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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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13/30

第13話「これは、病の記録ではありません」

 冬館の北の小間が、先生の部屋になっている。


 もとは乾物を置く部屋で、窓が高いところに一つしかない。そのぶん、においが逃げない。


 乾かした根と、煎じたあとの滓と、酢のにおいが混ざっている。冷たいのに、生きているにおいだった。


 私は綴りを四つ抱えて、その部屋の戸を叩いた。


 廊下でマルタに会ったけれど、あの人は何も訊かずに燭台を貸してくれた。


 行ってらっしゃいませ、奥様、と言われた。


「公爵夫人」


「夜分に失礼いたします。わたくし、ギュンターのものをお目にかけたくて参りました」


「どうぞ」


 炭が一つだけ熾っていた。先生はその前に薬箱を置いて、座っておられた。


 私は綴りを床に並べた。並べてから、両手を膝に置いて待った。


「昨夜、申し上げたかったことがございます」


「はい」


「帳簿と厨房の控えと取次簿で、扉の外はぜんぶ埋まりました。けれど、わたくしには、扉の内側が埋まりません」


「……はい」


「お義姉様が、七月からどうしておられたのか。それを知っている人が、この屋敷にひとりもおりませんの」


 先生は炭を見ておられた。


 それから、薬箱のふたを開けられた。


 二段めの底を指で押すと、板が浮いた。中から出てきたのは、油紙の包みだった。


「……三年、持っていました」


「これは」


「診療の記録です。私が書いたものの、原本です」


 私は手を伸ばしかけて、止めた。


「よろしいのですか」


「読める方に読んでもらうために、持っていました」


 油紙は何度も折り直したらしく、角が布のように柔らかくなっていた。


 中の紙は厚い。日付と、脈と、薬の量が、あの細いまっすぐな字で並んでいた。


「あの方が十六になられた春から、書いてございますわね」


「はじめてお会いしたのが、その春です」


「ご病名は」


「生来の心弱です。生まれつき、心の臓の力が弱い」


「それは、治りますの」


「治りません。抑えるだけです」


 私は次の面をめくった。おなじ量の数字が、週ごとに並んでいる。


「氷花の根の煎じ薬が、週に一度」


「一週ぶんで金貨二枚です。それを毎週、欠かさずに」


「欠かさなければ」


「欠かさなければ、あの方はふつうに生きておられました。走れば息が切れる。それだけです」


 その一行だけが、二十四で亡くなる人の記録には見えなかった。


「欠かしたら、どうなりますの」


 先生はすぐには答えなかった。


 炭が小さく鳴った。


「止めれば、三月です」


「三月」


「はじめの半月ほどは、なんとも起きません。そのあと手足が冷え、動かなくなります。三月めに、心の臓が止まります」


「……毒ではありませんのね」


「毒ではありません。飲ませなければいいだけです」


 私は膝の上で指を握った。握って、ひらいた。


 毒なら、残る。薬は、なくても残らない。


 人を死なせるのに、入れなくてよいのだ。出さなければいい。器のほうを空けておけばいい。


 そしてその花は、この領地の雪の下からしか出ない。この土地を富ませているのは、あの白い小さな花である。


 領地を富ませている花で、この家の前の奥様は死んだ。それを止めるのに要ったのは、鍋を一つ火にかけないことだけだった。


「七月のところを、ご覧ください」


 言われて、私は紙をめくった。


 七月十二日。脈の数が書いてある。薬を飲まれた、とある。


 そして、次の行から字が変わっていた。急いで書いた字だ。


「七月の二十九日。……右の手足が動かず」


「はい」


「八月四日。体を起こせず。八月十一日。右の頬が下がる」


「そこまでは、侍女部の話を門番づてに聞いて書きました」


「門の外」


「入れていただけませんでしたので」


 私は紙の端を持ったまま、しばらく声が出なかった。


「先生」


「はい」


「これは、七月十二日に薬が止まったということですか」


「厨房で煎じられた最後が、その日です」


「そのあとに納められたぶんは、どうなりましたの」


「わかりません。私は、それを飲まれるところを見ていません」


 厨房の記録では、煎じた記録が七月十二日までしかない。


 この方の記録で薬が最後に飲まれた日と、煎じ鍋が消えた日が、おなじ日だった。


「亡くなられたのは、九月三十日でしたわね」


「はい」


