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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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第21話「本日は、お姉様のために」

 一月十五日。追悼式の朝は、よく晴れていた。


 この土地で晴れるというのは、雪が降っていないという意味しかない。積もったものが減るわけではない。屋根から落ちた分も、庭で順番を待っている。


 姿見の前で、マルタが私の襟を直していた。


「奥様。喪の色は、こちらでよろしゅうございますか」


「ええ。黒に近いほうをお願いしますわ」


「かしこまりました。御髪は高く結わせていただきます」


 マルタの手が、襟のところで一度止まった。


「本日は、何かおありでしょうか」


「追悼式ですわ」


「そう伺っております。伺っておりますけれど、奥様が三日前から書庫にお籠りでいらしたのを、わたくしは見ております」


「よく見ていらっしゃるのね」


「長いあいだ、この屋敷の女の支度をしてまいりました」


 鏡の中のマルタは、私の顔ではなく襟を見ていた。


「マルタ。ひとつお願いがございますの」


「なんでございましょう」


「本日は、最後まで広間にいてくださいませ。壁際で構いませんから」


「侍女頭が広間に立ち続けるのは、行儀のよいことではございません」


「行儀のことは、わたくしが引き受けますわ」


「……なぜ、わたくしなのでしょう」


「お義姉様のお部屋を、いちばん長く見ていらしたのがあなただからです」


 マルタは櫛を置いた。置いてから、しばらく動かなかった。


「お嬢様がこの家に来られた日から、お亡くなりになる朝まででございます」


「では、本日も見ていてくださいませ」


「……かしこまりました」


 追悼式は毎年、一月十五日に行われる。命日ではない。


 氷花の咲く頃で客が集まりやすいからだと、お義姉様の妹君は以前おっしゃっていた。この家では、それが三年で習いになった。


 支度を終えて階下へ降りると、家令のギュンターが廊下で待っていた。紐で括った紙の束を四つ、腕に抱えている。


「奥様。お申しつけのものを、こちらに」


「ありがとう存じます。どちらが厨房の分でしょう」


「上から厨房の下げ物の控え、侍女の当番帳、侍女日誌の原本。いちばん下が玄関の取次簿でございます」


「三年、よく取っておいてくださいましたわね」


「捨てられぬ性分でございます。父も祖父も、そうでございました」


「その性分に、本日は助けていただきます」


「……どうぞ、お使いくださいませ」


「それから、庭のことを伺いますわ」


「北側でございますね」


「ええ。雪を除けさせずに置いておいてくださいませ。縄を張って、人を近づけないようにしてくださいませ」


「かしこまりました。……あの下に、何かおありでしょうか」


「掘るのはわたくしではございませんわ。掘るのは、王都からいらした方の前でいたします」


「では、縄は二重に張らせます」


「お願いいたしますわ」


 ギュンターは束を私の手に移して、それから一度だけ深く頭を下げた。中立をやめた人の礼だった。


 控えの間の窓際に、先生が立っていた。


 黒の外套。革の覆いをかけた記録の束を、脇に抱えている。袖の隙間から、右手の甲の凍傷の跡が少しだけ見えていた。


「先生。お客人のなかに、王宮医師団長のヴェーバー様がいらしています」


「聞きました」


「ご挨拶をなさいますか」


「いえ。私が先に出ると、話が私のことになります」


「では、わたくしがお呼びするまで、ここでお待ちくださいませ」


「わかりました。順番を、もう一度」


「帳簿、厨房の控えと当番帳と日誌、取次簿。それから先生の記録、最後に遺言でございます」


「結構です」


 それだけだった。この方はいつも、要る言葉しか置いていかない。


 広間へ入ると、扇の音がいっせいに動いた。


 招いた七十二名のうち、雪を越えて来られたのは三十人ほどだった。北方の領主がた、王都から来た伯爵夫人がた、それに領都の商会の主。喪服の黒がならぶと、部屋がひとまわり狭く見える。


