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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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23/30

第23話「私はただ、姉に必要とされたかっただけなのに」

本作品は完結迄描き切っています!!

扉が開いた音で、私は壁から手を離した。


 出てきたのはヘルミナ男爵令嬢だった。裾を踏んで、それでも走ってきた。


「奥様」


「はい」


「奥様、お待ちになって。お話をいたしますから。ちゃんとお話をいたしますから」


「伺いますわ」


「あれは違うのです。わたくしはお姉様のためにと思って……それがいけなかったのでしょうか」


「お義姉様のために、往診を十七回お断りになったのでしょうか」


「奥様。お聞きになって。わたくしを、」


「伺うと申し上げました。ここではなく、火のある部屋で」


 この三年、この声で旦那様は動いてきた。本日は、誰も動かなかった。


 廊下は冷えきっていた。広間の火の匂いが、扉のところで止まっている。


 この方が私を追って出てきたことに、少しだけ驚いた。逃げる先はいくらでもあったのに、この方はいちばん人の多いほうへ出てきた。


 三年、そういう方だった。人に見られていないところで、この方は何もしない。


 後ろから人が続いた。旦那様、ヴェーバー様、ギュンター、マルタ。先生は最後に出てきて、扉のそばで立ち止まった。


 広間の中からも、扇を持った顔がいくつか覗いていた。


「今夜は、やめておこう」


 ヴェーバー様が、白い息とともにそうおっしゃった。


「泣いている者から取った書き取りは、あとで読み返せん。明日の朝、火のある部屋を借りたい」


「小広間をご用意いたします」


 ギュンターが頭を下げた。


 王都までは馬車で五日かかる。この夜、帰れる客はひとりもいなかった。


 一夜が明けた。


 次の日の朝、小広間の炉に火が入った。追悼式のあとで客に出すはずだった部屋である。


 盆を抱えた娘がひとり、茶を運んで入ってきた。ニナだった。そのまま壁際に下がって、出ていかなかった。


 ギュンターが扉を半分閉めた。半分は閉めなかった。


 廊下には客が残っていた。帰る支度をしながら、帰らない。三年このかた、この方の追悼式を毎年褒めてきた人たちである。


 ヴェーバー様は炉の前の椅子に座って、上着の内から紙と筆を出した。


「王宮医師団長、ヴェーバーと申す。ここから先は、私が書き取る」


「団長閣下」


「男爵令嬢。座りなさい。立っていると人は嘘をつく」


 あの方は座った。金の髪が、結い目のところから少し崩れていた。


「では、順に訊く。あの遺言を書いたのは誰か」


 返事はなかった。炉の火が、頬の片側だけを照らしていた。


「男爵令嬢」


「……わたくしが、書きました」


 旦那様が、炉のほうを向いた。背中しか見えなかった。


「なぜ書ける。筆跡が同じだ」


「お姉様の字は、書けます。十年、真似をしておりましたから」


「十年」


「お姉様のお手紙を写して、練習しておりました。似ていると褒められたことはございません。誰も見ませんから」


 ヴェーバー様の筆が、紙の上で少し止まった。


「次に訊く。三年前、医師団に一通の告発があった」


「……はい」


「フォークナー公爵夫人を死なせた藪医者がいる、という内容だ。名義はヘルミナ男爵。あれを書いたのは誰か」


「父に、署名をいただきました」


「書いたのは」


「わたくしです」


「ボルツはどう関わった」


「死んだあとの紙を、書いてくださいました。心臓の衰えだと」


「対価は」


「……覚えておりません」


「覚えていない」


「帳簿につけておりませんから」


 私は、それで一度だけ息を止めた。


 この方は、つけない側の人だった。三年、私はつける側にいた。それだけの違いで、こうなった。


 ヴェーバー様が筆を置いて、扉のそばの人を見た。


「三年前、私はその告発を受けて、除名に署名した。あの紙に、私の名がある」


「存じております」


「名簿のことは王都で正す。時がかかる。春まではかかろう」


「結構です」


「……それだけか」


「私は待てます。あの方のほうが、待たされました」


 先生は、それ以上何も言わなかった。私のほうも見なかった。


 壁際で、盆を抱えたままの娘が膝をついた。誰も助け起こさなかった。


 この娘のことは、私も聞いている。マルタが言うには、家が貧しくて、断れなかったのだそうだ。


 断れなかったことは、しなかったことにはならない。


「その娘の話も、あとで聞く」


 ヴェーバー様はそう言って、また筆を取った。


「男爵令嬢。薬はどうした」


「ニナに、庭へ埋めさせました」


「庭」


「この庭の雪は溶けません。埋めたものは、春になっても出てまいりませんから」


 炉の薪が鳴った。それだけだった。


「奥様」


 マルタが前へ出た。手を前で組んで、まっすぐ立っていた。


「わたくしからも、ひとつだけ伺わせてくださいませ」


「どうぞ」


 マルタはあの方の前に立った。


 この人はお義姉様を、今でもお嬢様と呼ぶ。奥様と呼ばないのは、そのほうが近いからだろう。


「シャルロッテ様。わたくしは毎朝お嬢様のお部屋に上がり、日に何度も扉の前を通っておりました」


「……ええ」


「扉の向こうで、お嬢様が妹君のお名をお呼びになるのが聞こえておりました。シャルロッテ、シャルロッテ、と」


「ええ」


「わたくしはそれを、仲のよいご姉妹だと思って聞いておりました。よい妹君がおられてお幸せだと」


 あの方は答えなかった。


「あれは、お薬を止めたあとのことでございますね」


 あの方は、うなずいた。うなずいてから、笑った。


「お聞きになっていたの。あれを」


