第13話「これは、病の記録ではありません」
冬館の北の小間が、先生の部屋になっている。
もとは乾物を置く部屋で、窓が高いところに一つしかない。そのぶん、においが逃げない。
乾かした根と、煎じたあとの滓と、酢のにおいが混ざっている。冷たいのに、生きているにおいだった。
私は綴りを四つ抱えて、その部屋の戸を叩いた。
廊下でマルタに会ったけれど、あの人は何も訊かずに燭台を貸してくれた。
行ってらっしゃいませ、奥様、と言われた。
「公爵夫人」
「夜分に失礼いたします。わたくし、ギュンターのものをお目にかけたくて参りました」
「どうぞ」
炭が一つだけ熾っていた。先生はその前に薬箱を置いて、座っておられた。
私は綴りを床に並べた。並べてから、両手を膝に置いて待った。
「昨夜、申し上げたかったことがございます」
「はい」
「帳簿と厨房の控えと取次簿で、扉の外はぜんぶ埋まりました。けれど、わたくしには、扉の内側が埋まりません」
「……はい」
「お義姉様が、七月からどうしておられたのか。それを知っている人が、この屋敷にひとりもおりませんの」
先生は炭を見ておられた。
それから、薬箱のふたを開けられた。
二段めの底を指で押すと、板が浮いた。中から出てきたのは、油紙の包みだった。
「……三年、持っていました」
「これは」
「診療の記録です。私が書いたものの、原本です」
私は手を伸ばしかけて、止めた。
「よろしいのですか」
「読める方に読んでもらうために、持っていました」
油紙は何度も折り直したらしく、角が布のように柔らかくなっていた。
中の紙は厚い。日付と、脈と、薬の量が、あの細いまっすぐな字で並んでいた。
「あの方が十六になられた春から、書いてございますわね」
「はじめてお会いしたのが、その春です」
「ご病名は」
「生来の心弱です。生まれつき、心の臓の力が弱い」
「それは、治りますの」
「治りません。抑えるだけです」
私は次の面をめくった。おなじ量の数字が、週ごとに並んでいる。
「氷花の根の煎じ薬が、週に一度」
「一週ぶんで金貨二枚です。それを毎週、欠かさずに」
「欠かさなければ」
「欠かさなければ、あの方はふつうに生きておられました。走れば息が切れる。それだけです」
その一行だけが、二十四で亡くなる人の記録には見えなかった。
「欠かしたら、どうなりますの」
先生はすぐには答えなかった。
炭が小さく鳴った。
「止めれば、三月です」
「三月」
「はじめの半月ほどは、なんとも起きません。そのあと手足が冷え、動かなくなります。三月めに、心の臓が止まります」
「……毒ではありませんのね」
「毒ではありません。飲ませなければいいだけです」
私は膝の上で指を握った。握って、ひらいた。
毒なら、残る。薬は、なくても残らない。
人を死なせるのに、入れなくてよいのだ。出さなければいい。器のほうを空けておけばいい。
そしてその花は、この領地の雪の下からしか出ない。この土地を富ませているのは、あの白い小さな花である。
領地を富ませている花で、この家の前の奥様は死んだ。それを止めるのに要ったのは、鍋を一つ火にかけないことだけだった。
「七月のところを、ご覧ください」
言われて、私は紙をめくった。
七月十二日。脈の数が書いてある。薬を飲まれた、とある。
そして、次の行から字が変わっていた。急いで書いた字だ。
「七月の二十九日。……右の手足が動かず」
「はい」
「八月四日。体を起こせず。八月十一日。右の頬が下がる」
「そこまでは、侍女部の話を門番づてに聞いて書きました」
「門の外」
「入れていただけませんでしたので」
私は紙の端を持ったまま、しばらく声が出なかった。
「先生」
「はい」
「これは、七月十二日に薬が止まったということですか」
「厨房で煎じられた最後が、その日です」
「そのあとに納められたぶんは、どうなりましたの」
「わかりません。私は、それを飲まれるところを見ていません」
厨房の記録では、煎じた記録が七月十二日までしかない。
この方の記録で薬が最後に飲まれた日と、煎じ鍋が消えた日が、おなじ日だった。
「亡くなられたのは、九月三十日でしたわね」
「はい」
「七月十二日から、九月三十日まで」
「二月と、十八日です」
「三月には、少し足りません」
「あの方は、もとから弱い心の臓でした」