 卓の上には白い花が山のように積まれていた。氷花である。


 一月に、雪の下で咲く小さな花。この領地の富はこの花から出ていて、お義姉様のお薬も、この花の根から煎じられていた。


「あちらが、今の奥様」


「三年になるのでしょう。お子は」


「まだ何も」


「まあ」


 扇の陰の声は、隠す気のない声である。三年、私はこれを聞いて生きてきた。


 杯を載せた盆が、すぐ横で小さく鳴った。


 運んでいたのはニナだった。お義姉様の妹君にお付きの侍女である。


「……申し訳ございません、奥様」


「こぼれておりませんわ。少しお休みなさい」


「いえ。あの、いえ。手が、うまく」


「暖かいものを飲んでいらっしゃい。厨房に湯を出させておりますから」


「……はい」


 ニナは盆を胸に抱えるようにして下がっていった。その背中を、お義姉様の妹君の目が追っていた。


 いちばん前の椅子に、白髪の老人が腰を下ろしていた。


 黒の上着の襟に、王宮の医師の印がついている。ヴェーバー医師団長は広間の花をながめては、ときどき隣の夫人に何かを訊いていた。


「団長閣下は、花のことばかり訊いておられるわね」


「学者でいらっしゃるから」


「ノーラ」


 振り向くと、ユリアがローゼンタール伯爵夫人の顔で立っていて、扇を上げた陰で学友の顔に戻った。


「名簿のこと、うまくいったわ。医師団長、いちばん前の椅子にお座りよ」


「ありがとう。よく北まで来てくれたわね」


「氷花の標本を持ち帰るおつもりなの。王宮の薬室にも生えた根がないのだそうよ」


「それでいいの。見てもらうものは、ほかにあるから」


「……あなた、手が冷たいわね」


「この土地は、どこも冷たいの」


 白髪の伯爵夫人が、扇をたたんで私の横に立った。


「奥様。よくこの日を続けてこられましたわね」


「続けておられるのは、お義姉様の妹君ですわ」


「あら、ご謙遜。公爵閣下のご貞節は、王都でも評判でございますよ」


「そう伺っております」


「亡き奥様のお言いつけを、三年お守りだとか。近頃の殿方には珍しいこと」


「三年と、二月でございます」


「……まあ、よくお数えで」


「数は、間違えたくございませんの」


 伯爵夫人は扇を開いて、そのまま隣の輪へ移っていった。


 旦那様は炉の前に立っていらした。黒の上着に、胸に氷花を一輪。


「……君も、来ていたのか」


「追悼式ですから、参りますわ」


「そうだな」


「旦那様。本日は、長くなりますわ」


「なぜだ」


「お客人が多いからですわ」


 旦那様はそれで納得なさった。この方はいつも、差し出されたものをそのまま受け取る。三年、私はそれを間近で見てきた。


 広間の扉が開いて、お義姉様の妹君が入っていらした。


 黒のドレスに、胸に白い花を一輪。姉と同じ金の髪を、姉と同じように高く結い上げている。


「皆様。本日はお姉様のために、遠いところをようこそお越しくださいました」


「ご立派ですこと」


「妹君がいらして、ほんによかったこと」


 どこかで、そういう声がした。お義姉様の妹君の顎が、ほんの少し上がる。


「三年と三月になります。わたくしはこの屋敷で、お姉様の思い出をお預かりしてまいりました」


 それから、こちらを見た。目が合った。


「奥様」


 一拍。


「奥様も、ご一緒にお立ちになって」


「ええ。ご一緒いたしますわ、シャルロッテ様」


 私は、丹田に力を込めて微笑んだ。


 頬の位置と、目の細め方と、声の高さ。ぜんぶ決まっている。三年でこれだけは、顔ではなく筋になった。


 お義姉様の妹君が杯を取った。広間が静かになる。


「本日は、お姉様のために」


 ――ええ。本日は、お義姉様のために。


 腕の中で、私は三年分の紙の束を静かに揃えた。


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