第27話「婚姻無効は、俺から申し立てる」
旦那様に呼ばれたのは、その三日あとの朝だった。
「奥様。執務室へお越しいただきたいと」
ギュンターは目を伏せたまま、そう告げた。
「ご用向きは伺っておりますか」
「王都へ出す書状のことだと」
「わかりましたわ」
私は帳簿を閉じて、袖の折り目を直した。
息を整えた。
廊下は冷えきっていた。この土地の冬は十月の末にはじまって四月まで終わらない。屋根から落ちるかたまりの音が、いつもとおなじ間隔で鳴っている。
執務室の扉は、開いていた。
珍しいことだった。
旦那様は窓辺に立っておられた。三年前よりも痩せて、亜麻色の髪に白いものが混じっているのが、朝の光でわかった。
「来てくれたか」
「お呼びでしたので」
「座ってくれ」
「立ったままで結構ですわ」
机の上に、書状が一通あった。封はまだしていない。
「読んでくれ」
私は手袋を外して、紙を取った。
宛先は王の書記官局である。差出人の欄に、フォークナー公爵アルフレートの名が書かれていた。
――婚姻法第四十一条により、当家の婚姻は三年を経て実を伴わず。
――第四十七条により、王の承認を仰ぐ。
――当該の非は、ことごとく当家にあり。
指が止まった。
紙が、少し鳴った。
三年前から、私はこの書式を写して引き出しに入れていた。写したのは条文だけである。非の行を、私は埋められなかった。
埋められるのは、公爵家の側だけだったからだ。
「これを、お出しになるのですか」
「出す。今日のうちに早馬を立てる」
「第四十七条は、公爵家に非のある証明を求めております」
「知っている」
「証明は」
「追悼式で、全部そろった」
旦那様は窓から離れて、机の前に来られた。
「俺が守っていたものは、偽りだった」
「はい」
「遺言は書かれていない。アデラインは、あんなことを言っていない」
「そのようですわね」
「俺は、聞いてもいないものを三年守った。そのあいだ、君の扉を開けなかった」
君。
三年のあいだ、この方が私を呼ぶ言葉はそれだけだった。今朝もそれは変わらない。
「婚姻無効は、俺から申し立てる」
そうおっしゃった。
「君から申し立てさせるわけにはいかない」
「なぜでございますか」
「君が申し立てれば、書記官はこう書く」
旦那様は、そこで一度、言葉を切られた。
「公爵夫人に、夫を惹きつける力がなかった――と」
私は黙っていた。
三年前から知っていたことである。だからこそ私は紙を探していた。この方に教えられることではない。
「だから俺が書く。非は当家にある。当家の側が、婚姻の実を結ぶことを拒んだのだと」
「公爵家の名に、傷がつきますわ」
「つけばいい」
「領地は」
「王は取り上げん。医師団長がそう言っていた」
「では、旦那様は何も失われないのですね」
言ってしまってから、自分の声が思ったより低かったことに気がついた。
旦那様は、私を見た。
「……そうだな」
「申し訳ございません。差し出がましいことを申しました」
「いや。そのとおりだ」
机の木目を、しばらく二人で見ていた。
暖炉には火が入っていない。この部屋はいつも寒いのだと、以前マルタが言っていた。前の奥様は、ここへ入るのを嫌がられたのだそうだ。
「ひとつ、訊いていいか」
「どうぞ」
「交易の協定は、どうする」
「持って出ますわ」
「……そうか」
「証書のことは、王都の書記官局にお訊きになればお分かりになります」
「訊かん。訊く立場ではない」
「止める権利は、当家にはない」
「ございませんわ」
「……氷花の値は、上がるな」
「下がりはいたしませんでしょうね」
「領民が困る」
「協定は続けますわ。切るつもりはございません」
「なぜだ」
「帳簿に、領民の名が書いてございますから」
旦那様は、そこで初めて口をつぐまれた。
「ヘルミナ男爵家からは、なにか」
「男爵が詫び状を寄越した。俺は開けていない」
「お開けになりませんの」
「読んでも、シャルロッテが修道院から戻るわけではない」
シャルロッテ。
