第12話「お義姉様は、最後の三月、何を召し上がっていましたか」
完結まで描き切っている作品です。良かったら、ブックマーク次話をお待ちください。
十二月の夜の廊下は、息が白くなるほど冷える。
書庫へ降りる階段の下に、人が立っていた。
家令のギュンターだった。両手で、蓋のついた木の箱を抱えている。
「奥様。夜分に、お待ち申し上げておりました」
「ギュンター。こんな時刻にどうしました」
「これを、お納めいただきたく」
呼んだ覚えはない。この方が向こうから用を持ってこられたのは、三年でこれがはじめてだった。
書庫の扉を押すと、机の燭台がひとつだけ灯っていた。
暖炉は焚いていない。ここで人と会っていると、屋敷のだれにも言いたくなかったからだ。
その灯りの向こうに、先生が座っておられる。
ギュンターは先生の顔を一度だけ見て、それから何も訊かずに箱を机へ置いた。
置かれると、埃のにおいがひろがった。
机には帳簿が開いたままになっていた。先生が余白に、数字だけを書き写しておられる。字は細くて、まっすぐだった。
「……週に、金貨二枚」
「ええ。十二週ぶん、きちんと出ておりますわ」
「金貨二十四枚」
「その二十四枚がどこへ行ったのか、わたくしにはまだ言えませんの」
先生は筆を止めて、何もおっしゃらなかった。
紙の擦れる音だけがした。
この方は三年前までこの屋敷へ通っていたのだと、先日伺った。名は伺っていない。
伺わないと決めたのは私だ。だから私はこの方を先生とお呼びする。
私は箱の蓋に指をかけた。かけたまま、いちど先生を見た。
先生は、うなずかれた。
中には綴りが四つ。革ではなく、麻の紐で括ったものだった。
「厨房の下げ物の控えと、侍女の当番帳と、日誌の原本でございます」
「日誌は書庫にもございますわね」
「書庫にあるのは写しでございます。原本は、わたくしの部屋に移しました」
「なぜ」
「焼くようにと、申しつけられましたので」
私は綴りの縁に指をかけたまま、しばらく動かせなかった。
「どなたに」
「……お答えしかねます」
「ギュンター」
「わたくしは、記録を捨てぬ性分でございます。焼けと申しつけられたものは、なおさら捨てられません」
家令は五十八になる。この屋敷に入ったのは、旦那様がお生まれになる前だと聞いた。
私は最初の一冊をひらいた。厨房の字は角が丸い。
「朝、粥。昼、鶏の澄まし。夜、蒸した白身」
「はい」
「ぜんぶ運んだと、書いてございますわね」
「その右の端を、ご覧ください」
行の端に、細い符号が振ってあった。丸と、ばつと、三角。
「これは」
「下げた皿の控えでございます。手をつけずに下げたものに、丸をつけております」
私は目で追った。
丸、丸、丸。
七月の半ばから、丸がほとんど途切れない。
「……十二週ぶん、丸ばかりが続いております」
「はい」
「お義姉様は、召し上がっていなかったのですか」
「そこが、わかりませんでした」
手をつけなかったのは、召し上がれなかったからなのか、召し上がらなかったからなのか。
厨房の符号は、皿が減ったかどうかしか書き留めていない。そこから先は、扉の内側にいた人にしかわからないことだ。
マルタは、最後の三月はお部屋から出られませんでしたと言った。出られない人のところへ、盆だけが運ばれていた。
先生が身を乗り出して、控えを引き寄せられた。
「盆は、だれが運びましたか」
「侍女が、日替わりで三人」
「部屋に入ったのは」
「入っておりません」
私は顔を上げた。
「入らない、とは」
「扉の前でシャルロッテ様にお渡しして、戻っております。下げるときも、扉の前でお受けしております」
「三月、ぜんぶですか」
「ぜんぶでございます。当番帳の三人に、わたくしが二度ずつ確かめました」
当番帳には、侍女の名と時刻が並んでいた。
そのどの行にも、部屋の中のことが一字も書かれていない。
書けなかったのだ。だれも見ていないのだから。
「先生」
「はい」
「薬は、厨房で煎じますの」
「煎じます。根を乾かしたものを、朝いちばんに」
先生がそう言われると、ギュンターが綴りを二冊めに替えた。
「前の奥様のぶんは、朝の鐘のまえに煎じて、土瓶で運ぶのが決まりでございました」
「その記録は」
「七月の十二日までは、毎朝ついております」
「十二日」
