第19話【SIDE:ニナ】「わたし、何も見ておりません」
ニナは、その朝も自分の手を見ていた。
わたしのことです。この屋敷でいちばん下の侍女で、シャルロッテ様のお付きをしております。
わたしの手は、二十歳の娘の手にしては荒れています。三年前の冬に、いっぺんに荒れました。
あの冬、わたしは十二回、庭に穴を掘りました。
はじまりの日のことは、よく覚えております。
「ニナ。お姉様のお薬をね、あなたが受け取ってちょうだい」
「わたしが、でございますか」
「そうよ。お姉様はあのお薬がお嫌いなの。お飲みになると、お苦しみになるの」
「……はい」
「だから、捨ててちょうだい。厨房の人には言わなくていいわ。控えにも書かなくていいの」
シャルロッテ様は、そのときとてもやさしい声でした。
わたしはそれを信じました。二度目も信じました。四度目のころから、考えないようにしました。
包みは小さな物です。乾いた根を煎じる前の形で、紙に包んで麻の紐で結んであります。
あれ一つで金貨二枚だと、あとで聞きました。わたしの一年の給金より多いお金です。
厨房の裏口で受け取って、そのまま自分の行李の底に隠しました。夏の庭は土が見えていて、掘ればすぐにわかりますので。
行李からは、乾いた根のにおいがしました。夏のあいだ、夜もよく眠れませんでした。
初雪が来てから、夜、外套も着ないで北の庭へ出ました。着ていると人に見られますので。
北の庭は前の奥様のお部屋の窓の下です。冬はだれも行きません。
膝をついて、両手で雪を掻きました。この土地の雪は固くて、上の方は氷になっています。
指の先が白くなって、赤くなって、爪の下が痛くなりました。
穴を掘って、包みを入れて、上から雪を掛けて、手で押さえて平らにしました。
十二回です。三月のあいだに受け取った十二の包みを、十二の晩に分けて、あの窓の下に埋めました。
埋めた物は、消えません。
この土地の雪に行き場はありません。上から次の雪が乗るだけです。四月になっても、庭のかさが少し下がるだけです。
前の奥様がお亡くなりになった年の雪は、まだそこにあります。
わたしは、三年それを知っています。
窓の外を見るたびに、あの平らにした場所がどこだったかを思い出します。四つ目の木の、少し右です。
……前の奥様のことを、少し申し上げます。
わたしが入って半年のころ、廊下で盆を落としたことがありました。前の奥様はお笑いになって、ご自分の手袋をくださいました。
わたしはそれを今も持っております。一度も使っておりません。箱に入れて、寝台の下に置いてあります。
最後の三月、わたしは廊下で待っておりました。お部屋でお世話をするのはシャルロッテ様だけで、侍女頭のマルタも朝のわずかなあいだだけでしたので、わたしどもは扉の外です。
中から、よくお声が聞こえました。
シャルロッテ、シャルロッテ、と。妹君のお名前を、何度もお呼びになっておいででした。
一度だけ、別のことをおっしゃるのを聞きました。
お薬を、と。
わたしはそれを、聞かなかったことにいたしました。
今朝、廊下で奥様にお会いしました。
「ニナ」
膝から下に力が入らなくなって、わたしは壁に手をつきました。
「はい」
「炭が足りておりませんの。あとで小客間へ運んでくださいますか」
「わたし、何も見ておりません」
言ってしまいました。
訊かれてもいないのに、口の方が先に動いたのです。
奥様は、しばらく黙っておられました。
「……そう」
「あの、炭を、はい、すぐにお運びいたします」
「ありがとう」
それだけでした。
奥様は行きかけて、それから足を止めて、こちらをご覧になりました。
「ニナ。手が荒れておりますわ」
「……はい」
「軟膏を分けて差し上げますわ。寒い土地ですから、年をとってから痛みますのよ」
「……はい」
「三年前の冬は、とくに雪が多かったそうですわね」
背中の真ん中が、すっと冷たくなりました。
「わたくし、この土地の冬を三度越しましたけれど、あの年ほどではなかったと聞きましたの」
「……さようで、ございますか」
「ええ。庭の者がそう申しておりました」
奥様は微笑んで、行ってしまわれました。
あの微笑みが、恐ろしいのです。
三年、一度もお声を荒らげたことがありません。それなのに、あの方の前に立つと全身が固くなります。
わたしは壁につけた手を離せませんでした。指がうまく開かなくて、しばらくそうしておりました。
炭を運びに厨房へ下りましたら、侍女頭のマルタがおりました。
マルタは籠の前に立って、わたしの方を見ました。
「ニナ」
「はい」
「あなた、三年前の冬に裏口をよく使っていたね」
籠の把手を持つ手が、滑りました。
「……お使いに、出ておりました」
「この雪の季節に、外套も着ないで」
「……走れば、寒くありませんので」
「ニナ」
「はい」
マルタはそこで、少し声を落としました。
「わたくしはね、前の奥様の侍女頭を務めたのですよ」
「……存じております」
「御髪を結うあいだ、あの方のお手をさすって差し上げた。動かなくなったお手をね」
「……はい」
「手を見せてごらん」
わたしは籠を胸に抱えて、後ろへ下がりました。
「炭を、お運びしなければなりません」
マルタは追いませんでした。ただ、わたしが階段を上がるまでずっとそこに立っておりました。
あの目が、ずっと背中にありました。
その日の午後、奥様が北の庭を歩いておられるのを、二階の窓から見ました。
庭の者が二人ついて、鋤を持っておりました。
晩に、シャルロッテ様のお部屋へ呼ばれました。
「ニナ。奥様が庭へ出たそうね」
「……庭の者が、鋤を持っておりました」
「なぜ」
「春の花壇の下見だと、そう申しておりました」
「花壇」
「はい。お客様がおいでになるので、春の庭も整えるのだと」
シャルロッテ様は、しばらく窓の方をご覧になっておりました。
それから、いつものやさしい声になりました。
「ニナ。あなたのお母様、まだお薬が要るのでしょう」
「……はい」
「来月の分も、ちゃんとお送りしますからね」
「ありがとうございます」
「あなたは、何も見ていないの」
「はい」
「そうね。あなたはいい娘だわ」
お部屋を出て、廊下でしゃがみました。
膝が言うことを聞かなくて、しばらく立てませんでした。
シャルロッテ様は、あなたは何も見ていないのとおっしゃいました。
だからわたしは、何も見ておりません。
何も見ておりません。何度も心の中で申します。申すほどに、見た物の形がはっきりしてまいります。
母は去年の春から寝ついております。弟は七つになりました。わたしのお給金と、シャルロッテ様が送ってくださるお薬代で、あの家はもっております。
だから、断れませんでした。三年前も、今も。
雪はまだ厚いです。あの下に、十二の包みがあります。
ニナはこの時点では、あの午後に奥様が何を見に庭へ出られたのか、まだ何も気づいていなかった。




