これはお薬ではなくて、お暮らしそのものですわね」
「……そう申してよろしいかと存じます」
「支払いは、どちらへ」
「領都の薬種商でございます。主治医の先生のお見立てを領都のボルツ医師が処方に書き、そのとおりに調えたものを、毎週」
「そのお薬は、どなたが受け取りましたの」
「わたくしは出納の判を押すだけでございます。品の受け取りは、屋敷のなかのことでして」
「では、受け取りの帳は」
「侍女部でございます。マルタが預かっております」
私は顔を上げた。ギュンターは、押してほしいところで押してくれる人ではない。けれど、道だけは正しく教えてくれる。
「ありがとう。マルタに頼んでみますわ」
「……奥様」
「なんですの」
「三年前の巻を、なぜお開きになるのです」
「勘定が合わないのですの」
「合わない勘定は、多うございますよ」
「ええ。でも、これは合いすぎておりますの」
ギュンターはそれ以上何も訊かなかった。
侍女部の小部屋で、マルタは布の山を数えていた。
「マルタ。受け取りの帳を見せてくださる」
「どの年のものでございましょう」
「三年前の、夏から秋まで」
数えていた手が止まった。布が一枚、膝から落ちた。
「……何をお調べになるのです」
「お薬のことですわ」
「お薬」
「毎週、氷花の調薬が届いておりました。三月のあいだ、十二週分。それが、どこへ納められたのかを知りたいのですの」
「お亡くなりになった方のお薬でございます」
「ええ」
「奥様には、関わりのないことでございましょう」
マルタの声は低かった。怒っているのではない。踏まれたくない場所を、体で隠しているのだった。
この人は、お義姉様が嫁いでこられるずっと前から、この屋敷にいる。若い侍女たちが前の奥様の話をするとき、いちばん長く喋るのはいつもマルタだった。
「奥様。ひとつ申し上げてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「奥様がお調べになると、この屋敷の者はみな、自分が疑われていると思います」
「疑ってはおりませんわ」
「疑われる覚えのない者は、疑われたと思うものでございます」
「……ええ。そうでしょうね」
「帳は、お見せできません」
「お見せできない、というのは」
「侍女部の帳は、侍女頭が預かるものでございます。前の奥様の代からそうしてまいりました」
「そうでしたの」
私は微笑んだ。判で押したような、いつもの微笑みを。
「では、今日は結構ですわ」
押さなかったのは、負けたからではない。押す順番が違うと思ったからだった。
厨房の綴じと侍女の日誌は、去年のうちに目だけは通してある。ギュンターが捨てずに置いてくれていたからだ。
けれど、見ただけでは何にもならない。紙を手もとに持たない者の申すことは、ただの噂になる。
廊下を戻る途中、渡り廊下の前にシャルロッテ様が立っておられた。
冬館へ続く扉の、鍵のかかったほうを見ておられる。
「奥様」
「はい」
「あの方は、どなたですの」
「名のない方ですわ」
「まあ。名のない方」
「ご自分で捨てたとおっしゃいますの」
シャルロッテ様は、白い指で自分の喉のあたりを押さえた。
「怖いこと。わたくし、夜が心配で眠れませんわ」
「鍵は二つかけておりますの。お部屋の前にも、人を置きましょうか」
「まあ、そんなお手間を」
「お手間ではございませんわ」
「……奥様は、ほんとうにお優しいこと」
優しいこと。この三年で、いちばん多く言われた言葉だった。
優しいと言われるのは、こちらが何もしないでいるあいだだけだ。帳簿を開いた者は、たぶんもう優しいとは言われない。
昼過ぎ、私は帳簿を抱えて冬館へ渡った。
先生は窓辺の椅子に座っていた。膝に毛布をかけて、外の雪を見ている。顔の色は、拾った夜よりだいぶましになっていた。
「先生。お座りのままで結構ですわ」
「はい」
「ひとつ、お見せしたいものがございますの」
私は帳簿を彼の膝に開いた。
先生の左手が、ゆっくりと紙の上を降りていった。行を追う指だった。読み方を知っている人の指だった。
それが、止まった。
「先生」
「……」
「これは、氷花の調薬でございます。週に金貨二枚」
「一週分です」
「はい。一週分」
「先生は、帳簿をお読みになれますのね」
「……少し」
「少しではございませんわ。行を指で追われました。数を勘定する方の手ですの」
「……」
「お答えは要りませんわ。わたくしは、答えないお方に慣れておりますから」
先生は指を動かさなかった。動かさないまま、唇だけが小さく数えていた。
七月、八月、九月。
「十二週です」
「はい。十二週。金貨二十四枚。三月のあいだ、一週も欠けずに買われております」
「……」
「お飲みになった記録は、ございません」
紙の上の指が、はじめて震えた。
動揺はいつでも手に出る。私はそれを、自分の指先で知っていた。
「厨房の受け取りにも、侍女の日誌にも、一行もございませんの。三月分が、まるごと」
「……奥様は、なぜこれをお開きになったのですか」
「べつのものを探しておりましたの」
「べつのもの」
「ええ。わたくしの話は、今はよろしいでしょう」
「……」
「この屋敷へ来て、最初にしたのが帳簿をつけることでした。ほかにすることがございませんでしたから」
「三年」
「三年ですわ」
彼は帳簿を閉じようとして、閉じられずに、膝の上に置いたままにした。
「お義姉様のお薬は、届いていなかったのですね」
言ってしまってから、自分の声がずいぶん静かなことに気がついた。
先生は答えなかった。
窓の外で、屋根の雪が落ちた。落ちた先にあるのは去年の雪で、その下はまた前の年の雪だ。
「氷花は、飲み続けなければ効きません」
先生がそう言った。
「途中でお止めになると、どうなりますの」
「……」
「先生」
「その話は、できません」
「なぜですの」
「私には、できません」
先生はそこで、はじめて薬箱に手を伸ばした。
三つの留め金を、上から順に外す。慣れた手つきだった。何百回とおなじ順で外してきた指だ。
箱のなかには、乾いた根が紙に包まれて入っていた。白い。細い。
「これが」
「氷花の根です」
乾いていても、匂いは残っていた。雪を割ったときの、あの冷たい匂い。
「一週で、これほど要りますの」
「これでは、ひと月に足りません」
「金貨二枚は、高うございますわね」
「安くはありません。ですが、この領では買えます」
「買えますわ。この領地の雪の下から出るものですから」
「先生は、これをどこで」
「……お答えできません」
私は根を見ていた。この領地の雪の下から出るものを、この方はわざわざ雪を越えて持ち歩いている。
箱の底には、瓶を寝かせる仕切りが四つあった。そのうちの三つが空だった。空の仕切りを抱えたまま、この人は雪のなかを歩いてきたのだ。
十二行の数字を、私はもう暗記していた。
金貨二枚が十二回。その下に、日付が埋まっている。お義姉様がお亡くなりになった日も、そのどこかにあるはずだった。
「先生。ひとつだけ」
「はい」
「先生は、この屋敷に何をしにいらしたのですか」
先生は箱の蓋を閉めた。留め金を、こんどは下から順にかけた。
「奥様」
「はい」
「この帳簿は、だれにもお見せにならないほうがいい」
「なぜですの」
先生は、はじめてまっすぐに私を見た。
その目は、私を見ていなかった。私のうしろにある三年前を見ていた。
「奥様は、病で亡くなったのではありません」
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