私は目を上げた。先生の灰緑の目は、炭の火を映していなかった。
「……もうひとつ、お目にかけたいものがございます」
私は綴りの下から、薄い紙束を出した。記録庫から出してきた写しである。
「公爵家に残っている、診療の控えです」
「見せてください」
先生は受け取って、三枚めまでめくった。
そこで、手が止まった。
「……七月より、胸の痛み強し。食欲なし。安静を申し渡す」
「ええ」
「九月、衰弱進む。心の臓の衰えと診る」
声が低くなった。
「公爵夫人。これは、私の字ではありません」
「そう思いました」
「右の手足のことが、一字も書かれていません」
「投薬の量も、ございませんわね」
「七月より以前のぶんは、写されています。七月からの三月だけが、書き替えられています。医師団へ出されたものとは、別の紙です」
私は二つの紙を、床に並べた。
先生の字と、だれかの字。
おなじ三月を書いているのに、片方には麻痺と薬があり、片方にはどちらもない。
書き替えた人は、麻痺と薬を消したかったのだ。
麻痺が残っていれば、いつから動けなくなったのかがわかる。薬の量が残っていれば、いつ止まったのかがわかる。
その二つを消してしまえば、あとに残るのは弱った心の臓だけになる。生まれつき弱かった人が、弱って亡くなった。だれも数えない話になる。
三年、この家のみんながその話を信じてきた。私もこの屋敷へ来た日に、そう聞かされた。
「先生」
「はい」
「お義姉様は、右半身が動かなくなっていたのですね」
「七月の終わりには、そうでした」
「では、字はお書きになれましたか」
先生は、少し黙られた。
「左が動いていたなら、書けたかもしれません」
「かもしれない、ですの」
「紙は、押さえなければ書けません。片手では滑ります」
押さえる手。
私はそれを、胸の内に書き留めた。
「八月から先のことは、私は門の外にいましたので言えません。断じるのは、医師のすることではありません」
「わかりますわ」
「わかる方に渡したかったのです。三年、ずっと」
炭が崩れた。赤いものが灰の下へ沈んだ。
私はもういちど、二つの紙を見比べた。
片方は、薬の量が週ごとに並んでいる。もう片方は、それがぜんぶない。
「先生。この原本は、なんの記録なのでしょう」
先生は、自分の書いた紙を指で押さえてこう言われた。
「これは、病の記録ではありません」
「……では、何の記録ですか」
「薬が止まった日から、亡くなる日までの記録です」
喉の奥が鳴った。唾を飲む音が、自分の耳にいつまでも残った。
この方は三年、これを抱えて雪の中を歩いていた。読める人がどこにもいなかったからだ。
「これで、薬が止まったことは言えますわね」
「言えます」
「止まれば三月で亡くなることも」
「それも言えます」
「けれど、だれが止めたのかは」
「言えません」
「旦那様に、お見せになりますか」
先生がそう訊かれた。
「いえ。まだですわ」
「なぜです」
「あの方は誠実な方ですから、ご自分でシャルロッテ様にお訊きになります」
「訊けば」
「訊かれたほうは、燃やすものを決められますわ」
先生は、それ以上おっしゃらなかった。
先生は原本を油紙に戻して、薬箱の底へ納められた。
「あとは、一枚です」
「一枚」
「往診を断られた日付と、あとで聞いた紙の日付を、私は手帳の同じ面に並べました」
「あとで、とは」
「除名になったあとです。領都の薬種商が話しておりました。公爵夫人の最後のお言葉には日付があると」
「では、その日付は」
「九月二十八日。亡くなる二日前です。あの方の字で書かれた紙があると聞きました」
「……遺言ですわね」
「私はそれを、まだ見ていません」
遺言。
旦那様が三年守っておられるもの。シャルロッテ様だけが、お義姉様の口から聞いたというもの。
私はその紙を、まだ一度も見ていない。この家のだれかに見せてもらったこともない。
三年、あの一枚のために扉は開かなかった。それなのに、旦那様と妹君のほかにあれを読んだ者がいるのかどうかさえ、私は知らないままだ。
窓の高いところを見ると、そこだけ夜が見えた。雪はまだ降っていた。
去年の雪の上に、今年の雪が乗っていく。
――あと一枚。その一枚だけが、まだ雪の下にある。
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