「七月十二日から、九月三十日まで」


「二月と、十八日です」


「三月には、少し足りません」


「あの方は、もとから弱い心の臓でした」


 私は目を上げた。先生の灰緑の目は、炭の火を映していなかった。


「……もうひとつ、お目にかけたいものがございます」


 私は綴りの下から、薄い紙束を出した。記録庫から出してきた写しである。


「公爵家に残っている、診療の控えです」


「見せてください」


 先生は受け取って、三枚めまでめくった。


 そこで、手が止まった。


「……七月より、胸の痛み強し。食欲なし。安静を申し渡す」


「ええ」


「九月、衰弱進む。心の臓の衰えと診る」


 声が低くなった。


「公爵夫人。これは、私の字ではありません」


「そう思いました」


「右の手足のことが、一字も書かれていません」


「投薬の量も、ございませんわね」


「七月より以前のぶんは、写されています。七月からの三月だけが、書き替えられています。医師団へ出されたものとは、別の紙です」


 私は二つの紙を、床に並べた。


 先生の字と、だれかの字。


 おなじ三月を書いているのに、片方には麻痺と薬があり、片方にはどちらもない。


 書き替えた人は、麻痺と薬を消したかったのだ。


 麻痺が残っていれば、いつから動けなくなったのかがわかる。薬の量が残っていれば、いつ止まったのかがわかる。


 その二つを消してしまえば、あとに残るのは弱った心の臓だけになる。生まれつき弱かった人が、弱って亡くなった。だれも数えない話になる。


 三年、この家のみんながその話を信じてきた。私もこの屋敷へ来た日に、そう聞かされた。


「先生」


「はい」


「お義姉様は、右半身が動かなくなっていたのですね」


「七月の終わりには、そうでした」


「では、字はお書きになれましたか」


 先生は、少し黙られた。


「左が動いていたなら、書けたかもしれません」


「かもしれない、ですの」


「紙は、押さえなければ書けません。片手では滑ります」


 押さえる手。


 私はそれを、胸の内に書き留めた。


「八月から先のことは、私は門の外にいましたので言えません。断じるのは、医師のすることではありません」


「わかりますわ」


「わかる方に渡したかったのです。三年、ずっと」


 炭が崩れた。赤いものが灰の下へ沈んだ。


 私はもういちど、二つの紙を見比べた。


 片方は、薬の量が週ごとに並んでいる。もう片方は、それがぜんぶない。


「先生。この原本は、なんの記録なのでしょう」


 先生は、自分の書いた紙を指で押さえてこう言われた。


「これは、病の記録ではありません」


「……では、何の記録ですか」


「薬が止まった日から、亡くなる日までの記録です」


 喉の奥が鳴った。唾を飲む音が、自分の耳にいつまでも残った。


 この方は三年、これを抱えて雪の中を歩いていた。読める人がどこにもいなかったからだ。


「これで、薬が止まったことは言えますわね」


「言えます」


「止まれば三月で亡くなることも」


「それも言えます」


「けれど、だれが止めたのかは」


「言えません」


「旦那様に、お見せになりますか」


 先生がそう訊かれた。


「いえ。まだですわ」


「なぜです」


「あの方は誠実な方ですから、ご自分でシャルロッテ様にお訊きになります」


「訊けば」


「訊かれたほうは、燃やすものを決められますわ」


 先生は、それ以上おっしゃらなかった。


 先生は原本を油紙に戻して、薬箱の底へ納められた。


「あとは、一枚です」


「一枚」


「往診を断られた日付と、あとで聞いた紙の日付を、私は手帳の同じ面に並べました」


「あとで、とは」


「除名になったあとです。領都の薬種商が話しておりました。公爵夫人の最後のお言葉には日付があると」


「では、その日付は」


「九月二十八日。亡くなる二日前です。あの方の字で書かれた紙があると聞きました」


「……遺言ですわね」


「私はそれを、まだ見ていません」


 遺言。


 旦那様が三年守っておられるもの。シャルロッテ様だけが、お義姉様の口から聞いたというもの。


 私はその紙を、まだ一度も見ていない。この家のだれかに見せてもらったこともない。


 三年、あの一枚のために扉は開かなかった。それなのに、旦那様と妹君のほかにあれを読んだ者がいるのかどうかさえ、私は知らないままだ。


 窓の高いところを見ると、そこだけ夜が見えた。雪はまだ降っていた。


 去年の雪の上に、今年の雪が乗っていく。


 ――あと一枚。その一枚だけが、まだ雪の下にある。


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