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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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12/30

第12話「お義姉様は、最後の三月、何を召し上がっていましたか」

完結まで描き切っている作品です。良かったら、ブックマーク次話をお待ちください。

 十二月の夜の廊下は、息が白くなるほど冷える。


 書庫へ降りる階段の下に、人が立っていた。


 家令のギュンターだった。両手で、蓋のついた木の箱を抱えている。


「奥様。夜分に、お待ち申し上げておりました」


「ギュンター。こんな時刻にどうしました」


「これを、お納めいただきたく」


 呼んだ覚えはない。この方が向こうから用を持ってこられたのは、三年でこれがはじめてだった。


 書庫の扉を押すと、机の燭台がひとつだけ灯っていた。


 暖炉は焚いていない。ここで人と会っていると、屋敷のだれにも言いたくなかったからだ。


 その灯りの向こうに、先生が座っておられる。


 ギュンターは先生の顔を一度だけ見て、それから何も訊かずに箱を机へ置いた。


 置かれると、埃のにおいがひろがった。


 机には帳簿が開いたままになっていた。先生が余白に、数字だけを書き写しておられる。字は細くて、まっすぐだった。


「……週に、金貨二枚」


「ええ。十二週ぶん、きちんと出ておりますわ」


「金貨二十四枚」


「その二十四枚がどこへ行ったのか、わたくしにはまだ言えませんの」


 先生は筆を止めて、何もおっしゃらなかった。


 紙の擦れる音だけがした。


 この方は三年前までこの屋敷へ通っていたのだと、先日伺った。名は伺っていない。


 伺わないと決めたのは私だ。だから私はこの方を先生とお呼びする。


 私は箱の蓋に指をかけた。かけたまま、いちど先生を見た。


 先生は、うなずかれた。


 中には綴りが四つ。革ではなく、麻の紐で括ったものだった。


「厨房の下げ物の控えと、侍女の当番帳と、日誌の原本でございます」


「日誌は書庫にもございますわね」


「書庫にあるのは写しでございます。原本は、わたくしの部屋に移しました」


「なぜ」


「焼くようにと、申しつけられましたので」


 私は綴りの縁に指をかけたまま、しばらく動かせなかった。


「どなたに」


「……お答えしかねます」


「ギュンター」


「わたくしは、記録を捨てぬ性分でございます。焼けと申しつけられたものは、なおさら捨てられません」


 家令は五十八になる。この屋敷に入ったのは、旦那様がお生まれになる前だと聞いた。


 私は最初の一冊をひらいた。厨房の字は角が丸い。


「朝、粥。昼、鶏の澄まし。夜、蒸した白身」


「はい」


「ぜんぶ運んだと、書いてございますわね」


「その右の端を、ご覧ください」


 行の端に、細い符号が振ってあった。丸と、ばつと、三角。


「これは」


「下げた皿の控えでございます。手をつけずに下げたものに、丸をつけております」


 私は目で追った。


 丸、丸、丸。


 七月の半ばから、丸がほとんど途切れない。


「……十二週ぶん、丸ばかりが続いております」


「はい」


「お義姉様は、召し上がっていなかったのですか」


「そこが、わかりませんでした」


 手をつけなかったのは、召し上がれなかったからなのか、召し上がらなかったからなのか。


 厨房の符号は、皿が減ったかどうかしか書き留めていない。そこから先は、扉の内側にいた人にしかわからないことだ。


 マルタは、最後の三月はお部屋から出られませんでしたと言った。出られない人のところへ、盆だけが運ばれていた。


 先生が身を乗り出して、控えを引き寄せられた。


「盆は、だれが運びましたか」


「侍女が、日替わりで三人」


「部屋に入ったのは」


「入っておりません」


 私は顔を上げた。


「入らない、とは」


「扉の前でシャルロッテ様にお渡しして、戻っております。下げるときも、扉の前でお受けしております」


「三月、ぜんぶですか」


「ぜんぶでございます。当番帳の三人に、わたくしが二度ずつ確かめました」


 当番帳には、侍女の名と時刻が並んでいた。


 そのどの行にも、部屋の中のことが一字も書かれていない。


 書けなかったのだ。だれも見ていないのだから。


「先生」


「はい」


「薬は、厨房で煎じますの」


「煎じます。根を乾かしたものを、朝いちばんに」


 先生がそう言われると、ギュンターが綴りを二冊めに替えた。


