第11話「わたくしを娶ったのは、王命でしたね」
書斎ではない。旦那様が領主の仕事をなさる執務室である。その扉を私が自分の用で叩いたのは、三年でこれがはじめてだった。
朝のうちに髪を結い直して、爪も切った。手のひらの汗は、廊下で二度拭った。
樫の扉は硬い音がする。廊下の端まで届く音だ。
持っていく帳簿は三冊に決めた。四冊めは机に置いてきた。
三年前の夏の巻である。薬代が毎週きちんと並んでいる巻だ。あれを今この方に見せるのは、まだ早い。
返事は、すぐにあった。
「……君か」
旦那様は書き物の手を止めて、顔をお上げになった。緑の目が、少し見ひらかれていた。
「半刻だけ、お時間を頂戴できますか」
「かまわない。座るといい」
部屋は広い。窓が三つあって、そのどれもが雪で白い。
私は帳簿を三冊、机の端に揃えて置いた。革の背が、朝の光を鈍く返した。
「家政のご報告にまいりましたの」
「……報告」
「三年ぶんです。お聞きになったことが、まだ一度もございませんでしょう」
旦那様の目が、帳簿の背を左から右へたどった。
「薪と蝋と、厨房の支出を洗いましたわ。一年めの冬に較べて、出ていくものは二割ほど減っております」
「二割」
「減らしたのは無駄だけです。食事の数も、暖炉の火も落としておりません」
「……そうか」
「三年ぶんの差額で、東の棟の屋根を葺き替えられます。春になさいますか」
「……君が、やったのか」
「わたくしの仕事ですわ」
旦那様は帳簿を一冊だけ開いて、すぐに閉じられた。読めないのだ。
複式の帳簿は、教わらなければ読めない。実家が商いをしていなければ、私も読めなかった。
旦那様は羽根ペンを置かれた。それから、長く黙っておられた。
炭の音がした。
「知らなかった」
「お伝えしておりませんでしたから」
「……いや。訊かなかった」
「……冬館の客は、まだいるのか」
「おりますわ。拾った夜の凍傷が、まだ治っておりませんの」
「医者だそうだな」
「城下の村の子の、折れた腕を継ぎましたわ。お叱りになりますか」
「……いや。屋敷のことは、君の裁量だ」
裁量。この方の口からその語を聞いたのは、はじめてだった。
その言葉に、私はいちど口をつぐんだ。
三年のあいだ、この方は私の仕事を訊かなかった。私はこの方に見せなかった。どちらも、おなじ厚みで積もっている。
襟が首に触るのを感じながら、用意してきたとおりに続けた。
「もうひとつ、お伺いしたいことがございますの」
「言ってくれ」
「わたくしを娶ったのは、王命でしたね」
旦那様の指が、机の縁でぴたりと止まった。
「……そうだ」
「理由を、あなたのお口から伺いたいのです」
「……君は、知っているのだろう」
「存じております。けれど、あなたから伺ったことはございません」
窓の外で、屋根の雪が落ちるかたまりの音がした。
旦那様はその音のほうを見て、それから話しはじめられた。
「北の道だ」
「道」
「氷花を王都へ流せる道は一本しかない。その道を押さえていたのが、ヴェルティ伯爵家だ」
「ええ」
「だから王は、あの家の娘をここへ寄越した。道をこの家に繋ぎ止めるために」
「では、わたくしは」
「……担保だ」
担保。その語は、三年前から私の引き出しの中にある。
自分で書き写した紙で知っているのと、夫の口から聞くのとでは、字の重さが違った。
私は膝の上の手を見た。震えていない。
嫁ではなく担保として運ばれてきた娘が、三年で二割の無駄を削った。それだけは、だれにも取り上げられない。
「言わせて、すまない」
「いいえ。三年めにようやく伺えて、すっきりいたしましたわ」
伏せられた目は、こちらへ戻ってこなかった。
「ついでに、もうひとつ申し上げておきます」
「……ああ」
「氷花の交易協定は、嫁いだ翌年の春に結び直しております。わたくしの持参金で」
「……持参金で」
「ええ。この領地の氷花には、わたくしの金で結んだ契約がついておりますの。それだけ、お心に留めておいてくださいませ」
「なぜ、それを今」
「いずれお入り用になるかと思いまして」
