第22話「で、お姉様は何の病でお亡くなりになったのでしょう?」
お義姉様の妹君のご挨拶は、長かった。
姉がどれほど美しかったか。どれほど皆に愛されていたか。この屋敷がどれほど明るかったか。
どれも嘘ではない。おなじ話を三年、屋敷のあちこちで聞いてきた。
「お姉様は、最後まで美しくいらっしゃいました」
「お顔の色が悪くなっても、髪だけは結わせてくださいましたの。毎朝、わたくしがおそばについておりました」
どこかで、鼻をすする音がした。
「そして亡くなる二日前に、お姉様はわたくしにこうおっしゃいました」
広間が静かになった。
「――わたくしが死んだら、二度と誰も愛さないで」
扇が止まった。
「わたくしはその言葉を、アルフレート様にお伝えいたしました。そして閣下は、三年、それをお守りでいらっしゃいます」
「なんという、ご立派な」
「亡き奥様は、お幸せでいらっしゃいますわね」
旦那様は炉の前で目を落としていらした。否定もなさらない。
式次第に遺言の朗読を書き入れたのは、私である。
お申し出のとおりに書き入れて、そのあとに来賓のご挨拶の一行を、自分で足した。あの方はそれを見て、いいお考えですわねとおっしゃった。
この三年、この家の空気はこの一言でできていた。私が何を言っても、この一言の前では、死んだ人の願いを踏む女になる。
だから私は、踏まない道を選んだ。
踏まなくてよいのだ。この一言がまことにお義姉様のものなら、私は黙って三年をもう三年続けるほかない。
けれど、もし違うのなら。
私が踏むのは死んだ人の願いではなく、生きている人の作り物になる。
杯を卓に置いて、立ち上がる。
「お話の途中に、失礼いたします。ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「……奥様?」
「本日は追悼の席でございますから、お義姉様のことを伺うのが筋かと存じまして」
「ええ。ええ、もちろん。何なりとお訊きになって」
胸にかかえた束に、左の手を置いた。指が冷えていた。
私は、丹田に力を込めて微笑んだ。
「で、お姉様は何の病でお亡くなりになったのでしょう?」
――音が、消えた。
病の名を訊くのは、追悼の席でいちばん自然な問いである。だれもとがめられない。だからだれも、私を止められない。
お答えになれば、薬の話になる。薬の話になれば、帳簿の話になる。
この方は三年、この問いひとつを避けて生きてこられた。
「……心臓を、悪くしておりました」
「心臓の、どちらでしょう」
「え」
「生まれつきのものでしたか。それとも、後からのものでしたか」
「……お医者様が、心臓の衰えだと」
「では、そのお薬は何を召し上がっていましたか」
「お薬は、その、お医者様が調えたものを」
「一週にどれだけ、どなたがお部屋へお運びになりましたか」
「わたくしは看病をしておりました。薬のことは、お医者様が」
「そうでしょうね。お盆もお薬も、扉口で受け取ってお部屋でお扱いになったのは、あなたおひとりでしたわね」
「……何を、おっしゃりたいのでしょう」
「伺っているだけですわ。妹君が、三年お守りになった思い出のことを」
妹君の唇が、少し開いて、それから閉じた。
私は胸の束から、いちばん上の一巻を取った。表紙に、一二四六年と押してある。
「ギュンター。皆様にも見えるように、卓の上を空けてくださいませ」
「かしこまりました」
氷花の山が横へ寄せられて、白い卓が出た。私は帳簿をそこへ開いた。
「これは公爵家の家政帳簿でございます。お義姉様がお亡くなりになった、三年前の夏の巻ですわ」
「奥様。追悼の席で、帳簿などを」
「お義姉様のお薬の話ですわ。追悼の席にふさわしいと存じます」
指で、同じ列をなぞる。
「氷花の調薬。薬代、週に金貨二枚。この領地の雪の下でしか採れない花の根を、煎じたものです」
「存じております。この家の薬ですから」
領地を富ませている花が、お義姉様のお薬だった。その取引の証文には、毎年私が署名をしている。
「その支出が、七月、八月、九月と、一週も欠けずに続いております。お義姉様がお亡くなりになった週まででございます」
「ですから、お姉様は最後までお薬を」
「十二週で、金貨二十四枚。この額を公爵家は確かにお支払いになっています」
「それが何か」
「では、その薬はどこへ行ったのでしょう」