「前の奥様のぶんは、朝の鐘のまえに煎じて、土瓶で運ぶのが決まりでございました」


「その記録は」


「七月の十二日までは、毎朝ついております」


「十二日」


「その翌日から、一行もございません」


 先生の手が、土瓶の記録の上で止まった。


 止まったまま、しばらく動かなかった。


 私は帳簿のほうを見た。薬代は、その翌日からも毎週きちんと計上されている。


 金貨二枚。金貨二枚。金貨二枚。


 買われていて、煎じられていない。それが十二週ぶん並んでいる。


 帳簿のうえで筋が通らない箇所は、帳簿の書き方が悪いか、品がどこかへ抜けているかのどちらかだ。実家の番頭はそう教えてくれた。


 この帳簿の書き方は悪くない。私が三年かけて洗ったから、それはわかる。


 では品が抜けている。週に金貨二枚の薬包が、十二週ぶん、どこかへ。


 先生が、私の指の先を見ておられた。


「公爵夫人」


「はい」


「氷花の根は、煎じずに飲むことはできません」


「では、煎じられなかったぶんは」


「どこへも行っていないか、捨てられたか。……そのどちらかです」


「もうひとつ、お目にかけたいものがございます」


 箱のいちばん下から出てきたのは、薄い綴りだった。


「玄関の取次簿でございます。どなたがお越しになって、どなたにお会いになったか、ぜんぶ書きます」


 先生が、はじめて背を起こされた。


「見せてください」


 綴りは先生の手に渡った。指が日付をたどっていく。


「七月十四日」


「はい」


「十八日。二十一日。二十五日」


 声が、だんだん低くなっていった。


「……ぜんぶで、十七」


「十七でございます。いずれも、おなじ書き方で」


 私は横から覗きこんだ。


 細い字で、おなじ一行が十七回並んでいた。


 ――主治医殿、お会いにならず。


「どなたが、そうおっしゃったのですか」


「シャルロッテ様でございます。姉が会いたくないと言っている、と」


 先生が、綴りの上に自分の手を置かれた。


 右手の甲の古い凍傷の跡が、燭台の火で白く光った。


「……私の記録と、合わせてください」


 先生が薬箱から出したのは、擦り切れた手帳だった。


 ひらいた面に、日付が並んでいた。


 十七。おなじ日に、おなじ数だけあった。


「十七回、こちらへ来られたのですね」


「はい」


「そして十七回、帰られた」


「はい」


 先生はそれだけおっしゃって、口を閉じられた。


 この方は夏の泥と秋の霧の坂を十七回のぼって、十七回、扉の前で帰されたのだ。


 その年の雪は、十月の末から降りはじめた。踏めば、いまでも下でかたい音がする。あの秋のあとに積もったものが、庭のどこかで固まったままだ。


「ギュンター」


「はい」


「あなたは三年、この箱を開けませんでしたのね」


「開けませんでした」


「では、なぜ今お出しになるの」


 家令は燭台の火を見ていた。


「奥様が、帳簿をお付けになるからでございます」


「……帳簿」


「前の奥様は、帳簿をご覧になりませんでした。わたくしは三年、数字をどこへも持っていけませんでした」


 先生が、燭台の向こうで少し目を上げた。


「記録をつける方にしか、記録はお渡しできません。わたくしの性分でございます」


 私は綴りを四つ、机の上に並べた。


 厨房の控え。当番帳。日誌。取次簿。


 これで、扉の外の三月はぜんぶ埋まった。埋まっていないのは、扉の内側だけだ。


 その内側にいたのは、ふたりだけだと聞いている。ひとりはもうこの世にいない。


 もうひとりは、いまもこの屋敷にいて、あのお部屋の鍵を持ったまま、旦那様にも渡していない。


「ギュンター。この四つは、わたくしがお預かりしてよろしいの」


「奥様のお手もとにございますのが、いちばん安全でございましょう」


「わたくしが写しを二部つくりますわ。一部は先生に、一部は王都へ送って実家の番頭に預けます」


「……なぜ、王都に」


「この屋敷で火が出ても、王都までは燃えませんから」


 ギュンターは、少し長く私を見た。それから、深く頭を下げた。


「ギュンター。最後に、ひとつだけお訊きします」


「はい」


「お義姉様は、最後の三月、何を召し上がっていましたか」


 家令は背筋を伸ばして、それからゆっくりと答えた。


「厨房から出たものは、ほとんど手つかずで戻りました。あの三月、お盆に手を触れることを許されたのは、シャルロッテ様おひとりでございます。厨房の者は、だれも入っておりません」


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