旦那様は何かを言いかけて、口を閉じられた。
私は帳簿の下から、一枚の紙を出して机に載せた。書き写してから三年、折り目だけが白くなった紙だ。
「婚姻法の第四十一条を、ご存じですか」
「……知っている」
「婚姻の成立後三年を経て夫婦の実の伴わざるとき、当事者の一方は婚姻無効の申し立てをなすことを得る」
声は震えなかった。三年、声に出さずに読んできた条文だからだ。
「先月で、その三年が満ちました」
旦那様は紙をご覧にならなかった。私の顔を、まっすぐにご覧になった。
この方がこちらを見たのは、三年でこれが何度めだったろう。数えていない。
「申し立てる、と言うのか」
「いずれ、いたします」
「……できない」
「なぜでしょう」
「アデラインとの約束がある」
扉の前を通り過ぎていった千回ぶんの足音と、おなじ言葉だった。
「どのようなお約束ですか」
「……わたくしが死んだら、二度と誰も愛さないで。そう言ったそうだ」
「そうだ、と」
「……」
旦那様は答えられなかった。炭が鳴った。
私は膝の上で、指を揃えた。息を吐いた。
「アルフレート様」
三年で、この方の名を呼んだのはこれがはじめてだった。
呼んでみても、口の中はなんとも冷たいままだった。
「その言葉を、あなたはご自分の耳で聞かれましたか」
旦那様の手が、羽根ペンを持ち直した。持ち直してから、また置いた。
「……シャルロッテが、聞いている」
「シャルロッテ様が」
「あの子は姉を慕っていた。嘘をつく理由がない」
理由。その語だけを、私は胸の内に写し取った。
嘘をつく理由がない、と旦那様はおっしゃった。理由がないと言えるのは、あの方の中を見た者だけだ。
旦那様は、シャルロッテ様の中を見たことがおありだろうか。
私は訊かなかった。今日はここまでだと決めていた。
「書き付けは、ございますの」
「ある。アデラインの字で書かれている」
「拝見できますか」
「……俺の机にある。見せられない」
私は、そこで一度だけ目を上げた。
この方はお持ちなのだ。三年、この屋敷のどこにあるのかさえ私に知らせず、ご自分の手の届くところに置いておられた。
「では、お義姉様のお部屋の鍵は」
「シャルロッテが持っている。二つとも、あの子だ」
「旦那様は、ご自分の家の鍵をお持ちでないのですね」
「あれは、アデラインの部屋だ」
私はそこで、いちどだけ指を握った。握って、ひらいた。
この方を責めても、庭の雪はなんとも動かない。私はその苛立ちを、微笑みに押し込めた。
「君に非はない」
旦那様がそうおっしゃった。
「悪いのは俺だ。だが、王命で結ばれたものを解くには王の承認が要る。申し立てには、公爵家に非があるという証明を添えねばならない」
「存じております。四十七条ですわね」
「それを君に書かせるのは、……俺は」
「わたくしが書きますわ」
「君」
「あなたがお書きになれないものを、わたくしが書きます。それだけのことですの」
旦那様は立ち上がりかけて、座り直された。
言葉を選んでおられるのがわかった。三年、この方はいつもそれで遅れる。
「……君も、無理はしないように」
ほら、そこへ戻る。
私は立って、頭を下げた。帳簿を三冊抱えて、扉を閉めた。
廊下の窓は、ぜんぶ白かった。
半刻と申し上げたのに、鐘は鳴っていなかった。三年ぶんの話は、それだけの長さで済んでしまうものらしい。
落胆はしなかった。この方が拒むことは、扉を叩くまえから知っていた。
知っていて訊いたのは、言葉にしていただく必要があったからだ。
「わたくしを娶ったのは、王命でしたね」
そう申し上げて、この方は否まれなかった。
否まれなかったのなら、もう遠慮はいらない。
窓に手をあててみた。冷たい。
この土地の雪は溶けない。積もった三年ぶんを、私は掘る。
――公爵家に非があると書ける紙は、必ずこの下にある。掘り上げるまでは出ていかない。三年待ったのだ。
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