第25話「遺言は、偽りでした」
本作品は完結迄描き切っています!!
追悼式のあと、いろいろなことが片づいていった。
私がしたことは少ない。紙を出して、人に読ませただけである。あとは王都の役所と医師団が、それぞれの速さで動いた。領都のヴェーバー様が早馬を立てて、書き取りを往き来させたのだそうだ。王都まで、早馬なら三日だという。
あの方は、王都の裁可で、聖アグネス修道院へ送られたのだそうだ。
王都の近くの、壁の高い修道院だと聞いた。手紙は取り次がれないとか。誰の名で出しても、門で止まるのだそうだ。
氷花は届かない土地だと聞いた。
ボルツという医師は、領都の家で捕まったのだそうだ。逃げる支度をしていたところに人が来たとか。診断書の控えを焼いていたらしいけれど、こちらの記録庫に控えの控えがあった。
ヘルミナ男爵は、告発の署名を取り下げたのだそうだ。三年前、娘に言われるまま先生の名を消した紙の、あの署名である。文面は読まずに印を押した、と申し立てたと聞いた。
それから領都のヴェーバー様の前に呼ばれて、何も問われなかったのだそうだ。
知らぬことを知らぬと言うのは罪の名にならないと、ヴェーバー様はあの朝おっしゃった。そのとおりになった。
ニナは、洗いざらい話したのだそうだ。庭のどこに埋めたかも、自分で指したと聞いた。そのあと城を下がって、村の母親のもとへ帰ったという。
掘り返された包みは十二、出てきた。三年前の雪の下から、そのままの形で出てきたのだそうだ。
去年の雪の上に、今年の雪が乗っているだけの土地である。そのことを、この家の者は誰よりよく知っていたはずだった。
社交界では、もう話が回っているのだそうだ。
追悼式で公爵夫人が帳簿を読んだ、と。尾ひれもついているらしい。私が広間で叫んだことになっている話もあるとか。
叫んでいない。
朝の食卓は、人が二人になった。
長い卓の端と端に旦那様と私。中ほどの椅子は、下げさせた。三年、あそこに人がいた。
旦那様は皿に目を落としていらした。三年とおなじである。おなじではないのは、私がもう足音を数えていないことだけだった。
その日の午後、ギュンターが記録庫から一枚の紙を持ってきた。
「奥様。ご所望のものでございます」
「死亡診断書ですわね」
「はい。一二四六年十月、医師ボルツの署名がございます」
「先生にお見せしてくださいませ。わたくしでは読めない字がございますから」
「かしこまりました」
先生は書庫の机でそれを広げて、指で一行ずつ追った。
「どうでしょう」
「嘘は、書いてありません」
「嘘ではないのですね」
「心臓の衰え。そのとおりです。止めれば、そうなります」
「けれど、止めたとは書いていない」
「はい。書かずに済むのが、この薬のいやなところです」
先生は紙を置いて、それから少し黙った。
「書いた者は、知っていたはずです。この領地の医師が、氷花の使い方を知らないことはありません」
「ではこれは、嘘ではなくて」
「黙っていた紙です。私は、そちらのほうが重いと思います」
私はその言葉を、しばらく考えていた。
三年、この屋敷にあったのは嘘ばかりではなかった。黙っていた人のほうが、ずっと多かった。
「先生。ヴェーバー様は、まだ領都でいらっしゃいますの」
「はい。氷花の畑をご覧になっています」
「王都へはお帰りになりませんの」
「書き付けだけ、早馬で送りました」
「名簿のことは、どれくらいかかりますの」
「春までには、と。団長がそう言いました」
「長いこと」
「三年待ちました。春までは、短いほうです」
「ずいぶん気の長いことを仰いますのね」
「慣れました」
私は紙の端を揃えた。
「先生。ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「名簿に戻りましたら、王都へお帰りになりますの」
「……まだ、戻っておりません」
「それは、お答えになっておりませんわ」
「はい」
この方はいつも、要る言葉しか置いていかない。三年ぶんの用が済んでも、そこは変わらなかった。
ユリアから文が来た。
帰りの最初の宿で書いたらしい。あなたの手は冷たかったけれど字は震えていなかった、と書いてあった。それから、春になったら王都へおいでと。
返しの文には、伺いますとだけ書いた。
この家の者の声も、少し変わった。
奥様、と呼ぶときに一拍おく者が減った。減っただけで、無くなってはいない。三年で積もったものは、十日足らずでは減らない。