「その翌日から、一行もございません」
先生の手が、土瓶の記録の上で止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
私は帳簿のほうを見た。薬代は、その翌日からも毎週きちんと計上されている。
金貨二枚。金貨二枚。金貨二枚。
買われていて、煎じられていない。それが十二週ぶん並んでいる。
帳簿のうえで筋が通らない箇所は、帳簿の書き方が悪いか、品がどこかへ抜けているかのどちらかだ。実家の番頭はそう教えてくれた。
この帳簿の書き方は悪くない。私が三年かけて洗ったから、それはわかる。
では品が抜けている。週に金貨二枚の薬包が、十二週ぶん、どこかへ。
先生が、私の指の先を見ておられた。
「公爵夫人」
「はい」
「氷花の根は、煎じずに飲むことはできません」
「では、煎じられなかったぶんは」
「どこへも行っていないか、捨てられたか。……そのどちらかです」
「もうひとつ、お目にかけたいものがございます」
箱のいちばん下から出てきたのは、薄い綴りだった。
「玄関の取次簿でございます。どなたがお越しになって、どなたにお会いになったか、ぜんぶ書きます」
先生が、はじめて背を起こされた。
「見せてください」
綴りは先生の手に渡った。指が日付をたどっていく。
「七月十四日」
「はい」
「十八日。二十一日。二十五日」
声が、だんだん低くなっていった。
「……ぜんぶで、十七」
「十七でございます。いずれも、おなじ書き方で」
私は横から覗きこんだ。
細い字で、おなじ一行が十七回並んでいた。
――主治医殿、お会いにならず。
「どなたが、そうおっしゃったのですか」
「シャルロッテ様でございます。姉が会いたくないと言っている、と」
先生が、綴りの上に自分の手を置かれた。
右手の甲の古い凍傷の跡が、燭台の火で白く光った。
「……私の記録と、合わせてください」
先生が薬箱から出したのは、擦り切れた手帳だった。
ひらいた面に、日付が並んでいた。
十七。おなじ日に、おなじ数だけあった。
「十七回、こちらへ来られたのですね」
「はい」
「そして十七回、帰られた」
「はい」
先生はそれだけおっしゃって、口を閉じられた。
この方は夏の泥と秋の霧の坂を十七回のぼって、十七回、扉の前で帰されたのだ。
その年の雪は、十月の末から降りはじめた。踏めば、いまでも下でかたい音がする。あの秋のあとに積もったものが、庭のどこかで固まったままだ。
「ギュンター」
「はい」
「あなたは三年、この箱を開けませんでしたのね」
「開けませんでした」
「では、なぜ今お出しになるの」
家令は燭台の火を見ていた。
「奥様が、帳簿をお付けになるからでございます」
「……帳簿」
「前の奥様は、帳簿をご覧になりませんでした。わたくしは三年、数字をどこへも持っていけませんでした」
先生が、燭台の向こうで少し目を上げた。
「記録をつける方にしか、記録はお渡しできません。わたくしの性分でございます」
私は綴りを四つ、机の上に並べた。
厨房の控え。当番帳。日誌。取次簿。
これで、扉の外の三月はぜんぶ埋まった。埋まっていないのは、扉の内側だけだ。
その内側にいたのは、ふたりだけだと聞いている。ひとりはもうこの世にいない。
もうひとりは、いまもこの屋敷にいて、あのお部屋の鍵を持ったまま、旦那様にも渡していない。
「ギュンター。この四つは、わたくしがお預かりしてよろしいの」
「奥様のお手もとにございますのが、いちばん安全でございましょう」
「わたくしが写しを二部つくりますわ。一部は先生に、一部は王都へ送って実家の番頭に預けます」
「……なぜ、王都に」
「この屋敷で火が出ても、王都までは燃えませんから」
ギュンターは、少し長く私を見た。それから、深く頭を下げた。
「ギュンター。最後に、ひとつだけお訊きします」
「はい」
「お義姉様は、最後の三月、何を召し上がっていましたか」
家令は背筋を伸ばして、それからゆっくりと答えた。
「厨房から出たものは、ほとんど手つかずで戻りました。あの三月、お盆に手を触れることを許されたのは、シャルロッテ様おひとりでございます。厨房の者は、だれも入っておりません」
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