【完結】最終話「では、あなたのお名前を、教えてくださいますか」
ついに完結しました。本作品を読み続けてくださった方々に感謝です。
三日目の夕方に、峠の宿へ着いた。
フォークナー領の南のはずれである。ここを越えると雪が浅くなるのだと、橇の御者が言っていた。
「お嬢様。明日は、もう膝までは降りませんよ」
「まあ。ではもう、この土地ではないのですね」
「境の石はもう過ぎました」
お嬢様、と呼ばれた。
三年ぶりの呼び方である。妙な感じがしたけれど、一拍は置かれなかった。
宿の土間で湯をもらって、木箱を運び入れてもらった。インク壺と証書は自分で持った。
石造りの平屋で、屋根の雪を落とすための梯子が壁に掛かっている。旅籠というよりは、雪に足を止められた者を溜めておくための小屋だった。
三年前、私はこの峠を北へ越えた。あのときは荷馬車の幌の下にいて、外を見なかった。見ても白いだけだと思っていたからである。
外に出ると、また降りはじめていた。
軒の下に立って、峠の道を見ていた。来た道が、もう白く埋まりかけている。
――そのときだった。
「……失礼。ヴェルティ伯爵家のご一行で、間違いありませんか」
雪の向こうから、低い声がした。
息が止まった。
この冬のはじめにも、おなじことがあった。あの晩は声だけで、姿は見えなかった。
今度は、見えた。
拾ってからの二月あまり、この方の顔は毎日見ていた。それでも、雪のなかでこの方を見るのは二度目である。一度めは、倒れていた。
馬を引いて、雪の中に立っている。黒い髪に雪が積もって、肩のところが白くなっていた。右手の甲の古い跡が、手綱の上に見えた。
「テオドール様」
「はい」
「王都へ行かれたと伺いました」
「行っておりません」
「……名簿は」
「再審に入ると、医師団から早馬で知らせがありました。春には戻るそうです」
「……よろしゅうございました」
「はい」
それだけだった。この方は、いつもそれだけである。
「では、なぜここにおられますの」
テオドール様は馬を宿の柱に繋いで、手袋を取った。
そして、話しはじめた。
「王都に部屋を用意すると言われました。診療所と、薬の棚と、書生を二人つけると。三年前に取り上げられたものが、ぜんぶ戻ってくるところでした」
「結構なお話ですわ」
「ええ。それで、済んだと思ったのです」
「済みませんでしたの」
「済みませんでした」
雪が、二人のあいだに降っていた。
峠の道を、だれも通らない。
「私は薬を作る人間です。氷花の根は、飲み続けなければ効きません。一週でも切れれば、そこから落ちはじめます。三年前、私はその一週を止められなかった。往診を十七回断られて、十七回、引き返しました」
「引き返すほかに、ないことでしたわ」
十七回という数は、私の帳簿にも書いてある。ギュンターの取次簿から写した数字だった。
数えたのは私で、引き返したのはこの方である。おなじ数字を、別々の場所で、三年抱えていたことになる。
「ありました。門の前で三日座っていれば、だれか通してくれたでしょう。私はそれをしなかった。名を剥がされたとき、弁明もしなかった。……私は、続けられない人間なのです。それでも除名から三年たった冬、あの家に新しい奥様がまだおられると聞いて、確かめずにはいられなかった。冬の支度もせずに通用口の外まで来て、あのざまです」
声は低いままだった。けれど、途切れなかった。
長い話だった。
「あなたの帳簿を、私は初めの月に見せていただきました」
「三年前の夏の巻でしたわね。お義姉様の薬代を、見ていただいたときの」
「あれは写しです。私が驚いたのは、そのあとに積んでくださった三十六巻のほうでした」
「ただの家政の帳簿ですわ。面白いものではございません」
「全部めくりました。薪の量から侍女の給金まで、毎週おなじ字で並んでおりました。三年で一日も飛んでいない。だれも読まない紙に、あなたは三年、おなじ字を書き続けた」
「家政を預かっておりましたから」
「そうおっしゃると思っておりました」
テオドール様は、少し目を細めた。
「氷花とおなじです。続けなければ効かない。世の中のたいていのものはそうで、たいていの人間はそれができません。私にはできなかった。あなたはできた」
