第10話【SIDE:アルフレート】「アデラインの願いを、俺は守らねばならない」
アルフレート・フォークナーは、その夜も妻の部屋の前で足を止めなかった。
廊下は冷えている。この屋敷は冬になると、絨毯の下から石の冷たさが上がってくる。
扉の向こうに灯りがあるのは、隙間の色でわかった。彼女はまだ起きている。三年のあいだ、この時刻に暗かったことがほとんどない。
彼は歩く速さを変えずに通り過ぎた。速くしても遅くしても、それは何かの合図になってしまう気がした。
執務室に入ると、机の上に冬の帳面が積まれていた。
「閣下。氷花の出荷の控えでございます」
家令のギュンターが燭台を寄せた。
「今年は南の公爵家からの注文が二割増えております。三年前の倍でございますな」
「倍か」
「三年前は、王都の薬舎に押し切られて安く出しておりました。あれを組み直しましたので」
「……組み直したのは、俺ではない」
「はい。奥様でございます」
アルフレートは控えをめくった。
数字はどこまでも揃っていた。月ごとに同じ手で、同じ順に並んでいる。欠けている月がない。
「よくやってくれている」
「奥様にそう申し上げてもよろしゅうございますか」
彼は、少し黙った。
「……ああ。伝えてくれ」
「かしこまりました」
伝えてくれ、と自分が言ったことに、彼はうっすらと気づいていた。
夕餐の卓で言えばよかったのである。卓は長いが、声が届かないほど長くはない。
今夜も彼は皿に目を落として、こう言っただけだった。
「……君も、無理はしないように」
顔を上げると、彼女は微笑んでいた。
いつもとまったく同じ形の微笑みだった。頬の位置も、目の細め方も、声の高さも。三年間、一度も崩れたところを見ていない。
その顔を見るのが、近ごろ少しつらい。
彼女に何か言おうとして、続きが出てこないことがよくある。話す材料がないわけではない。帳面のことでも村のことでも、いくらでもあるのだ。
それなのに、声にする段になると必ずどこかが噛み合わなくなる。彼はそれを、三年という長さのせいだと思っていた。
彼は羽根ペンを置いて、指で眉のあいだを押した。自分の弱さなら、こちらで始末をつければよい話である。
「閣下。もう一つ、ご報告が」
「なんだ」
「奥様が村へ連れて行かれた流れの男が、屋根から落ちた子の腕を継いだそうでございます。額を縫ったとか」
「医者か」
「わかりませぬ。名も申さぬ男でございます」
「……そうか」
アルフレートは控えを閉じた。
「礼をしておけ。薪でも、銭でもよい」
「かしこまりました」
名を訊こうとは思わなかった。妻が屋敷に置いている者のことである。家政は彼女の領分で、彼が口を出せば、それはそれで彼女を疑うことになる。
三年前も、彼はそうやって決めた。
王命が来たのは、アデラインを埋めたその月のうちだった。北の交易路を押さえるヴェルティ伯爵家の娘を娶れ、と。喪が明ける前だった。断る道はなかった。
彼が決めたのは一つだけである。
――娶る。ただし、触れない。
触れてしまえば、アデラインとの約束を破る。触れなければ、あの娘には詫びるだけで済む。
詫びるだけで済む、と当時の彼は考えた。
それが三年続いて、いまも続いている。
戸が鳴った。
「アルフレート様。まだ起きておられましたの」
シャルロッテが盆を持って入ってきた。湯気の立つものが乗っている。
「追悼式の花のことで、ご相談が」
「式は、一月十五日だったな」
「ええ。氷花の咲く時期でございますから」
「……命日は、秋ではなかったか」
「秋の道では、王都の方々がおいでになれませんの。お姉様も、人の集まるほうをお喜びになりますわ」
「そうか」
姉を悼む者が多いほうがよい。それはたしかにそうだと、彼は思った。
「花は、任せる」
「ええ。任せてくださいまし。……ただ、代のことは奥様にお伺いしないといけませんので」
「そうしてくれ」
「奥様が、家政の帳簿をお持ちになったと伺いました。お許しになったのですね」
「俺より上手だ。三年、実際に付けていたのは彼女だ」
「まあ、そうですわね。ほんとうに、しっかりした方ですわ」
シャルロッテは盆を机に置いて、それから少し眉を寄せた。
「……ただ、お姉様のお薬の代まで、お調べになっているそうで」
アルフレートは顔を上げた。
「薬代を」
「三年も前の巻を、夜中に出してごらんになっていると、侍女が申しておりました」
「帳簿を預かったなら、古いものも読むだろう」
「ええ、ええ。そうですわね」
彼女は指を組んだ。
「わたくし、何か疑われているのでしょうか」
「そんなことはない」
「わたくし、お姉様のためにと思って、ずっとこのお屋敷においていただいて……それがいけなかったのでしょうか」
「シャルロッテ」
「はい」
「姉のためによくやった。それは俺が知っている」
シャルロッテの目が、燭台の光でわずかに濡れた。
「……アルフレート様だけですわ」
「なにが」
「お姉様のお約束を、今も守っておられるのは。世間はみな、もうお忘れになりました」
「忘れる話ではない」
「ええ。ええ、そうですわね」
彼女は盆の茶を勧めて、それから静かに出ていった。
戸が閉まると、部屋の音がなくなった。
アルフレートは机のいちばん下の引き出しを開けた。
紙が一枚ある。三年ぶん出し入れしているので、折り目のところが薄くなっていた。
日付は九月二十八日。アデラインの字である。
――わたくしが死んだら、二度と誰も愛さないで。
それだけだった。ほかには何も書いていない。
最後の三月、彼はあの部屋の扉の前に何度も立った。
扉は開かなかった。妹がいつも先に出てきて、小さな声でこう言った。姉が、いまの顔を見られたくないと申しております、と。
それが妻の望みなら、と彼は思った。病んだ人間の望みを、夫が踏んでよい理由はない。
だから、彼は開けなかった。
九月の終わりは領都に降りていた。氷花の値の交渉が長引いて、三日戻らなかった。
戻ったとき、屋敷は静かだった。妹が泣きながら廊下を走ってきて、この紙を差し出した。
亡くなる二日前に、こう仰いました、と。
彼は紙を受け取って、字を確かめた。あの字だった。だから、信じた。
妻を死なせた医者は、王都で名を削られたと聞いた。その男の顔を、彼は思い出せない。一度も屋敷の中で会っていないのである。
紙をもとの場所に戻して、引き出しを閉めた。
廊下のほうで、屋根の雪が落ちる音がした。この庭の雪は、四月まで一度も嵩が減らない。彼が子どものころからそうだった。
――アデラインの願いを、俺は守らねばならない。
死んだ者は、もう何も言い直せない。言い直せない者の言葉を守るのが、生きている者の務めである。
それは彼にとって、誠実というものの、いちばん単純な形だった。
そしてアルフレートは、その遺言を自分の耳で聞いていないことを、一度も疑ったことがなかった。
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