第23話「私はただ、姉に必要とされたかっただけなのに」
本作品は完結迄描き切っています!!
扉が開いた音で、私は壁から手を離した。
出てきたのはヘルミナ男爵令嬢だった。裾を踏んで、それでも走ってきた。
「奥様」
「はい」
「奥様、お待ちになって。お話をいたしますから。ちゃんとお話をいたしますから」
「伺いますわ」
「あれは違うのです。わたくしはお姉様のためにと思って……それがいけなかったのでしょうか」
「お義姉様のために、往診を十七回お断りになったのでしょうか」
「奥様。お聞きになって。わたくしを、」
「伺うと申し上げました。ここではなく、火のある部屋で」
この三年、この声で旦那様は動いてきた。本日は、誰も動かなかった。
廊下は冷えきっていた。広間の火の匂いが、扉のところで止まっている。
この方が私を追って出てきたことに、少しだけ驚いた。逃げる先はいくらでもあったのに、この方はいちばん人の多いほうへ出てきた。
三年、そういう方だった。人に見られていないところで、この方は何もしない。
後ろから人が続いた。旦那様、ヴェーバー様、ギュンター、マルタ。先生は最後に出てきて、扉のそばで立ち止まった。
広間の中からも、扇を持った顔がいくつか覗いていた。
「今夜は、やめておこう」
ヴェーバー様が、白い息とともにそうおっしゃった。
「泣いている者から取った書き取りは、あとで読み返せん。明日の朝、火のある部屋を借りたい」
「小広間をご用意いたします」
ギュンターが頭を下げた。
王都までは馬車で五日かかる。この夜、帰れる客はひとりもいなかった。
一夜が明けた。
次の日の朝、小広間の炉に火が入った。追悼式のあとで客に出すはずだった部屋である。
盆を抱えた娘がひとり、茶を運んで入ってきた。ニナだった。そのまま壁際に下がって、出ていかなかった。
ギュンターが扉を半分閉めた。半分は閉めなかった。
廊下には客が残っていた。帰る支度をしながら、帰らない。三年このかた、この方の追悼式を毎年褒めてきた人たちである。
ヴェーバー様は炉の前の椅子に座って、上着の内から紙と筆を出した。
「王宮医師団長、ヴェーバーと申す。ここから先は、私が書き取る」
「団長閣下」
「男爵令嬢。座りなさい。立っていると人は嘘をつく」
あの方は座った。金の髪が、結い目のところから少し崩れていた。
「では、順に訊く。あの遺言を書いたのは誰か」
返事はなかった。炉の火が、頬の片側だけを照らしていた。
「男爵令嬢」
「……わたくしが、書きました」
旦那様が、炉のほうを向いた。背中しか見えなかった。
「なぜ書ける。筆跡が同じだ」
「お姉様の字は、書けます。十年、真似をしておりましたから」
「十年」
「お姉様のお手紙を写して、練習しておりました。似ていると褒められたことはございません。誰も見ませんから」
ヴェーバー様の筆が、紙の上で少し止まった。
「次に訊く。三年前、医師団に一通の告発があった」
「……はい」
「フォークナー公爵夫人を死なせた藪医者がいる、という内容だ。名義はヘルミナ男爵。あれを書いたのは誰か」
「父に、署名をいただきました」
「書いたのは」
「わたくしです」
「ボルツはどう関わった」
「死んだあとの紙を、書いてくださいました。心臓の衰えだと」
「対価は」
「……覚えておりません」
「覚えていない」
「帳簿につけておりませんから」
私は、それで一度だけ息を止めた。
この方は、つけない側の人だった。三年、私はつける側にいた。それだけの違いで、こうなった。
ヴェーバー様が筆を置いて、扉のそばの人を見た。
「三年前、私はその告発を受けて、除名に署名した。あの紙に、私の名がある」
「存じております」
「名簿のことは王都で正す。時がかかる。春まではかかろう」
「結構です」
「……それだけか」
「私は待てます。あの方のほうが、待たされました」
先生は、それ以上何も言わなかった。私のほうも見なかった。
壁際で、盆を抱えたままの娘が膝をついた。誰も助け起こさなかった。
この娘のことは、私も聞いている。マルタが言うには、家が貧しくて、断れなかったのだそうだ。
断れなかったことは、しなかったことにはならない。
「その娘の話も、あとで聞く」
ヴェーバー様はそう言って、また筆を取った。
「男爵令嬢。薬はどうした」
「ニナに、庭へ埋めさせました」
「庭」
「この庭の雪は溶けません。埋めたものは、春になっても出てまいりませんから」
炉の薪が鳴った。それだけだった。
「奥様」
マルタが前へ出た。手を前で組んで、まっすぐ立っていた。
「わたくしからも、ひとつだけ伺わせてくださいませ」
「どうぞ」
マルタはあの方の前に立った。
この人はお義姉様を、今でもお嬢様と呼ぶ。奥様と呼ばないのは、そのほうが近いからだろう。
「シャルロッテ様。わたくしは毎朝お嬢様のお部屋に上がり、日に何度も扉の前を通っておりました」
「……ええ」
「扉の向こうで、お嬢様が妹君のお名をお呼びになるのが聞こえておりました。シャルロッテ、シャルロッテ、と」
「ええ」
「わたくしはそれを、仲のよいご姉妹だと思って聞いておりました。よい妹君がおられてお幸せだと」
あの方は答えなかった。
「あれは、お薬を止めたあとのことでございますね」
あの方は、うなずいた。うなずいてから、笑った。
「お聞きになっていたの。あれを」
「はい」
「うれしかったでしょう。お姉様は、あんなに美しい声で人を呼ぶのだから」
マルタの口が、少し開いた。声は出なかった。
お義姉様のことを、私は人からしか知らない。