あの方が、笑おうとした。頬が動いて、目が動かなかった。
「次は、厨房の下げ物の控えと、侍女の当番帳と、侍女日誌の原本です。ギュンターが三年、捨てずに置いてくれました。こちらには、お部屋へお運びしたものが日ごとに書いてございます。朝の粥、昼の鶏の澄まし、夜の蒸した白身。どれも運ばれて、どれもほとんど手つかずで下げられております」
「お姉様は、召し上がれなかったのです」
「ええ。そう書いてございます。けれど、お薬の行がございません」
「……行が」
「煎じ薬をお部屋へ上げたという記録が、一行もございません。七月のなかばから、九月の終わりまで。十二週、まるごとございませんの」
広間で、初めて声が立った。
「厨房の者が書き忘れたのですわ」
「十二週、毎日、皆が書き忘れましたか」
「そういうこともございましょう」
「では、最後の綴りを」
私は玄関の取次簿を開いた。
「玄関の取次簿でございます。主治医のお越しが、七月から九月のあいだに十七回。十七回とも、門で断られております」
「奥様」
「十七回。すべて同じ理由が書いてございますわ。――姉が会いたくないと言っている」
「それは、お姉様が」
「その言葉を門でお伝えになったのは、どなたでしょう」
妹君は答えなかった。扇を持つ手が、胸のあたりで止まっていた。
「お義姉様の妹君。あなたですわね」
その頬が、羞恥と怒りで赤く染まった。
「奥様」
声が、初めて低くなった。
「お下がりになって。ここは、姉の家です」
「お断りします」
短く言った。広間の端まで届く声で。
私は声を高くしていない。この屋敷で声を高くしたことは、三年で一度もない。
高くしなくても、紙は読める。
「ここは公爵家でございます。そして家政の帳簿を預かっておりますのは、わたくしですわ」
「わたくしは、お姉様を悼んでおります。それを踏み荒らすおつもりですか」
「お姉様を悼むことと、お姉様の名を使うことは、別です」
あの方の手が、胸の白い花にかかった。花弁が、二枚落ちた。
「先生」
私は控えの間の扉へ声をかけた。
黒い外套の人が、静かに広間へ入ってきた。
だれも名前を知らない人である。三年前にこの家に来ていて、三年前にこの家から名を剥がされた人でもある。
その人が革の覆いを外して、束をひとつ卓に置いた。
「これは、アデライン・フォークナー公爵夫人の診療記録の原本です」
いちばん前の椅子が、音を立てた。
「……その手は」
ヴェーバー医師団長が立ち上がっていた。
「その紙の書き方を、私は知っている。王宮の医師が使う様式だ」
「はい」
「原本と申したか。写しではなく」
「改竄される前のものです。こちらが私の原本、そちらが公爵家に残っている控え。二枚、字が違います」
先生は二枚を並べて置いた。
「公爵夫人は生まれつき心臓が弱かった。心弱と申します。氷花の根はこの弱りを抑えます。毒ではありません。ですから死んだ者を調べても、何も出ません」
「続けなさい」
「効くのは、飲み続けているあいだだけです。止めれば体はゆっくり戻ります。三月で、心臓が持たなくなります」
「三月」
「七月に止まっています。九月の終わりに亡くなっています」
ヴェーバー様は紙を手に取って、それから広間を見渡した。
「……診断書には、何と書いてあった」
「心臓の衰え、と」
「嘘ではないな」
「嘘ではありません。止めればそうなります。書いた者は、それをよく知っていたはずです」
「では、前の奥様はお薬を召し上がっていなかったということ?」
「薬代はお払いになっていたのでしょう」
「まあ。では、その金貨はどこへ」
「そこは、わたくしが申し上げることではございません」
「お調べになる方が、本日はいらしております」
「公爵閣下」
ヴェーバー様が旦那様のほうへ向き直った。
「この記録の写しを、王都へ出させていただきたい。医師団の名簿に関わることでもある」
「……どうぞ、お持ちください」
壁際で、盆を抱えた娘が一歩下がった。ニナだった。だれも、その音には気づかなかった。
「もう一枚、ございます」
先生が別の紙を出した。
「七月の終わりの記録です。右の手と足が動かなくなった、と書いてあります。以後、寝台から出られていません」
「右半身か」
「はい。左は、最後まで少し動きました。少しだけです」
私は最後の紙を束のいちばん下から取った。
この紙は、三日前に旦那様の机のいちばん下の引き出しから取ってきたものである。鍵はかかっていなかった。
