第1話「旦那様は、三年間この扉を開けたことがない」
2作目を書きました。既に完結迄書き切った作品ですので、良かったら、ブックマーク登録して頂けますと幸いです。毎日投稿予定。
夫は三年間、私の寝室の扉を開けたことがない。
今夜も廊下の足音は扉の前を通り過ぎていった。三年で千回を超えるはずだけれど、私はもう数えていない。
「アデラインとの約束を破るわけにはいかない」
扉の向こうで、旦那様がそうおっしゃった。
それは私に向けられた言葉ではなかった。聞かせるつもりもなかったのだろう。
「ええ。アルフレート様は、そういうお方ですわ」
答えたのはシャルロッテ様。亡くなった前の奥様の、妹君である。
「でも旦那様、奥様がお気の毒ではありませんか」
「……そうだな」
「お可哀想に。こんな雪の底で、もう三年も。わたくし、奥様のお顔を見るたびに胸が痛みますの」
「シャルロッテ」
「はい」
「その話は、もうよそう」
「ええ、ええ。そうですわね。わたくしが余計なことを申しました。お許しくださいませ」
「……いや。君が気にすることではない」
足音が遠ざかっていく。二人分。
私は寝台の端に腰を下ろしたまま、その音が階段を降りきるのを待っていた。
今夜の夕餐も、三年間とおなじだった。
長い卓の端と端に旦那様と私が座って、その中ほどにシャルロッテ様がいらっしゃる。
「奥様、お顔の色がよろしくありませんわ」
シャルロッテ様が、心配そうに眉を寄せてこちらをのぞきこんだ。
「北の冬はお体に障りますでしょう。わたくし、お姉様のお部屋から膝掛けをお持ちしましょうか」
「お気遣いをありがとうございます。けれど、結構ですわ」
「まあ、ご遠慮なさらないで。お姉様もきっと、そうおっしゃいますわ」
「ご遠慮ではございませんの。お義姉様のお部屋のものを、わたくしが使うわけにはまいりませんでしょう」
言ってしまってから、しまったと思った。
シャルロッテ様の眉が、ほんの少しだけ上がる。
「……そうですわね。あれはお姉様のお品ですわ」
私は、するりと微笑んだ。非の打ち所のない、完璧な微笑みを。
三年でいちばん上達したのがこれだった。頬の位置と、目の細め方と、声の高さがぜんぶ決まっているので、判で押したようにおなじ顔が出てくる。
旦那様は皿に目を落としたまま、一度だけこうおっしゃった。
「……君も、無理はしないように」
君。
三年のあいだ、この方が私を呼ぶ言葉はそれだけだ。名前を呼ばれたことは、まだ一度もない。
以前の私は、扉の前の足音に耳を澄ませていた。止まってくれと願って、通り過ぎられて、落胆して、腹を立てて、それから泣いた。
でも、もういい。なんとも思わない。
引き出しを開ける。いちばん上に婚姻契約書の写しがあって、その下に婚姻法第四十一条を書き写した紙がある。
――婚姻の成立後三年を経て夫婦の実の伴わざるとき、当事者の一方は婚姻無効の申し立てをなすことを得る。
その三年は、今月の二十日で満ちた。
けれど私はまだ申し立てていない。できないのだ。
この婚姻は王命である。実家が押さえていた北方の交易路の、その先にこの領地があった。理由はだれも隠さなかった。
私は嫁ではなく、担保としてこの雪の下へ運ばれてきた。
だから四十七条がついてくる。王が結ばせたものを解くには王の承認が要り、上申には公爵家に非があるという証明を添えなければならない。
旦那様が私に触れない。それだけでは足りない。王都の書記官はきっとこう書くだろう。――公爵夫人に、夫を惹きつける力がなかった。
だから私は紙を探している。この屋敷のどこかにあるはずの、たった一枚を。
燭台を持って部屋を出ると、廊下は冷えきっていた。
階下の書庫へ降りると、先客がいた。
「……奥様」
侍女頭のマルタだった。消し忘れの蝋燭を集めていたらしい。
「こんな時刻に、お寒うございますよ」
「少し、帳簿を見たいのです」
「明日ではいけませんか」
「明日も見ますわ」
マルタはしばらく黙っていた。
「前の奥様は、帳簿などご覧になりませんでした」
「そうでしょうね」
「みなに好かれておいででした。あの方がお笑いになると、この屋敷が明るくなりました」
「ええ。よく伺いますわ」
「奥様は、何をお探しでいらっしゃるのです」
「勘定ですわ」
「勘定は、昼にもございましょう」
「昼は、人の目がございますの」
「…………」
「マルタ。三年前の夏の巻は、どこに」
「……二段めの、左の端でございます」
「ありがとう」
「奥様。あの年の巻は、お開きにならぬほうがよろしゅうございます」
「なぜですの」
「……お邪魔をいたしました」
マルタは燭台をひとつ机に置いて、静かに出ていった。
あの人は今も、私を「奥様」と呼ぶときに一拍置く。三年経っても、その一拍は縮まらない。
構わない。私は帳簿を読みに来たのであって、呼ばれに来たのではない。
棚には三年分の家政帳簿が背を揃えて並んでいる。この屋敷へ来て最初にしたのが、これをつけることだった。
戸口で、鍵の束が鳴った。
「……奥様。まだ、お起きでございましたか」
家令のギュンターだった。夜の見回りらしい。
「ギュンター。あの年の夏の巻は、写しもございましたわね」
「ございます。奥様が最初の年に、お取らせになりました」
「原本も、残っておりますの」
「残っております。焼いたものは、一枚もございません」
「助かりますわ」
「……お手伝いいたしましょうか」
「いいえ。ひとりで数えますわ」
「かしこまりました」
ギュンターは静かに戸を閉めた。
三年前の夏の巻を抜いて、机に開く。前の奥様が亡くなった年の、最後の三月だ。
薬代。毎週おなじ額が計上されている。金貨二枚。
氷花の調薬である。フォークナーの雪の下からしか出ない薬草で、この土地を富ませているのは、その白い花だった。
私は指を止めた。
去年も目にしていた行だ。数えたのは、今夜がはじめてだった。
支出は、亡くなる月まで続いている。毎週、きちんと。
――では、その薬は、どこへ行ったのだろう。
この書庫のどの綴りにも、服薬の記録がない。一行もない。三月分、十二週分が、まるごとない。
帳簿を閉じた。閉じてから自分の手を見ると、指先が少し震えていた。寒いからだと思うことにした。
窓の外は雪だった。
この土地の雪は溶けない。降ったものが積もって、その上にまた降る。三年前に降った雪がまだ庭のどこかにあるのだと、以前マルタが言っていた。
――そのときだった。
「……失礼。ここは、フォークナー公爵領で間違いないか」
雪の向こうから、低い声がした。
姿は見えなかった。声だけが、降り続ける雪を割って届いた。
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