明るい方だった。笑うと屋敷が明るくなった。皆がそう言う。悪い方ではなかったのだと思う。
ただ、妹をひとり、勘定に入れていなかった。それだけのことで人が死んだ。
「マルタ。あなたはお姉様の髪を、毎朝結ってさしあげたわね」
「……はい」
「わたくしのことは、一度も結ってくださらなかった」
「お呼びがございませんでした」
「そう。誰も、お呼びにならないのです」
あの方の膝の上で、指が組まれてほどけた。
「お姉様は、わたくしに意地悪をしたことが一度もございません」
声が、急に平らになった。
「一度も、ないのです。お聞きになって。一度もございませんの」
「……はい」
「お茶の席で、わたくしの名を呼び忘れるだけ。お客に、妹がおりますと言い忘れるだけ」
「シャルロッテ」
「アルフレート様。お姉様はわたくしを嫌っておられたのではありません。数えておられなかったのです」
旦那様が、炉のほうへ顔を戻した。
「勘定に入っていないのです。椅子や膝掛けとおなじで、あることになっているだけ」
「……それで、薬を」
「最初は、一週だけでした」
「一週」
「一週では、何も変わりませんでした。もう一週やめたら、お姉様がわたくしをお呼びになりました。シャルロッテ、そこにいて、と」
炉の薪が崩れた。誰も直さなかった。
「初めてでした。十年で、初めてだったのです」
誰も口を開かなかった。炉の音だけがしていた。
「三週めには、夜もお呼びになりました。手を、左のお手でお掴みになって。離さないの」
「それで、薬を戻さなかったのか」
「わたくしがいなければ、お姉様はお困りになります。困っておられるお姉様は、わたくしを見てくださいます」
「……三月のあいだ、そう思っていたのか」
「三月しか、ございませんでした」
「そこで戻せば、公爵夫人は生きておられた」
ヴェーバー様の声は、静かだった。
「八週までなら、戻せた。十週でも、たぶん戻せた」
「……ええ」
「知っていて、続けたのか」
「心地がよかったのです」
その声が少し高くなって、それから落ちた。
「止められなくなりました。お薬を戻せば、お姉様はまたわたくしをお呼びにならなくなる」
可哀想だと思った。思ってしまった自分の手を、私は膝の上で握った。
可哀想な方が、人を殺した。その二つは並んで立っていて、どちらも動かない。
私は膝の上の紙の束を見ていた。三年、私はこの方の隣で夕餐をとっていた。
「ヘルミナ男爵令嬢」
「……何でしょう」
「ひとつ伺いますわ。遺言は、なぜ」
「座れなくなるからです」
「あなたが」
「三月で亡くなった姉のあとに、妹が座るのです。皆が疑いますでしょう。だから、誰も座れないようにいたしました」
「わたくしが来たときも」
「王命のご婚姻でしたから、止められません。ですけれど、白いままにしておけば、いつか無効になりますでしょう」
「三年、待つおつもりで」
「待つのは慣れております。十年、待っておりましたから」
私は、その言葉を少しのあいだ胸に置いた。
少しだけ腹が立った。三年ぶんではなく、少しだけ。
「あなたはお義姉様に数えられなかったとおっしゃいますわね」
「ええ」
「あなたも、わたくしを数えておられませんでした」
「わたくしは、奥様にはいつもお優しく」
「膝掛けをお貸しくださろうとしました。お義姉様のものを」
「…………」
「わたくしは、この家の椅子でしたわ。あなたがお義姉様にされたのと、おなじでございますわね」
あの方の頬から、色が引いた。
「シャルロッテ」
旦那様が、ようやくそちらを見た。
「アデラインは、俺に何も言い残していないのだな」
「……はい」
「三年」
それだけおっしゃって、旦那様は口を閉じた。
三年、この方が守ってきたものは、この部屋で紙一枚になった。
その紙を書いた人が、いま炉の前に座っている。
「お嬢様」
マルタの声だった。誰にも向いていない声だった。
「わたくしは、毎朝あのお部屋におりました」
「マルタ」
「わたくしが、お医者様のために扉を開ければよかったのでございますね」
「それは、あなたの罪ではございません」
「……はい。はい、奥様」
マルタは頭を下げて、それから袖で口を押さえた。この人が泣くのを、私は三年で初めて見た。
「最後に一つ。診療の控えを書き替えたのは、誰だ」
「……存じません」
ヴェーバー様はそれ以上お訊きにならなかった。筆だけが動いた。
「書き取ったものは、王都へ送る。写しは私が預かる」
ヴェーバー様が紙に砂を振って、上着の内へ収めた。
「公爵。身柄はいかがなさる」
「……王都の裁可を待つ。それまでは、この城で預かる」
「それでよろしい。男爵令嬢、あなたの父君にも文を出す」
「父は、何も存じません」
「知らぬことを知らぬと言うのは、罪の名にならん。それだけだ」
廊下で、馬車を呼ぶ声がした。客が帰りはじめたのだと分かった。
窓の外は雪だった。この土地の雪は溶けない。
三年前に降った雪の下に、十二週ぶんのお薬が埋まっている。掘れば出てくるのだろう。
出てきても、お義姉様は戻らない。
ヘルミナ男爵令嬢が、炉の火を見ていた。
結い上げた髪がすっかり崩れて、胸の白い花は花弁を落としきっていた。姉と同じ色の髪が、姉と同じようには見えなかった。
口を開いたとき、その声から媚びが落ちていた。わたくし、という言い方も落ちていた。
「私はただ、姉に必要とされたかっただけなのに」
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