第24話【SIDE:アルフレート】「三年、俺は何を守っていたのだ」
アルフレートは、広間の扉を閉めた。
客は今日のうちにみな帰って、馬車の音はもう聞こえない。卓の上には氷花が山のまま残されていて、二日ぶん押された下のほうの花は潰れていた。
手に紙を一枚持っている。四つに折り目のついた、うすい紙である。
三年、彼はこれを机のいちばん下の引き出しに入れていた。鍵はかけていなかった。誰も疑わないものに、鍵はいらないからだ。
彼は炉の火にそれを近づけて、もう一度読んだ。
――わたくしが死んだら、二度と誰も愛さないで。
日付は一二四六年、九月二十八日。
受け取ったのは、領都から戻った日だった。廊下を走ってきたシャルロッテが泣きながら持ってきて、両手で差し出した。姉が最後に書いたものです、と言った。
彼は両手で受け取り、そして、訊かなかった。
――泣いている娘に、いつ書いたのかと訊けるか。
そう思ったのを覚えていて、そのころの彼はそれを思いやりだと思っていた。
鍵は上着の内にあった。小広間を出るときに、シャルロッテの手から家令が受け取って、彼に渡したものだ。
北の階段を上がって、いちばん奥の扉の前に立つ。
三年、開けたことのない扉である。
鍵は、思ったよりも軽く回った。
中は寒くて、火の入らない部屋の寒さで息が白くなった。
寝台には布がかけてあり、鏡台の上には櫛が三本、揃えて並んでいた。押し花の額が壁に四つ。どれも氷花だった。
ほこりはなかった。三年のあいだ、誰かが毎日この部屋を拭いていたということである。
鍵はシャルロッテが持っていて、掃除も花の入れ替えもすべてあの娘がひとりでしていたのだと、家令は廊下でそう言った。
彼が寝台のそばの小卓を見ると、匙が一本だけ置かれていた。柄の細い、銀の匙である。
柄の左側だけが、こすれて白くなっていた。
……左だ。
右手が動かなかったのだと、あの侍女頭は広間で言った。八月のはじめからは、お茶の匙もお持ちになれなかった、と。
その匙が、ここにある。三年、この部屋に置かれたままだった。
彼は小卓に手をついた。
誰かがこの部屋を毎日拭いていた。その誰かは、毎日この匙を見ていたはずだ。
――知っていて、残していたのだ。
廊下で足音がした。燭台の光が壁を動いて、家令のギュンターが扉の外に立った。
「閣下。灯りをお持ちいたしました」
「……入れ」
「失礼いたします」
ギュンターは燭台を鏡台の上に置いて、それから一歩下がった。
「ギュンター」
「はい」
「三年前の夏、門で医師を断ったのは誰の指図だ」
「シャルロッテ様でございます」
「何度だ」
「十七度でございます。すべて控えを取っております」
「俺は、それを知らなかったのだな」
「……閣下は、お訊きになりませんでした」
炉のない部屋で、火が鳴る音はしなかった。
言い返す言葉を、彼は探した。あのころ領地の境でもめ事があった。王都へ二度呼ばれた。葬儀の段取りもあった。
全部、本当のことだった。
そして全部、訊かなかった理由にはならなかった。
言い訳は、しなかった。この夜、彼がしなかったことはそれだけだった。
「ギュンター。もう一つ訊く」
「なんでございましょう」
「家政の帳簿は、いま誰がつけている」
「三年、奥様がおひとりでつけておられます」
「……ひとりで」
「はい。夜、書庫で。冬も、燭台ひとつで」
「毎晩か」
「毎晩でございます。わたくしが夜の見回りに参りますと、たいてい先におられました」
「……何のために」
「帳簿をおつけになるためでございます。それから、お読みになるためでございます」
「読む」
「三年前の巻を、何度もお出しになりました。夏の巻でございます」
彼は、それも知らなかった。
部屋を出たところで、侍女頭に会った。
マルタは布を抱えていた。どこかを拭いた帰りらしかった。
「閣下」
「マルタ。この部屋の匙は、おまえが置いたのか」
「最後の朝に、わたくしがあそこへお置きしました。……いまも、おなじところにございます」
