第3話「お姉様が亡くなったのは、三年前でございます」
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毎日投稿予定。
朝の食堂で、昨夜のことを旦那様に申し上げた。
旦那様は匙を止めて、しばらく窓の外を見ておられた。
「凍傷か」
「はい。指の先が白くなっておりました」
「医者を呼んだか」
「その方が、たぶんお医者ですわ」
「……たぶん」
「薬箱をお持ちでした。それ以上は、まだ何も」
旦那様は匙を置いた。
誠実な方なのだ。困っている者を雪へ戻すという考えは、たぶん一度も浮かんでいない。
「冬館の火は絶やすな。薪は好きに使っていい」
「ありがとうございます」
「君も、夜に出歩かないように」
君。
三年のあいだ、この言葉はずっとおなじ重さで置かれ続けている。軽くもならず、重くもならない。
「まあ。雪のなかから人をお拾いになったの」
シャルロッテ様が、両手を胸の前で合わせた。
「奥様は、お優しいこと。……でも旦那様、身元の知れない方をお姉様のお屋敷にお置きになるのは」
「冬館でございますわ」
私は口を挟んだ。
「お義姉様のお部屋からは、いちばん遠い棟ですの。渡り廊下の鍵もかけております」
シャルロッテ様の眉が、ほんの少しだけ上がって、すぐに下りた。
「……そうですわね。奥様がそうお決めになったのなら」
奥様。そこに置かれる一拍は、三年で耳が覚えてしまった。
「旦那様。そろそろ、お姉様の会の支度をはじめてよろしくて」
「……ああ」
「今年で四度目ですわ。一月の十五日」
「頼む」
「わたくしにお任せくださいませ。お姉様のことは、わたくしがいちばんよく存じておりますから」
一月十五日。
この屋敷で最初に教わった日付だった。
嫁いできたのが十一月の二十日で、その二月あとにはもう、私は喪服を着て末席に座っていた。二度目も三度目もおなじだった。そして四度目が来る。
午後、書庫でギュンターを呼んだ。
「去年の会の控えは残っておりますか」
「ございます」
「勘定だけでも拝見したいのですけれど」
「勘定と、次第書と、お言葉の写しもございます」
「お言葉の写しも」
「わたくしは、紙を捨てぬ性分でございまして」
この家令のこういうところが、私はきらいではなかった。
次第書を開く。時刻、席順、供物、楽士の数。花は白のみ。
そのうしろに、シャルロッテ様が読まれた追悼の辞の写しが挟まっていた。
――わたくしの姉アデラインは、あの年の九月二十八日の朝、この雪の下で眠りにつきました。
私は、その一行を二度読んだ。
「ギュンター。一度目の会の控えもございますか」
「ございます」
「お言葉の写しを」
同じ手の字で、こう書かれていた。
――姉は、去年の九月の末に、わたくしの腕のなかで眠りにつきました。
末。日付がない。
一度目はぼかして、去年は二十八日と書いておられる。
「ギュンター。この屋敷に、お義姉様のお亡くなりになった日を書いた紙はございますの」
「……墓碑には、年だけでございます」
「年だけ」
「はい。年だけでございます」
勘定のほうも開いてみた。
去年の会の費えは、しめて金貨三十一枚。花と蝋燭と楽士と、王都から運ばせた菓子。
「ギュンター。この注文は、どなたの指図ですの」
「シャルロッテ様でございます」
「お支払いは」
「公爵家の出納から」
「旦那様のお印は」
「……ございません」
「では、どなたのお印が」
「どなたの印もございません。この三年、そのようになっております」
私は勘定を閉じた。
金貨三十一枚は、氷花の薬の十五週分と少しにあたる。そんな数え方をする癖が、いつのまにかついていた。
夕方、冬館へ寄った。
先生は寝台に起きて座っていた。二日は起きるなと申しつけたのに、もう座っている。
「お加減は」
「よくなりました」
「今朝お目覚めになったばかりですわ」
「……はい」
「先生。今朝、氷花の薬がどうとおっしゃりかけましたわね」
先生は毛布の縁を見ていた。
「忘れてください」
「忘れられそうにございませんの」
「……」
「では、伺いません。今は」
「……」
「お食事は召し上がりましたの」
「はい」
「粥だけでは足りませんでしょう」
「充分です」
「先生は、何でも足りるとおっしゃいますのね」
私は扉を閉めた。閉める前に、もう一度だけ振り返った。
先生は、右手の甲の痕を、左手でゆっくりと覆っていた。
夕餐の卓で、シャルロッテ様は供物の話をしておられた。
「一月の半ばでは、氷花の根はまだ細うございましょう。でも花だけなら雪の下から採れますわ」
「氷花を供えるのか」
「お姉様は白がお好きでしたから」
「……そうだったな」
旦那様の声が、少し遅れて落ちた。
私は、皿の上のものを半分ほど残していた。
「席順は、去年とおなじにいたしますわね」
「ええ、それで結構ですわ」
「奥様は、その……」
「末席で構いませんの」
「まあ、そんな。奥様がお姉様のお席の隣にお座りになっても、だれも申しませんわ」
「わたくしはお義姉様を存じ上げませんので。存じ上げない者が上に座るのは、おかしいでしょう」
シャルロッテ様は口の端だけで笑って、それから旦那様のほうを向いた。
「旦那様。奥様は、ご謙遜がお過ぎになりますわ」
「シャルロッテ様。ひとつ伺ってもよろしくて」
「なんでしょう」
「お義姉様のご命日は、いつでございましょう」
匙の音が止まった。
「……九月の、三十日ですわ」
「三十日」
「はい。朝でございました。わたくしはお部屋におりましたの」
「そうでしたの」
「奥様は、なぜそのようなことをお尋ねに」
「墓所にお花を上げたいと思っただけですわ。会の日とは別に、その日にも」
「まあ。お優しいこと」
シャルロッテ様は微笑まれた。私も微笑んだ。判で押したような、いつもの微笑みを。
「では、九月の三十日でよろしいのですわね」
「奥様」
「はい」
「お姉様が亡くなったのは、三年前でございます」
「……はい」
「三年前ですわ。それで、十分でございましょう」
それで十分。
私は微笑みを崩さなかった。崩さないことだけは、この三年でいちばん上達した。
人は、大切な人の亡くなった日を、それで十分とは言わない。
部屋へ戻る前に、湯を運んできたマルタに訊いた。
「マルタ。お義姉様がお亡くなりになったのは、九月の何日でしたかしら」
マルタの手が止まった。湯が少しだけ揺れて、盆に落ちた。
「……九月の、末でございました」
「何日かは」
「覚えておりません」
「二十八日ではございませんでしたかしら」
「……存じません」
「マルタは、あのときこの屋敷にいたのでしょう」
「おりました」
「では」
「……あの月のことは、思い出したくございません。お許しくださいませ」
マルタは頭を下げて、盆を置いて出ていった。
窓の外は雪だった。
三年前の九月には、まだ雪は降っていない。降りはじめたのはその十月で、それから今日まで、北の庭は一度も地面を見せていない。
あの月に降らなかった雪の下に、日付だけが埋まっている。
三年前。三年前の、いつなのだろう。
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