夕方、お義姉様のお部屋を開けた。
鍵はもう旦那様がお持ちで、旦那様は私に預けると言われた。私は受け取って、マルタを呼んだ。
「マルタ。このお部屋を、そのままにしておくのはやめましょう」
「……はい」
「捨てるのではございませんわ。お義姉様のものを、ご実家へお返しするのと、この家に置くものとに分けたいのです」
「わたくしが分けてもよろしいのでしょうか」
「あなたのほかに、誰が分けられますの」
マルタは布をかけた寝台の端に手を置いて、それから鏡台の櫛を三本、順に持ち上げた。
「これは、お嬢様が王都でお買いになったものでございます」
「では、この家に」
「こちらは妹君からの贈り物でございました。お誕生日に」
「……それも、この家に置きましょう」
「はい」
押し花の額を外すとき、マルタの手が止まった。
「奥様。ひとつ、お許しをいただきたいのでございます」
「なんでしょう」
「わたくしは、あの方をお嬢様と呼んでまいりました。奥様がおひとりでいらっしゃるのに、前の奥様をお嬢様と呼び続けるのは、無礼でございましょう」
「お呼びなさいませ」
「……よろしいのでございますか」
「その呼び方を取り上げても、誰も得をいたしませんわ。あなたが呼ぶのをやめたら、お義姉様を近くで呼ぶ人が、この家からいなくなりますでしょう」
マルタは額を胸に抱えて、しばらく動かなかった。
「奥様」
「はい」
「わたくしは、この家に残ってよろしいのでしょうか」
「わたくしが申し上げることではございませんわ。この家の侍女頭は、わたくしが出ていっても侍女頭ですから」
「……出ていかれるのですね」
「ええ」
マルタは何も言わなかった。言わないでいてくれたことが、いちばんありがたかった。
用が済んで、鍵はギュンターに戻した。
夜、書庫へ行くと旦那様がいらした。
燭台をひとつ持って、下の段の帳簿の前に立っておられた。三十六巻の背を、順に指でなぞっていらした。
「……君か」
「お約束の書面をお持ちいたしましたわ」
「うん」
「三年分の写しでございます。帳簿の該当の頁、厨房の下げ物の控え、玄関の取次簿、それに診療記録の写し。目録を上に付けてございます」
「これは、何のための書面だ」
「王への上申に添えるものですわ」
旦那様の手が、帳簿の背から離れた。
「婚姻法第四十七条でございます。王命の婚姻を解くには、公爵家に非のある証明を添えなければなりません」
「……ああ」
「三年、わたくしはその紙を探しておりました。ようやく揃いましたの」
私は、ぐっと微笑みに力を込めた。
この顔はもう、悲しくても腹が立っても出てくる。三年で筋になったものは、都合では剥がれない。
「旦那様。ひとつだけ、申し上げてよろしいでしょうか」
「言ってくれ」
「遺言は、偽りでした」
旦那様が、私を見た。緑の目が、燭台の火のほうで揺れた。
「あの紙が偽りだったということは、旦那様が三年守っておられたものが無かったという話ですわ。わたくしを拒んでおられた理由は、初めから無かったのです」
「……そうだ」
「けれど、無かったからといって、三年が無かったことにはなりません」
「ああ」
「君は」
「はい」
「いつから、知っていた」
「薬代の行は、去年も目にしておりましたわ。数えたのは、この冬のはじめです」
「……この冬」
「ふた月、数えておりました。数えているあいだ、旦那様は一度もお訊きになりませんでした」
「……すまない」
「そのお言葉は、書面のあとで伺いますわ」
「お読みくださいませ。お時間はございます。早馬の支度が整うまで、まだ日はございますわ」
「読む。……時間をくれ」
「どうぞ」
旦那様は書面を受け取って、目録の一枚目を開いた。それから、開いたまま何もおっしゃらなかった。
私は燭台を置いて、書庫を出た。
自分の部屋に戻って、机の上を片づけた。
三年分の紙はもう束にしてある。婚姻契約書の写しと、婚姻法を書き写した紙は、いちばん上の引き出しに入れたままだ。
窓の外は雪だった。
掘り返した包みの穴も、もう埋まっているのだそうだ。ひと晩で、上から白くなるのだという。
新しい紙を一枚出して、ペンを取った。
王都へ出す上申書の下書きである。書き出しの一行は、もう決まっている。
――遺言は、偽りでした。
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