第28話【SIDE:アルフレート】「彼女の名を、俺は一度も呼んでいなかった」
アルフレート・フォークナーは、書斎の机に三年分の家政帳簿を積み上げていた。
自分で運んだのではない。家令のギュンターに命じて、書庫から出させたものである。
「三十六巻でございます」
「これで全部か」
「月ごとに一巻、三年分でございます。写しはまた別にございます」
「写しもあるのか」
「奥様が、初めの年にお取らせになりました。古い巻も含めて」
アルフレートは一番下の巻を引き抜いて開いた。
三年前の一月である。自分が一度も見なかった月だった。
薪の量。厩の飼葉。屋根の修繕に払った日雇いの賃。侍女の給金。氷花の買い付け。
どの行も、おなじ字で書かれている。細くて、右に少し倒れた、几帳面な字だった。
一行だけ、他とちがう筆の入り方をしている箇所があった。
「この、猟師の家への金貨三枚は」
「屋根が落ちた家でございます。奥様が公爵家の費用では出せないと仰って、ご自身の財布からお出しになりました」
「なぜ公爵家では出せない」
「前例がないと、わたくしが申し上げました。三年前のわたくしは、奥様に前例のことしか申し上げておりません」
「……それで、彼女は自分で払ったのか」
「はい。帳簿には、貸しとして書いておられます。返っておりません」
アルフレートは、その行をもう一度読んだ。返らないと分かっているものを貸しとして書き残す人間の気の長さについて、彼はこの三年、何ひとつ考えたことがなかった。
「毎晩、お付けでございました」
「毎晩か」
「はい。夕餐のあと、書庫の机で。冬はインクが凍りますので、インク壺を暖炉の脇に置いて」
「……知らなかった」
「お見せする機会がございませんでした」
ギュンターの声は平らだった。責めているのではないのだと、アルフレートは思った。責める必要がないのだ。事実を並べるだけで足りる。
巻の終わりに、署名がある。
レオノーラ・フォークナー。
次の巻にも、その次の巻にもある。三十六回、おなじ名がおなじ形で並んでいた。
アルフレートは、その字を指で追った。
「ギュンター」
「はい」
「俺は、彼女を何と呼んでいた」
しばらく答えがなかった。
「……君と、お呼びでした」
「ほかには」
「ございません」
「三年で、一度もか」
「わたくしの聞いた限りでは、一度もございません」
薪が鳴った。
扉が叩かれて、マルタが湯を運んできた。盆を置いて、机の帳簿を見て、それから一度、口を結んだ。
「旦那様。その巻は、いちばん寒い年のものでございます」
「そうか」
「奥様は、指を湯で温めながらお書きでした。字が乱れるのがお嫌でしたので」
「……乱れていないな」
「はい」
アルフレートは、三年前の夏の巻を探して抜いた。
アデラインが亡くなった年の、最後の三月である。
薬代の欄に、金貨二枚がきちんきちんと並んでいた。毎週、おなじ額、おなじ字。もとの巻をつけていたのはギュンターの手だが、この写しを取った字は、目の前に積んである三十六巻とおなじ字だった。
「ギュンター。この写しを取らせたのは」
「奥様でございます。この屋敷にお越しになって、最初にお命じになったのがこれでございました」
「最初に」
「はい。新しい奥様が古い帳簿の写しを取れと仰ったとき、わたくしは、前の奥様のご遺品を漁られるのかと思いました」
「……そう思ったのか」
「思いました。恥ずかしいことでございます」
「俺は、それすら思わなかった」
思わなかったのではない。考える機会そのものを、自分で閉めていたのだとアルフレートは思った。
アルフレートは巻を閉じた。
閉じてから、また開いた。開いても、そこにあるのは数字と名前だけである。
署名を数えた。三十六あった。
「マルタ」
「はい」
「彼女の名を、俺は一度も呼んでいなかった」
マルタは何も言わなかった。
「……はい」
それだけだった。否定も、取りなしもなかった。
アルフレートは、自分が三年のあいだ名を呼んでいたものを数えはじめた。
シャルロッテ。呼んでいた。朝も夜も、何百回も呼んだ。
アデライン。呼んでいた。もう返事をしない相手の名を、三年、毎日呼んでいた。
ギュンター。マルタ。厩の栗毛の名も呼んだ。犬の名も呼んだ。
三年連れ添った相手の名だけが、一度もなかった。
名を呼ぶというのは、その者を選ぶことだ。アルフレートはそう思ってきた。だから呼ばなかったのだと、今になって分かった。
呼べば、約束が崩れる気がしたのである。
崩れるものは、初めからなかった。シャルロッテが書いた紙が一枚あっただけだった。
「旦那様」
「なんだ」
「王都から、早馬がまいりました」
ギュンターが盆を差し出した。封に、王の印が押してある。
アルフレートは、それを机の端に置いた。
開けなかった。
中身は分かっている。自分が書いて出した紙の返しである。開けば、三年が法の上で消える。
医師団長は、王は公爵家を罰しないと言っていた。城も、雪の下の花も、領民も、そのまま自分の手に残るのだろう。
罰がないということに、彼はしばらく耐えていた。
「ギュンター」
「はい」
「俺は、何を失うのだ」
「……わたくしが申し上げることではございません」
「言ってくれ」
「三年、守っておられたものが、初めから無いものだったということでございます」
「それだけか」
「もうひとつ」
ギュンターは目を上げなかった。
「奥様は、お赦しにならなかったのでございましょう」
窓の外で、屋根の雪が落ちた。
アルフレートは、机の端の封を盆に戻して、家令の手へ押し返した。
「奥様にお持ちしろ。俺が先に開けるものではない」
「……かしこまりました」
翌朝、橇が門を出たあとで、アルフレートは廊下を歩いた。
三年間、足音がその前を通り過ぎるだけだった扉の前で、彼は立ち止まった。三年で千回を超えるはずだった。数えていたのは、自分ではない。
取手に手を掛けた。冷たかった。
回した。三年で初めて、彼はその扉を開けた。
部屋の真ん中の床に、木箱を三つ積んでいた跡がある。寝台の布は剥がされていた。書き物机の上には何もない。
開けても、もう何もなかった。
アルフレートはその場に立って、口を開いた。
呼ぼうとした。
声は出なかった。喉のどこかで音が引っかかって、それ以上動かなかった。三年使わなかったものは、使い方を忘れるらしい。
彼は扉を閉めて、廊下に戻った。
窓のそとは晴れていた。晴れても、積もったものが減る日は、この土地には来ない。
その名を声に出して呼ぶまでに、あとどれだけの雪が積もるのか。
アルフレートには、もう数えるものが何も残っていなかった。




