第2話「名はありません。捨てました」
2作目を書きました。既に完結迄書き切った作品ですので、良かったら、ブックマーク登録して頂けますと幸いです。毎日投稿予定。
私は燭台を机に置いて、窓の掛け金を外した。
開けたとたんに雪が吹き込んで、帳簿の角が白くなった。
「どなたですか」
「……通りの者だ」
「通りの者は、この時刻にこの土地を歩きませんわ」
返事はない。代わりに、雪を踏む音が二歩ぶん近づいた。そこで止まった。
「ここは、フォークナー公爵領で間違いないか」
「間違いございません」
「……そうか」
「わたくしは、この家の奥様でございます。お名前を伺ってもよろしくて」
しばらく、何も聞こえなかった。
それから、重いものが雪に沈む音がした。
私は走った。裾を持ち上げて廊下を抜けて、厨房のわきの通用口の錠を落とす。淑女学院では教わらなかった走り方だった。
扉を押すと、雪は膝の高さまで来ていた。
男が倒れていた。俯せだった。外套は雪と見分けがつかないほど白くなって、背中だけがかすかに上下している。
「お聞こえになりますか」
肩に触れると、布の下の体が石のように硬かった。
「起きてくださいませ。ここで眠ると、朝には凍っておりますわ」
「……」
「お名前は」
「……ない」
それだけだった。男の顔が、また雪に沈んだ。
何かを抱えている。両腕でくるみこむようにして、離さない。四角い箱だった。革で覆われて、留め金が三つ。
引いてみた。けれど動かない。凍った指が、その形のまま固まっていた。
「マルタ。マルタ、来てちょうだい」
この三年で、私が屋敷のなかで声を張ったのは、たぶんこれが初めてだった。
足音が二つになって、三つになった。
「奥様、何ごとで……まあ」
「冬館の、暖炉のある部屋へお運びして。それから湯と、乾いた布を」
「旦那様にお知らせしては」
「朝でよろしいでしょう。この方は朝まで待てませんの」
「本館の客間ではいけませんか」
「シャルロッテ様のお部屋の前を通りますわ。お起こししてしまいましょう」
それだけが理由ではなかったけれど、ほかの理由は自分でもうまく言えなかった。
マルタは一拍おいて、頭を下げた。
「……かしこまりました、奥様」
「奥様」
「なんですの」
「あの箱を、お確かめになりませんでしたね」
「ええ」
「中に何が入っているか、分からぬのでございますよ」
「では、マルタが開けてごらんになりますか」
マルタは黙った。
「開けませんわね。わたくしもおなじですの」
箱は、男の腕から外せなかった。しかたなく、箱ごと運んだ。
冬館は、本館の北の翼から渡り廊下でつながっている。以前は冬の客を泊めていたのだそうだ。今は使っていない。
箱は寝台のわきに置いた。革は王都の細工だった。留め金の鋳物に、薬種商の刻印が残っている。
冬館の暖炉に火が入るまでに、外套を脱がせた。下は薄い旅装で、北の冬のためのものではなかった。
「この手を見てちょうだい」
マルタの喉が、小さく鳴った。
「凍傷でございますね。指の先が、もう白うございます」
凍傷は、指の先から関節へ、色を変えながら上がってくる。いちど焼けたところは、何年たっても元には戻らないのだそうだ。
「湯は熱くしないで。ぬるいままで、ゆっくり温めて」
「……奥様は、こういうことをご存じなのですか」
「実家の荷が、冬の峠を越えますの。荷と一緒に、人もおなじように運ばれてまいりましたわ」
「旦那様には、朝のうちにお知らせいたします」
「ええ、そうしてちょうだい」
「……旦那様は、なんとおっしゃるでしょう」
「行き倒れを雪へ戻せとは、おっしゃらない方ですわ」
マルタは何も言わなかった。それは、この屋敷のだれも否めないことだった。旦那様は、そういうお方なのだ。
右手の甲に、古い痕があった。
今のものではない。指の付け根から手首へ、皮膚の色が変わって固まっている。何年も前に一度、この人はおなじものに焼かれている。
夜のあいだに二度、うわごとを言った。聞き取れたのは一度だけだった。
「……七月です」
七月がどうしたのかは、わからなかった。
朝、雪がやんだ。やんだというより、息を継いだだけだった。
男は目を開けていた。灰緑の瞳が、天井の梁を数えるように動いている。
明るいところで見ると、頬がこけて、伸びた髭が顎を隠していた。髪も襟にかかるほど伸びている。
「お目覚めですか」
「……ここは」
「フォークナー公爵邸の、冬館でございます。あなたが昨夜訪ねた場所ですわ」
「そうか」
「お名前を伺ってもよろしくて」
男は天井を見たままだった。
「名はありません。捨てました」
私はその言い方を聞いていた。忘れたとも、言えないとも言わなかった。捨てたと言ったのだ。
「捨てたものは、拾い直せますわ」
「拾いません」
「なぜですの」
「……重いので」
「お荷物は、あの箱だけですの」
「はい」
「外套のなかには、何も入っておりませんでした。財布も、書付も」
「捨てました」
「それもですの」
「……はい」
「あなたは、罪をお犯しになったのですか」
「違います」
「追われておいでですの」
「いいえ」
「では、なぜ名をお捨てになりましたの」
「……申せません」
「わかりました」
嘘をついている人の間の取り方ではなかった。言わないと決めている人の間の取り方だった。
私はしばらく黙っていた。それから、寝台のわきの椅子に座り直した。
「その箱は、薬箱でございましょう」
「……」
「留め金が三つ。下の段に、瓶を寝かせる仕切りがございますわね。王都の薬種商の作りですの。実家で見たことがございます」
「中は」
「見ておりません。あなたの指がほどけるまで、外せませんでしたから」
「結構です」
「開けよとは申しておりませんわ」
私は微笑んだ。判で押したような、いつもとおなじ微笑みを。
よく働いてくれた顔だ。旦那様にも、シャルロッテ様にも、王都から来る客にも、この三年ずっと。
男は、まばたきをひとつしただけだった。
「呼び名がなければ、屋敷の者が困りますの」
「……」
「あなたを運んだ者にも、湯を沸かした者にも、明日のことを申しつけなければなりません。名のない方を、名のないままでお置きしておくわけにはまいりませんでしょう」
「好きにしてください」
「では、先生とお呼びします」
男の目が、初めて私のほうを向いた。
「なぜ」
「薬箱をお持ちですわ。捨てなかったものが、それだけなのでしょう」
「…………」
その沈黙は、短く切ったものではなかった。長いあいだ、だれからもそう呼ばれていなかった人の沈黙の長さだった。
「先生。お食事を運ばせます。三日は起きないでいただきますわ」
「三日は要りません」
「では、二日で」
「……」
「ひとつだけ伺ってよろしくて。先生は、どこへいらっしゃるおつもりでしたの」
「ここです」
「ここへ、何をしに」
答えはなかった。
「先生」
「……」
「お答えにならなくても構いませんわ。わたくしも、人に申せないことをひとつ持っておりますの」
男の目が、天井へ戻った。
窓の外では、やんだはずの雪がもう降りはじめていた。昨夜のぶんの上に、今朝のぶんが乗っていく。踏めば、下でかたい音がするのだろう。
私は立ち上がった。
扉のところまで行って、掛け金に手をかけた。そのとき、後ろで声がした。
「奥様」
「はい」
「この屋敷に、氷花の薬は――」
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