第29話「わたくしは、伯爵令嬢に戻りました」
王都からの書付は、二月の三日に届いた。
書記官局の文言は短かった。
「ギュンター。読み上げてくださる?」
「わたくしが、でございますか」
「三年待った文ですから。だれかの声で聞きたいのです」
ギュンターは咳をひとつして、紙を持ち直した。
「――当該の婚姻は、初めより成立せざるものとする」
「もう一度」
「――初めより、成立せざるものとする」
「ありがとう」
離縁ではないのである。解いたのでもない。三年の婚姻が、法の上で最初からなかったことになった。
「奥様。ご署名をいただきたいのでございますが」
ギュンターが受領の帳面を差し出した。
「どちらの名で書けばよろしいの」
「……そこが、わたくしにも判じかねまして」
「フォークナーの名は、もうわたくしのものではございませんでしょう」
「はい。恐れながら、そうなります」
「では、こう書きますわ」
レオノーラ・ヴェルティ。
三年ぶりに書いた。手が形を覚えていて、迷わずに書けたのが不思議だった。
「懐かしい字でございましょう」
「そうですわね。この名で帳簿を付けたことは、一度もございませんの」
「これから、いくらでもお付けになれます」
ギュンターは、めずらしく口の端を上げた。
その日の午後、記録庫から証書の箱を出させた。
北方氷花交易協定。王国最北の氷花を、南の六つの都市へ通す取り決めである。三年前、私の持参金で結び直した。
「名義は、奥様お一人のものでございます」
「ええ。作らせたときから、そのつもりでしたわ」
「公爵家の印は、副署のみでございますね」
「ですから、婚姻が無かったことになっても、協定は生きております」
「……三年前に、そこまでお考えでしたか」
「考えておりましたわ」
私は証書を膝に置いた。
三年前の十一月、私はこの城へ運ばれてきた。喪が明けもしないうちに、荷馬車の列の先頭で。
あのとき私は嫁ではなく、担保としてこの雪の下へ運ばれたのだった。北方の交易路を押さえていた実家と、雪の下の花を持つ公爵家をつなぐ、紙の代わりの担保である。
今日、その担保を、私は自分で持って出る。
「協定は、切りませんわ」
「よろしいのですか」
「氷花を掘るのは領民ですから。切れば、あの人たちの冬が困りますでしょう」
「奥様」
「もう奥様ではございませんわ」
「……失礼をいたしました」
ギュンターは深く頭を下げて、それから証書の箱に封をした。
「奥様。もうひとつ、お渡しするものがございます」
ギュンターが小さな鉄の鍵を出した。前の奥様のお部屋の鍵である。ヘルミナ男爵令嬢が三年、だれにも渡さなかったもので、先だって私が仕分けのあとに戻しておいた。
「わたくしが持つものではございませんわ」
「お形見をひとつ、お持ちになってはいかがでしょう」
「いいえ」
それでも私は鍵を受け取って、廊下の突きあたりまで歩いた。
三年入らず、先だってマルタと一度だけ入った部屋である。
鍵を回すと、埃と乾いた花の匂いがした。膝掛けが寝台の足もとに畳んである。仕分けたとき、これだけは残しておいたのだった。
私は窓を開けた。
冷えた風が入って、埃が動いた。それだけをして、窓を閉め、鍵を掛けた。
「お義姉様のお部屋のものは、お義姉様のものですわ」
「……はい」
「鍵は、閣下にお返しくださいませ」
荷は木箱が三つだけになった。
嫁いできたときは十二あった。三年のあいだに、要らないものが増えないような暮らしをしていたのだと思う。
「奥様。これを、お持ちくださいませ」
夕方、マルタが部屋に来た。布に包んだものを両手で持っている。
開けると、厚い陶のインク壺だった。書庫の机で三年使ったものである。
「屋敷のものですわ」
「わたくしが自分の給金で買いました。三年前の冬に」
「……あなたが」
「インクが凍りますので。奥様が指を赤くしてお書きになるのを、見ていられませんでした」
私はインク壺の縁を指でなぞった。少し欠けている。三年目の冬に落として、そのままにしていた。
「マルタ。ひとつ、伺ってよろしいですか」
「なんでございましょう」
「あなたは、わたくしを奥様とお呼びになるとき、いつも一拍置いておられましたわね」
マルタの手が、エプロンの縁を握った。
「……気づいておられましたか」
「三年、数えておりましたの」
「申し訳ございません」
「責めてはおりませんわ。数えていただけです」
マルタは顔を上げなかった。
「わたくしは、前の奥様をお慕いしておりました。あの方がお笑いになると、この屋敷が明るくなりました」
「よく伺いましたわ」
「ですから、奥様とお呼びするたびに、息をひとつ落としておりました。いけないことだと分かっておりました」
「いまも、落としておられますの」
私は訊いた。自分の耳では、聞き分けられなかったからである。
「いいえ。帳簿はわたくしが預かりますと、奥様が仰った日まででございます」
「……あの日」
「はい。あの日に、やめました」
息が止まった。
三年、私は千回の足音を数えていた。なくなったものだけを数えて、なくなった一拍には気づかなかった。
「気づいておられませんでしたか」
「いいえ。いま初めて伺いましたわ」
「では、申し上げておきます」
マルタは背を伸ばして、私を見た。
「奥様」
一拍はなかった。
「奥様。どうぞ、お気をつけて」
二度めもなかった。
翌朝は晴れていた。この土地では月に二度あるかどうかという空だった。
玄関に、使用人が並んでいた。数えたら十九人いた。
三年前、私を迎えに出た者はだれもいなかった。荷を運ぶ者だけが黙って動いていた。
「奥様」
「奥様。ご無事で」
声は揃わなかった。揃わないほうが、本当だと思った。
二階の窓に人影があった。フォークナー公爵閣下だと思う。
私は屋敷に向かって一礼した。この三年、家政を預かった家への礼である。あの窓に向けたものではない。
橇の脇で、ギュンターが手綱を押さえていた。
「ヴェルティのお屋敷までは、七日かかります」
「ええ」
「……テオドール様は、四日前にお城をお発ちになりました」
「伺っておりますわ」
「王都の医師団から、お知らせがあったそうでございます」
「名簿が戻るのですわね。よいことですわ」
手袋の内側で、指を一度だけ握った。
行くとも行かないとも申し上げられないと言った方が、結局、行かれた。それはそれでよいのである。私はもう、だれかが扉を開けるのを待つ側にはいない。
「奥様は、これからどうなさるのでございますか」
「マルタ」
「はい」
「わたくしは、伯爵令嬢に戻りました」
「……はい」
「戻った先で、できることをいたしますわ。帳簿を付けて、協定を回して、氷花をこの土地から南へ送ります」
「奥様らしゅうございます」
「それに、二十二ですから。まだ何にでもなれますでしょう」
マルタが両手で顔を覆った。それから、すぐに下ろした。
橇に乗った。膝にインク壺と証書を載せて、膝掛けを掛けた。この膝掛けは、私が自分の金で買ったものである。
門をくぐるとき、一度だけ振り返った。
庭の隅の雪が、三年前よりも高く積もっている。いちばん下に三年前の雪があって、その上に去年の雪、いちばん上に今年のが載っている。
膝の証書には、レオノーラ・ヴェルティと書いてある。昨日、受領の帳面にも同じ名を書いた。三年ぶりに、手が形を覚えていた名である。
――わたくしは、伯爵令嬢に戻りました。
橇が動いた。
ついに、次は最終話となります。