「なぜ、俺に言わなかった」
「言えばよかったのでございましょうか」
マルタはそう言って、布を抱え直した。それから、頭を下げた。
「わたくしは、お嬢様が右のお手をお使いになれなかったことを存じておりました。存じていて、三年、黙っておりました」
「おまえは、疑わなかったのか」
「疑うということを、わたくしは知りませんでした。お嬢様は病で亡くなられた。妹君が看病をなさった。そう聞いて、そう思っておりました」
「……俺もだ」
「はい」
「マルタ。それだけか」
「奥様が追悼式の三日前から書庫にお籠りでいらしたのを、わたくしは見ておりました。閣下は、お気づきでいらっしゃいましたか」
彼は答えなかった。答える言葉を持っていなかった。
「お邪魔をいたしました」
マルタは布を抱えて、廊下の暗いほうへ歩いていった。
書庫へ降りた。
棚の下の段に、背を揃えた帳簿が並んでいた。数えると三十六巻あった。一月に一巻である。
一巻抜いて開くと、字は細く、真っ直ぐだった。一行ごとに日付と品目と額が並び、右の欄に受け取りの印、左の欄に支払いの控えの番号が振られていて、月末で合わせると必ずおなじ数になるように組まれている。
彼はその数字の並びを、うまく追えなかった。
複式というものらしい。読み方を教わったことがない。公爵家の当主が帳簿を読めないのはおかしいのだが、彼はずっと家令に任せ、三年前からは妻に回させた。印を渡したのは、この冬になってからだ。
――家政は君に任せる。
自分が言った言葉である。任せるという言葉を使えば、それは誠実な取り扱いになると思っていた。
任せるとは、見ないという意味だった。
三年、彼は妻が毎晩ここにいたことを知らず、妻が何を数えていたのかも知らなかった。
そして昨日、その数字が広間で読まれて、アデラインの死に名前がついた。
彼は帳簿を閉じて、棚に戻した。背の高さがきれいに揃った。
黒い外套の男のことを思い出す。
名は知らない。訊こうとも思わなかった。妻は先生と呼んでいる。三年前まで、この屋敷に往診に来ていた男である。
――俺はあの男を、藪医者だと聞いて、そう思った。
調べもせずに。門で追い返させたのも自分の家の者だ。追い返させた者が誰かも、訊かなかった。
窓の外は雪だった。屋根からかたまりの落ちる音が、一定の間をおいて続いていた。
庭の北側の雪だけは、三年、高さが変わらないのだそうだ。
三年、彼は自分が何かを守っていると思っていた。積もっていたのは雪だった。
階段を上がって、北の廊下へ折れる。
妻の寝室の前で、足を止めた。
三年、この扉の前を通り過ぎてきた。通り過ぎるのが誠実だと思っていた。今夜は、止まった。
止まっただけだった。
彼は扉を叩いた。二度。
「……どなたでしょう」
「俺だ」
中で、何かを置く音がした。それきり、しばらく何もしなかった。
「旦那様」
「話がある」
「本日は、もう遅うございます」
「……そうだな」
「支度が整いましたら、書面をお持ちいたしますわ」
「書面」
「おやすみなさいませ」
それで終わりだった。
扉は開かなかった。三年、彼が開けなかった扉が、今夜は向こうから開かなかった。
彼はそこに立っていた。
――三年、俺は何を守っていたのだ。
答えはもう出ていて、今日、広間で全部出てしまった。守っていたのは、妹が姉の字を真似て書いた紙一枚である。
守れたものは何もない。アデラインは死んだ。生きているほうの妻は、三年、この扉の内側にいた。
彼は扉に手を置いて、それから開けずに下ろした。
開ける資格がないというのは、まだ言い訳の側にある言葉だ。そう思ったので、彼はそれも呑んだ。
もう一度、口を開いた。
「……君」
返事はなかった。
三年のあいだ、彼が妻を呼んだ言葉は、それだけである。
扉の内側の人は、この夜の足音をもう数えていないのだろうと、彼は思った。
彼は廊下を戻って、自分の部屋の灯りを自分で消した。
良かったら、お気に入り登録、★評価等していただけたら嬉しいです。