「はい」


「うれしかったでしょう。お姉様は、あんなに美しい声で人を呼ぶのだから」


 マルタの口が、少し開いた。声は出なかった。


 お義姉様のことを、私は人からしか知らない。


 明るい方だった。笑うと屋敷が明るくなった。皆がそう言う。悪い方ではなかったのだと思う。


 ただ、妹をひとり、勘定に入れていなかった。それだけのことで人が死んだ。


「マルタ。あなたはお姉様の髪を、毎朝結ってさしあげたわね」


「……はい」


「わたくしのことは、一度も結ってくださらなかった」


「お呼びがございませんでした」


「そう。誰も、お呼びにならないのです」


 あの方の膝の上で、指が組まれてほどけた。


「お姉様は、わたくしに意地悪をしたことが一度もございません」


 声が、急に平らになった。


「一度も、ないのです。お聞きになって。一度もございませんの」


「……はい」


「お茶の席で、わたくしの名を呼び忘れるだけ。お客に、妹がおりますと言い忘れるだけ」


「シャルロッテ」


「アルフレート様。お姉様はわたくしを嫌っておられたのではありません。数えておられなかったのです」


 旦那様が、炉のほうへ顔を戻した。


「勘定に入っていないのです。椅子や膝掛けとおなじで、あることになっているだけ」


「……それで、薬を」


「最初は、一週だけでした」


「一週」


「一週では、何も変わりませんでした。もう一週やめたら、お姉様がわたくしをお呼びになりました。シャルロッテ、そこにいて、と」


 炉の薪が崩れた。誰も直さなかった。


「初めてでした。十年で、初めてだったのです」


 誰も口を開かなかった。炉の音だけがしていた。


「三週めには、夜もお呼びになりました。手を、左のお手でお掴みになって。離さないの」


「それで、薬を戻さなかったのか」


「わたくしがいなければ、お姉様はお困りになります。困っておられるお姉様は、わたくしを見てくださいます」


「……三月のあいだ、そう思っていたのか」


「三月しか、ございませんでした」


「そこで戻せば、公爵夫人は生きておられた」


 ヴェーバー様の声は、静かだった。


「八週までなら、戻せた。十週でも、たぶん戻せた」


「……ええ」


「知っていて、続けたのか」


「心地がよかったのです」


 その声が少し高くなって、それから落ちた。


「止められなくなりました。お薬を戻せば、お姉様はまたわたくしをお呼びにならなくなる」


 可哀想だと思った。思ってしまった自分の手を、私は膝の上で握った。


 可哀想な方が、人を殺した。その二つは並んで立っていて、どちらも動かない。


 私は膝の上の紙の束を見ていた。三年、私はこの方の隣で夕餐をとっていた。


「ヘルミナ男爵令嬢」


「……何でしょう」


「ひとつ伺いますわ。遺言は、なぜ」


「座れなくなるからです」


「あなたが」


「三月で亡くなった姉のあとに、妹が座るのです。皆が疑いますでしょう。だから、誰も座れないようにいたしました」


「わたくしが来たときも」


「王命のご婚姻でしたから、止められません。ですけれど、白いままにしておけば、いつか無効になりますでしょう」


「三年、待つおつもりで」


「待つのは慣れております。十年、待っておりましたから」


 私は、その言葉を少しのあいだ胸に置いた。


 少しだけ腹が立った。三年ぶんではなく、少しだけ。


「あなたはお義姉様に数えられなかったとおっしゃいますわね」


「ええ」


「あなたも、わたくしを数えておられませんでした」


「わたくしは、奥様にはいつもお優しく」


「膝掛けをお貸しくださろうとしました。お義姉様のものを」


「…………」


「わたくしは、この家の椅子でしたわ。あなたがお義姉様にされたのと、おなじでございますわね」


 あの方の頬から、色が引いた。


「シャルロッテ」


 旦那様が、ようやくそちらを見た。


「アデラインは、俺に何も言い残していないのだな」


「……はい」


「三年」


 それだけおっしゃって、旦那様は口を閉じた。


 三年、この方が守ってきたものは、この部屋で紙一枚になった。


 その紙を書いた人が、いま炉の前に座っている。


「お嬢様」


 マルタの声だった。誰にも向いていない声だった。


「わたくしは、毎朝あのお部屋におりました」


「マルタ」


「わたくしが、お医者様のために扉を開ければよかったのでございますね」


「それは、あなたの罪ではございません」


「……はい。はい、奥様」


 マルタは頭を下げて、それから袖で口を押さえた。この人が泣くのを、私は三年で初めて見た。


「最後に一つ。診療の控えを書き替えたのは、誰だ」


「……存じません」


 ヴェーバー様はそれ以上お訊きにならなかった。筆だけが動いた。


「書き取ったものは、王都へ送る。写しは私が預かる」


 ヴェーバー様が紙に砂を振って、上着の内へ収めた。


「公爵。身柄はいかがなさる」


「……王都の裁可を待つ。それまでは、この城で預かる」


「それでよろしい。男爵令嬢、あなたの父君にも文を出す」


「父は、何も存じません」


「知らぬことを知らぬと言うのは、罪の名にならん。それだけだ」


 廊下で、馬車を呼ぶ声がした。客が帰りはじめたのだと分かった。


 窓の外は雪だった。この土地の雪は溶けない。


 三年前に降った雪の下に、十二週ぶんのお薬が埋まっている。掘れば出てくるのだろう。


 出てきても、お義姉様は戻らない。


 ヘルミナ男爵令嬢が、炉の火を見ていた。


 結い上げた髪がすっかり崩れて、胸の白い花は花弁を落としきっていた。姉と同じ色の髪が、姉と同じようには見えなかった。


 口を開いたとき、その声から媚びが落ちていた。わたくし、という言い方も落ちていた。


「私はただ、姉に必要とされたかっただけなのに」


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