↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/30

第27話「婚姻無効は、俺から申し立てる」

 旦那様に呼ばれたのは、その三日あとの朝だった。


「奥様。執務室へお越しいただきたいと」


 ギュンターは目を伏せたまま、そう告げた。


「ご用向きは伺っておりますか」


「王都へ出す書状のことだと」


「わかりましたわ」


 私は帳簿を閉じて、袖の折り目を直した。


 息を整えた。


 廊下は冷えきっていた。この土地の冬は十月の末にはじまって四月まで終わらない。屋根から落ちるかたまりの音が、いつもとおなじ間隔で鳴っている。


 執務室の扉は、開いていた。


 珍しいことだった。


 旦那様は窓辺に立っておられた。三年前よりも痩せて、亜麻色の髪に白いものが混じっているのが、朝の光でわかった。


「来てくれたか」


「お呼びでしたので」


「座ってくれ」


「立ったままで結構ですわ」


 机の上に、書状が一通あった。封はまだしていない。


「読んでくれ」


 私は手袋を外して、紙を取った。


 宛先は王の書記官局である。差出人の欄に、フォークナー公爵アルフレートの名が書かれていた。


 ――婚姻法第四十一条により、当家の婚姻は三年を経て実を伴わず。


 ――第四十七条により、王の承認を仰ぐ。


 ――当該の非は、ことごとく当家にあり。


 指が止まった。


 紙が、少し鳴った。


 三年前から、私はこの書式を写して引き出しに入れていた。写したのは条文だけである。非の行を、私は埋められなかった。


 埋められるのは、公爵家の側だけだったからだ。


「これを、お出しになるのですか」


「出す。今日のうちに早馬を立てる」


「第四十七条は、公爵家に非のある証明を求めております」


「知っている」


「証明は」


「追悼式で、全部そろった」


 旦那様は窓から離れて、机の前に来られた。


「俺が守っていたものは、偽りだった」


「はい」


「遺言は書かれていない。アデラインは、あんなことを言っていない」


「そのようですわね」


「俺は、聞いてもいないものを三年守った。そのあいだ、君の扉を開けなかった」


 君。


 三年のあいだ、この方が私を呼ぶ言葉はそれだけだった。今朝もそれは変わらない。


「婚姻無効は、俺から申し立てる」


 そうおっしゃった。


「君から申し立てさせるわけにはいかない」


「なぜでございますか」


「君が申し立てれば、書記官はこう書く」


 旦那様は、そこで一度、言葉を切られた。


「公爵夫人に、夫を惹きつける力がなかった――と」


 私は黙っていた。


 三年前から知っていたことである。だからこそ私は紙を探していた。この方に教えられることではない。


「だから俺が書く。非は当家にある。当家の側が、婚姻の実を結ぶことを拒んだのだと」


「公爵家の名に、傷がつきますわ」


「つけばいい」


「領地は」


「王は取り上げん。医師団長がそう言っていた」


「では、旦那様は何も失われないのですね」


 言ってしまってから、自分の声が思ったより低かったことに気がついた。


 旦那様は、私を見た。


「……そうだな」


「申し訳ございません。差し出がましいことを申しました」


「いや。そのとおりだ」


 机の木目を、しばらく二人で見ていた。


 暖炉には火が入っていない。この部屋はいつも寒いのだと、以前マルタが言っていた。前の奥様は、ここへ入るのを嫌がられたのだそうだ。


「ひとつ、訊いていいか」


「どうぞ」


「交易の協定は、どうする」


「持って出ますわ」


「……そうか」


「証書のことは、王都の書記官局にお訊きになればお分かりになります」


「訊かん。訊く立場ではない」


「止める権利は、当家にはない」


「ございませんわ」


「……氷花の値は、上がるな」


「下がりはいたしませんでしょうね」


「領民が困る」


「協定は続けますわ。切るつもりはございません」


「なぜだ」


「帳簿に、領民の名が書いてございますから」


 旦那様は、そこで初めて口をつぐまれた。


「ヘルミナ男爵家からは、なにか」


「男爵が詫び状を寄越した。俺は開けていない」


「お開けになりませんの」