うすい紙。折り目が四つ。三年、この屋敷でいちばん重いものとして扱われてきた紙である。
「では、これを」
「奥様。それは」
「お義姉様の遺言でございますわね。日付は一二四六年、九月二十八日。お義姉様のご自筆と伺っております」
「お返しになって」
「文字はたいへん整っております。マルタが預かっていたお義姉様のお手紙と、おなじ字ですわ」
「ですから、お姉様が」
「右手の字ですわ」
私は紙を伏せて、卓の右の端に置いた。
「マルタ」
壁際から、侍女頭が前へ出た。手を前で組んで、まっすぐ立った。
「お義姉様の右のお手足が動かなくなったのは、いつでしたか」
「七月の終わりでございます。八月のはじめからは、お茶の匙もお持ちになれませんでした」
「あなたがお部屋へ入れたのは」
「朝、御髪を結うときとお着替えのときだけ、妹君のお立会いで。お嬢様は左のお手でわたくしの袖をお掴みになりました。右のお手は、毛布の上に置いたままでございました」
マルタの声は震えていなかった。
私は六月の献立を、卓のいちばん左へ寄せた。隣に、先生の七月の記録を置いた。
「一二四六年六月。お義姉様の、最後のご自筆です。マルタ、七月から後のものは」
「一枚も、ございません」
三枚目は、おなじ文箱の二重底から出てきた紙である。
「八月。お義姉様が左のお手で書かれたものです。三行で、お止めになりました」
線が震えて、行が下へ落ちていく。三行目は読めない。前の列の夫人が、扇を下ろして身を乗り出した。
最後に、伏せておいた遺言を返して、いちばん右へ並べた。
「そして九月二十八日。右のお手で、整った一行」
四枚が、左から日付の順に並んだ。
「……八月に三行しか書けなかった方が、九月にこれを」
だれかが言って、あとが続かなかった。
「先生」
「書き損じを」
私は袖から三枚を出して、先生にお渡しした。先生はそれを遺言の下に並べ、一行目の頭を指で押さえた。
「書き出しの一字。わたくし、の、わ。内へ巻いています」
指が、下の三枚へ移った。
「こちらも、内へ巻いています」
「その三枚は、招待状の宛名を書いていただいたときの書き損じでございます。お書きになったのは、シャルロッテ様」
「前の公爵夫人の字は、外へ開きます。献立も、手紙も。巻きの向きは手首の癖です。形は真似られても、急げば戻ります」
「では、伺いますわ。九月二十八日に、この字を書いたのはどなたでしょう」
「……お姉様がおっしゃるのを、わたくしが書き取ったのです。お姉様は、もうお書きになれなかったから」
「代筆なら、なぜお義姉様の字に似せたのでしょう」
「…………」
二度、口が動いた。声は出なかった。
三十人が見ていた。三年、この方が集めてきた客である。
だれも助けに立たなかった。ご立派だと言っていた声も、お幸せだと言っていた声も、ひとつも出てこない。
三年、この広間で私に向けられていたのとおなじ沈黙である。おなじものが、こんどは反対を向いていた。
「シャルロッテ」
旦那様だった。炉の前から、一歩だけ動いていらした。
「アルフレート様」
旦那様は、あの方をご覧にならなかった。卓の上を見ていらした。
「君。その紙を、俺に見せてくれ」
私は遺言を卓から取って、お渡しした。旦那様は紙を受け取って、しばらく見ていらした。
紙の端が、かさ、と鳴った。手が動いているのだとわかった。
それから、卓の端に手をついた。何もおっしゃらなかった。
三年、この方はこの紙を一度も疑わなかった。疑うのは不誠実だと思っておられたのだろう。
私は卓の上の紙を揃えて、紐をかけ直した。
三年かけて集めた紙は、揃えると案外薄い。
薄いけれど、重ねれば雪とおなじだ。積もったものは、いつか屋根を落とす。
「皆様。追悼の席をお騒がせいたしました」
私は喪服の裾を整えて、広間の入口へ向かって歩いた。
だれも止めなかった。三十人が、道を空けた。三年、私が通るときに空けられたことのなかった道である。
扉の手前で一度だけ振り返って、微笑みに力を込めた。
「それでは、失礼いたします。ヘルミナ男爵令嬢」
広間を出て、扉が閉まった音を聞いてから、私は壁に手をついた。
――終わった。
声は出さなかった。三年分の息を、ひとつだけ吐いた。
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