その名は、今も呼び慣れた形で出てくる。
三年のあいだ、この方が私の名を呼んだことは一度もない。呼び方をご存じないのではないと思う。ただ、呼ぶ用がなかったのだろう。
旦那様は椅子の背に手を掛けて、そのまま立っておられた。
座られないのだと思った。この三年、この方は私の前で楽な姿勢を取ったことがない。誠実な方なのだろう。誠実な方だから、間違えたのだと思う。
「君は」
そこで言葉が切れた。
私は待った。
「君は、三年、帳簿を付けていたな」
「家政を預かっておりましたから」
「俺は、一度も見なかった」
「お見せしませんでしたので」
「見せてくれと言わなかったのは、俺だ」
それも、そのとおりだった。
「もし俺があの扉を開けていたら」
窓の外で、屋根の雪が落ちた。
鈍い音がして、それから静かになった。
「その問いには、お答えできませんわ」
「なぜだ」
「開かなかった扉の向こうのことは、だれにも分かりません」
「……そうか」
「旦那様。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「赦してほしいと、おっしゃいますか」
旦那様は答えなかった。手が、椅子の背を握り直した。
「…………」
「よろしゅうございました」
私は冷たく微笑んだ。
「赦すと申し上げたら、嘘になりますわ」
「……ああ」
「お責めもいたしません。責めたところで、三年は戻りませんでしょう」
「慰めもいたしません。慰めるのは、赦した者の仕事でございます」
声は震えなかった。三年、この声で微笑みを支えてきた。使い方は覚えている。
「では、どうすればいい」
「なにもなさらないでください」
旦那様は、口を開いて、閉じた。
「お書きになったものを、王都へお出しになればよろしいのです。それが、あなた様にできる唯一のことですわ」
「早馬なら、七日ほどで戻るだろう」
「では、二月の頭には」
「早馬は今日のうちに立てる。雪でも早馬なら、往きも復りも抜ける」
「では、支度をいたしますわ」
「君は、出ていくのだな」
「はい」
「行く先は」
「実家に一度戻りますわ。そのあとは、まだ決めておりません」
「そうか」
それだけだった。どこへ行くのかとも、だれと行くのかとも、訊かれなかった。
訊く権利をもう持っていないと思っておられるのだろう。そう思えるだけの分別はある方だった。
旦那様は封蠟を熱して、書状を閉じた。
手が少し揺れて、蠟が縁からこぼれた。紋は、半分だけ潰れて押された。
「これでいい」
「はい」
「……君に、してやれることが、ほかにない」
私は封蠟の潰れた跡を見ていた。
三年分を数えたのは私である。数えたものは、なかったことにはできない。庭の雪はそこにあって、踏めば下でかたい音がする。
だから、赦さなかった。
それだけである。
「ひとつだけ、申し上げます」
「聞こう」
私は背を伸ばした。
「フォークナー公爵閣下」
旦那様の目が、わずかに見開かれた。
三年間、私はこの方を旦那様とお呼びしてきた。一度だけアルフレート様とお呼びしたことがある。あれは、まだ何かが動くと思っていた朝のことだった。
「……そう呼ぶのか」
「はい。もう、そうお呼びするほかにございませんの」
「……そうか」
「あの扉は、もうわたくしの扉ではございません」
それで終わりだった。
旦那様は、何も言い返されなかった。返す言葉を持っていないのだと思う。持たされなかったのではない。三年のあいだ、持とうとされなかっただけである。
私は一礼して、部屋を出た。
廊下に出て、真鍮の取手に手を掛けた。
三年のあいだ、私は扉が開くのを待つ側にいた。待って、通り過ぎられて、数えるのをやめた。
「では、失礼いたします。フォークナー公爵閣下」
そして私は、自分の手でその扉を閉めた。
婚姻無効は、俺から申し立てる――そうおっしゃったのは、あの方だった。
三年待って、私が開けたのではない。向こうが退いたのである。
閉まる音は、思っていたよりも小さかった。