「読んでも、シャルロッテが修道院から戻るわけではない」


 シャルロッテ。


 その名は、今も呼び慣れた形で出てくる。


 三年のあいだ、この方が私の名を呼んだことは一度もない。呼び方をご存じないのではないと思う。ただ、呼ぶ用がなかったのだろう。


 旦那様は椅子の背に手を掛けて、そのまま立っておられた。


 座られないのだと思った。この三年、この方は私の前で楽な姿勢を取ったことがない。誠実な方なのだろう。誠実な方だから、間違えたのだと思う。


「君は」


 そこで言葉が切れた。


 私は待った。


「君は、三年、帳簿を付けていたな」


「家政を預かっておりましたから」


「俺は、一度も見なかった」


「お見せしませんでしたので」


「見せてくれと言わなかったのは、俺だ」


 それも、そのとおりだった。


「もし俺があの扉を開けていたら」


 窓の外で、屋根の雪が落ちた。


 鈍い音がして、それから静かになった。


「その問いには、お答えできませんわ」


「なぜだ」


「開かなかった扉の向こうのことは、だれにも分かりません」


「……そうか」


「旦那様。ひとつ、伺ってもよろしいですか」


「なんだ」


「赦してほしいと、おっしゃいますか」


 旦那様は答えなかった。手が、椅子の背を握り直した。


「…………」


「よろしゅうございました」


 私は冷たく微笑んだ。


「赦すと申し上げたら、嘘になりますわ」


「……ああ」


「お責めもいたしません。責めたところで、三年は戻りませんでしょう」


「慰めもいたしません。慰めるのは、赦した者の仕事でございます」


 声は震えなかった。三年、この声で微笑みを支えてきた。使い方は覚えている。


「では、どうすればいい」


「なにもなさらないでください」


 旦那様は、口を開いて、閉じた。


「お書きになったものを、王都へお出しになればよろしいのです。それが、あなた様にできる唯一のことですわ」


「早馬なら、七日ほどで戻るだろう」


「では、二月の頭には」


「早馬は今日のうちに立てる。雪でも早馬なら、往きも復りも抜ける」


「では、支度をいたしますわ」


「君は、出ていくのだな」


「はい」


「行く先は」


「実家に一度戻りますわ。そのあとは、まだ決めておりません」


「そうか」


 それだけだった。どこへ行くのかとも、だれと行くのかとも、訊かれなかった。


 訊く権利をもう持っていないと思っておられるのだろう。そう思えるだけの分別はある方だった。


 旦那様は封蠟を熱して、書状を閉じた。


 手が少し揺れて、蠟が縁からこぼれた。紋は、半分だけ潰れて押された。


「これでいい」


「はい」


「……君に、してやれることが、ほかにない」


 私は封蠟の潰れた跡を見ていた。


 三年分を数えたのは私である。数えたものは、なかったことにはできない。庭の雪はそこにあって、踏めば下でかたい音がする。


 だから、赦さなかった。


 それだけである。


「ひとつだけ、申し上げます」


「聞こう」


 私は背を伸ばした。


「フォークナー公爵閣下」


 旦那様の目が、わずかに見開かれた。


 三年間、私はこの方を旦那様とお呼びしてきた。一度だけアルフレート様とお呼びしたことがある。あれは、まだ何かが動くと思っていた朝のことだった。


「……そう呼ぶのか」


「はい。もう、そうお呼びするほかにございませんの」


「……そうか」


「あの扉は、もうわたくしの扉ではございません」


 それで終わりだった。


 旦那様は、何も言い返されなかった。返す言葉を持っていないのだと思う。持たされなかったのではない。三年のあいだ、持とうとされなかっただけである。


 私は一礼して、部屋を出た。


 廊下に出て、真鍮の取手に手を掛けた。


 三年のあいだ、私は扉が開くのを待つ側にいた。待って、通り過ぎられて、数えるのをやめた。


「では、失礼いたします。フォークナー公爵閣下」


 そして私は、自分の手でその扉を閉めた。


 婚姻無効は、俺から申し立てる――そうおっしゃったのは、あの方だった。


 三年待って、私が開けたのではない。向こうが退いたのである。


 閉まる音は、思っていたよりも小さかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。