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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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第26話「テオドール・ヴァイス。それが、私の名です」

 追悼式から、十日が過ぎた。


 雪はあの日よりも深くなって、庭の木立の根もとまで埋めている。屋根から落ちるかたまりの音だけが、夜を細かく区切っていく。


 王都の医師団からの早馬を、ヴェーバー様が領都で添え書きして回してこられた。門をくぐったのは朝のうちである。


「奥様。王宮医師団から、書状が届いております」


 マルタが盆に載せて持ってきた。封蠟に、この屋敷では見たことのない紋が押してある。


「団長様ご自身の印でございますね」


「ええ。ヴェーバー様は、追悼式のあとも領都に留まっておられますから」


「あの方は、雪をご存じないお顔をなさいます」


「王都は、四月には花が咲くそうですわ」


 マルタの口の端が、ほんの少し上がった。


「この雪の中を、早馬でございますか」


「そのようですわね」


「ご苦労なことでございます」


 マルタは盆を置いて、封蠟をしばらく見ていた。


「三年前にも、おなじ紋の書状がまいりました」


「三年前」


「前の奥様の主治医が名簿から消されたという、お知らせでございます。ギュンター様が記録庫に綴じておられます」


「そこには、お名前も書いてございましたのね」


「はい。……奥様は、一度もお訊きになりませんでした」


 訊けば、だれでも教えてくれたのだと思う。


 けれど、あの方が捨てたと言ったものを、よその口から拾うわけにはいかなかった。


 封を切ると、内側から冷えた紙の匂いがした。


 三年前の除名について、王宮医師団は再審を行う。告発者のヘルミナ男爵は署名を取り下げた。領都の医師ボルツは偽証を認めた。そこまでは、この十日のうちに片のついたことだった。


 問題は、そのあとの一行である。


 ――除名の取消は当人の申請によってのみ行う。申請書には、本人の姓名を自署せしむべし。


「……お名前を、書かなければならないのですね」


 私は書状を折りたたんだ。


 紙の折り目を、指で二度押さえた。


 その日の午後、書庫に四人が集まった。


 ヴェーバー様と、家令のギュンターと、私と、先生である。


「三年前、私はあの名簿に線を引いた」


 ヴェーバー様は椅子に腰を下ろすなり、そうおっしゃった。


「引いたのは私の手だ。だれかに書かせたのではない」


「では、消すのも」


「私の手でなければ意味がない」


 ギュンターが机に書類を並べていく。除名取消の申請書と、取次簿の写しと、三年分の家政帳簿の抜き書きだった。


「奥様。こちらの写しは」


「わたくしが整えました。薬代の欄と、服薬の記録が抜けている週を、ぜんぶ並べてございます」


「十二週分でございますね」


「ええ。金貨二枚が十二回、帳簿にだけ残っておりました」


 ヴェーバー様が紙を手に取って、ずいぶん長いあいだ黙っていた。


「公爵夫人。これは、あなたが三年かけてお付けになったものだそうだが」


「家政の帳簿ですから、当然のことですわ」


「当然のことを三年続ける人間は、そう多くない」


 私は答えなかった。褒められ方というものを、この三年で忘れていたのだと思う。


「それに、公爵家の帳簿の写しを出せるのは、家政を預かる者だけでございます」


「うむ」


「ですから、これはわたくしが公爵夫人として出す、最後の写しになりますわ」


 ヴェーバー様は眉を動かしただけで、何も訊かなかった。訊かないでいることのできる方だった。


「団長様。再審には、どれほどかかりますの」


「名簿を戻すだけなら三月だ」


「それだけで、よろしいのですか」


「三年は戻らん」


 ヴェーバー様は、そこで一度だけ先生のほうを見た。


「線を引いたとき、この男は何も言わなかった」


 先生は、壁のほうを見ていた。


「弁明のひとつもせずに出ていった。私はそれを、認めたのだと思った」


「違います」


 先生の声だった。


「違うと、あのとき申し上げるべきでした」


 それだけだった。


 申請書が、机の中ほどへ押し出される。


 姓名を書く欄が、白いままそこにあった。


「では、ご署名を」


 先生が机の前に立った。ペンを取って、それから手が止まった。


 右手の甲に、古い凍傷の跡がある。三年のあいだ、雪の下で薬箱を抱えて歩いてきた手だった。


 ペンの先が、紙のうえで動かない。


 だれも急かさない。


「……三年、書いておりません」


「忘れたか」


「いいえ」


 先生は、ペンを置いた。


 そして、私のほうを向いた。


「公爵夫人」


「はい」


「先に、あなたに申し上げます」


 息を吸う音が聞こえた。私のではなかった。


「テオドール・ヴァイス。それが、私の名です」


 暖炉で薪がひとつ崩れた。


 テオドール・ヴァイス。


 声に出されたのは、それだけだった。名乗るのに、この方は一息しか使わなかった。


 私は指を組んだ。組んでから、自分の手が少し動いていたことに気がついた。


 三年間、この方には名がなかった。ないのではなく、捨てたのだとおっしゃっていた。あの雪の夜に拾ったときから、私はこの方を先生と呼んできた。


「……テオドール・ヴァイス様」


「ヴァイスは、いりません」


「では」


 私は、言い直した。


「では、テオドール様とお呼びします」


 あの夜、名はないと言われて、私は、では先生とお呼びしますと申し上げた。おなじ言い方になったのは、わざとではなかった。


「……はい」


 それだけだった。


 テオドール様は机に戻って、申請書の白い欄に名を書いた。右へ少し倒れた字は、あの診療記録の原本とおなじだった。


 その下に、立会人の欄があった。


「公爵夫人。こちらにも」


「はい」


 レオノーラ・フォークナー。


 三年、この名で帳簿を付けてきた。もうじき使わなくなる名である。だから、いつもよりゆっくり書いた。


 ヴェーバー様が紙を受け取って、乾くのを待たずに折りたたむ。


「三月もあれば名簿は元に戻る。王都に部屋を用意させよう」


「いえ」


「まだ決めんのか」


「はい」


 ヴェーバー様は、ふん、と鼻を鳴らして出ていった。ギュンターが書類を抱えて続く。


 暖炉の音だけが残った。


 窓の外は、また降りはじめている。


 雪だった。


「テオドール様」


「はい」


「王都にお戻りになれば、患者が待っておりますでしょう」


「そうかもしれません」


「行かれないのですか」


「……行くとも、行かないとも、まだ申し上げられません」


 それだけだった。私にも、何も訊かなかった。


 旦那様のこと。婚姻のこと。この方が訊けば、私はきっと答えたと思う。けれどこの方は、三年分の紙を並べておきながら、私について一枚も要求しなかった。


 だからこちらも、訊かないことにした。


「氷花は、いま咲いておりますのね」


「一月ですから」


「雪を掘ると、白い花が出てくるのだと伺いました。わたくしはまだ、見たことがございませんの」


「根のほうが大事です」


「まあ」


 思わず、息がこぼれた。三年のあいだ、この屋敷でこういう音を立てたことはなかったと思う。


 頬が、少し熱かった。


「明日も、帳簿を見ますわ」


「はい」


「お付き合いいただけますか」


「……結構です、とは申しません」


 窓の下の雪を見た。


 掘れば、どこまでも去年の層に当たるのだそうだ。


 その下に、名前が一つ埋まっていたのだと思う。


 今日、それが掘り出された。


 私は声に出さずに、口の形だけでその名を作ってみた。指先が乾いていた。


 呼ぶための名を手に入れるというのは、思っていたより重い。この屋敷で、私はまだ自分の名を呼ばれていない。


完結まで描き切った作品です。

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