「……それだけのことでございますわ」
「それだけのことのできる人を、私は三十二年で一人しか見ておりません」
胸の奥で、何かが鳴った。
この三年、褒められたことがなかったわけではない。微笑みは何度も褒められた。けれどあれは顔を褒められたのであって、私を褒められたのではない。
指先が、手袋の中で動いた。
止めようとしたけれど、止まらなかった。
「お顔のことは、申しません」
「まあ」
「申しても、あなたは信じないでしょう」
「ええ。信じませんわね」
「ですから、申しません」
息がこぼれた。この方は、たまに人を困らせることをおっしゃる。
「ひとつ、お願いがございます」
「伺いますわ」
「北方氷花交易協定には、薬を作る者が要るはずです。掘る者と売る者はいても、根を煎じて量を決める者がいない。量を間違えれば、あれはただの草です」
「……それは、そうですわね」
「雇っていただけませんか」
私は、しばらく黙っていた。
三年、私に何かを求める人はいなかった。求められたのは、微笑みと、黙っていることと、死者の名を立てることだけだった。
この方は、私に紙を求めた。次に、教えることを求めた。そういう求め方をされたのは、はじめてである。
「お給金は、いかほど」
「帳簿を見せていただけるなら、なんでも結構です」
「安すぎますわ。交易の協定をお読みになったことは」
「ありません」
「では、いちから習っていただきます。わたくしは教えるのが下手でございますの」
「三年、雪の下で薬草を探した人間です。遅いことには慣れております」
軒の下から、一歩だけ出た。
雪が、頬に当たった。
手袋を外した。
外した手の甲に、雪が一粒落ちた。
落ちて、溶けた。
この土地の雪は溶けない。降ったものが積もって、その上にまた降る。三年前に降った雪が、まだあの庭のどこかにある。
けれど、掌のうえの一粒は、溶けた。
私はそれを、ずいぶん長く見ていた。
三年前の十一月から、私はずっと待つ側にいた。扉が開くのを待ち、名を呼ばれるのを待ち、それから数えるのをやめた。待たないことに決めてから、数えるものはぜんぶ帳簿へ移した。
待っていないところに、この方は来たのである。
「テオドール様」
「はい」
「長すぎますわ」
「……名前ですか」
「はい。呼ぶのに息が足りませんの」
テオドール様は、めずらしく困った顔をした。
「テオと」
「え」
「母が、そう呼びました。ほかにだれも呼びません」
「では、テオ様」
「テオで結構です」
「……テオ」
言ってみたら、思ったよりも短かった。短いものは、何度でも呼べる。
テオ。
二度めは、声に出さずに言った。
「テオ。明日は雪が浅くなるそうですわ」
「では、馬が進みます」
「七日で着くと申しておりました。あと四日ですわ」
「四日、お邪魔してよろしいですか」
「橇の膝掛けは、一枚しかございませんの」
「私は歩きます」
私は、へにゃりと微笑んだ。それは完璧な微笑みではなく、ほんの少し不恰好な、でも、心からの微笑みだった。
三年かけて仕上げた顔の作り方が、どこかで外れてしまったらしい。頬の位置も、目の細め方も、ぜんぶばらばらだった。
テオは、それを見ていた。
それから、雪の中で帽子を取った。
「ひとつ、伺い忘れておりました」
「なんでしょう」
「あなたは、もうフォークナーではないのですね」
「はい。ヴェルティに戻りましたわ」
「ヴェルティも、家の名です」
「……ええ」
「三年のあいだ、だれもあなたを名でお呼びしなかった」
「はい。だれも」
雪が、肩に積もっていく。
「私は、あなたの帳簿の字を三十六巻読みました。署名も三十六回読みました。ですから、知らないのではありません」
「では、なぜ」
「読んだのではなく、あなたの口から伺いたいのです」
テオは帽子を胸に当てて、一歩だけ近づいた。
「では、あなたのお名前を、教えてくださいますか」
三年、だれも呼ばなかった名前である。
私は、それを自分の口で言った。
「レオノーラ」
雪の降る音のほかに、何も鳴らなかった。
自分の名だった。
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