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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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19/30

第19話【SIDE:ニナ】「わたし、何も見ておりません」

 ニナは、その朝も自分の手を見ていた。


 わたしのことです。この屋敷でいちばん下の侍女で、シャルロッテ様のお付きをしております。


 わたしの手は、二十歳の娘の手にしては荒れています。三年前の冬に、いっぺんに荒れました。


 あの冬、わたしは十二回、庭に穴を掘りました。


 はじまりの日のことは、よく覚えております。


「ニナ。お姉様のお薬をね、あなたが受け取ってちょうだい」


「わたしが、でございますか」


「そうよ。お姉様はあのお薬がお嫌いなの。お飲みになると、お苦しみになるの」


「……はい」


「だから、捨ててちょうだい。厨房の人には言わなくていいわ。控えにも書かなくていいの」


 シャルロッテ様は、そのときとてもやさしい声でした。


 わたしはそれを信じました。二度目も信じました。四度目のころから、考えないようにしました。


 包みは小さな物です。乾いた根を煎じる前の形で、紙に包んで麻の紐で結んであります。


 あれ一つで金貨二枚だと、あとで聞きました。わたしの一年の給金より多いお金です。


 厨房の裏口で受け取って、そのまま自分の行李の底に隠しました。夏の庭は土が見えていて、掘ればすぐにわかりますので。


 行李からは、乾いた根のにおいがしました。夏のあいだ、夜もよく眠れませんでした。


 初雪が来てから、夜、外套も着ないで北の庭へ出ました。着ていると人に見られますので。


 北の庭は前の奥様のお部屋の窓の下です。冬はだれも行きません。


 膝をついて、両手で雪を掻きました。この土地の雪は固くて、上の方は氷になっています。


 指の先が白くなって、赤くなって、爪の下が痛くなりました。


 穴を掘って、包みを入れて、上から雪を掛けて、手で押さえて平らにしました。


 十二回です。三月のあいだに受け取った十二の包みを、十二の晩に分けて、あの窓の下に埋めました。


 埋めた物は、消えません。


 この土地の雪に行き場はありません。上から次の雪が乗るだけです。四月になっても、庭のかさが少し下がるだけです。


 前の奥様がお亡くなりになった年の雪は、まだそこにあります。


 わたしは、三年それを知っています。


 窓の外を見るたびに、あの平らにした場所がどこだったかを思い出します。四つ目の木の、少し右です。


 ……前の奥様のことを、少し申し上げます。


 わたしが入って半年のころ、廊下で盆を落としたことがありました。前の奥様はお笑いになって、ご自分の手袋をくださいました。


 わたしはそれを今も持っております。一度も使っておりません。箱に入れて、寝台の下に置いてあります。


 最後の三月、わたしは廊下で待っておりました。お部屋でお世話をするのはシャルロッテ様だけで、侍女頭のマルタも朝のわずかなあいだだけでしたので、わたしどもは扉の外です。


 中から、よくお声が聞こえました。


 シャルロッテ、シャルロッテ、と。妹君のお名前を、何度もお呼びになっておいででした。


 一度だけ、別のことをおっしゃるのを聞きました。


 お薬を、と。


 わたしはそれを、聞かなかったことにいたしました。


 今朝、廊下で奥様にお会いしました。


「ニナ」


 膝から下に力が入らなくなって、わたしは壁に手をつきました。


「はい」


「炭が足りておりませんの。あとで小客間へ運んでくださいますか」


「わたし、何も見ておりません」


 言ってしまいました。


 訊かれてもいないのに、口の方が先に動いたのです。


 奥様は、しばらく黙っておられました。


「……そう」


「あの、炭を、はい、すぐにお運びいたします」


「ありがとう」


 それだけでした。


 奥様は行きかけて、それから足を止めて、こちらをご覧になりました。


「ニナ。手が荒れておりますわ」


「……はい」


「軟膏を分けて差し上げますわ。寒い土地ですから、年をとってから痛みますのよ」


「……はい」


「三年前の冬は、とくに雪が多かったそうですわね」


 背中の真ん中が、すっと冷たくなりました。


「わたくし、この土地の冬を三度越しましたけれど、あの年ほどではなかったと聞きましたの」


「……さようで、ございますか」


「ええ。庭の者がそう申しておりました」


 奥様は微笑んで、行ってしまわれました。


 あの微笑みが、恐ろしいのです。


 三年、一度もお声を荒らげたことがありません。それなのに、あの方の前に立つと全身が固くなります。


 わたしは壁につけた手を離せませんでした。指がうまく開かなくて、しばらくそうしておりました。


 炭を運びに厨房へ下りましたら、侍女頭のマルタがおりました。


 マルタは籠の前に立って、わたしの方を見ました。


「ニナ」


「はい」


「あなた、三年前の冬に裏口をよく使っていたね」


 籠の把手を持つ手が、滑りました。


「……お使いに、出ておりました」


「この雪の季節に、外套も着ないで」


「……走れば、寒くありませんので」


「ニナ」


「はい」


 マルタはそこで、少し声を落としました。


「わたくしはね、前の奥様の侍女頭を務めたのですよ」


「……存じております」


「御髪を結うあいだ、あの方のお手をさすって差し上げた。動かなくなったお手をね」


「……はい」


「手を見せてごらん」


 わたしは籠を胸に抱えて、後ろへ下がりました。


「炭を、お運びしなければなりません」


 マルタは追いませんでした。ただ、わたしが階段を上がるまでずっとそこに立っておりました。


 あの目が、ずっと背中にありました。


 その日の午後、奥様が北の庭を歩いておられるのを、二階の窓から見ました。


 庭の者が二人ついて、鋤を持っておりました。


 晩に、シャルロッテ様のお部屋へ呼ばれました。


「ニナ。奥様が庭へ出たそうね」


「……庭の者が、鋤を持っておりました」


「なぜ」


「春の花壇の下見だと、そう申しておりました」


「花壇」


「はい。お客様がおいでになるので、春の庭も整えるのだと」


 シャルロッテ様は、しばらく窓の方をご覧になっておりました。


 それから、いつものやさしい声になりました。


「ニナ。あなたのお母様、まだお薬が要るのでしょう」


「……はい」


「来月の分も、ちゃんとお送りしますからね」


「ありがとうございます」


「あなたは、何も見ていないの」


「はい」


「そうね。あなたはいい娘だわ」


 お部屋を出て、廊下でしゃがみました。


 膝が言うことを聞かなくて、しばらく立てませんでした。


 シャルロッテ様は、あなたは何も見ていないのとおっしゃいました。


 だからわたしは、何も見ておりません。


 何も見ておりません。何度も心の中で申します。申すほどに、見た物の形がはっきりしてまいります。


 母は去年の春から寝ついております。弟は七つになりました。わたしのお給金と、シャルロッテ様が送ってくださるお薬代で、あの家はもっております。


 だから、断れませんでした。三年前も、今も。


 雪はまだ厚いです。あの下に、十二の包みがあります。


 ニナはこの時点では、あの午後に奥様が何を見に庭へ出られたのか、まだ何も気づいていなかった。


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