第18話「ユリア。一度だけ、力を貸してくれる?」
本作品は完結迄描き切っています!!
四日後の昼過ぎに、馬車が門を入ってきた。
王都から五日の道である。この季節に北へ上ってくる馬車は、ほとんどない。
玄関に出ると、外套の肩に雪を積んだ人が降りてきて、私の顔を見るなり大きな声を出した。
「ノーラ!」
「……ユリア」
「五日よ。五日も揺られたわ。三度も車輪が埋まって、そのたびに降りて押したの」
「伯爵夫人が、馬車を押すの」
「押すわよ。押さなきゃ進まないのだから」
ユリア・ローゼンタール伯爵夫人。二十三歳。王立淑女学院で二年おなじ部屋にいた人である。
手袋を取った手で、いきなり私の手を握られた。
「冷たい」
「この土地はどこも冷たいのよ」
「屋敷の中でもこの冷たさ? ノーラ、あなたずっとこうなの」
私は答えなかった。答えずに、居間へお通しした。
炭を足させて、湯を運ばせて、それから二人になった。
三年ぶりだった。三年前の婚礼にはだれも呼べなかったから、顔を合わせたのは学院を出た日以来になる。
「手紙、年に二度ね」
「ええ」
「書いてあるのは天気と小麦の値。あなた、天気の話だけで三年凌いだのよ」
「北の天気は話題が豊富なのよ」
「ノーラ」
「……ごめんなさい」
ユリアは湯呑みを置いて、まっすぐ私を見た。
「わたし、一度も頼まれなかったわ」
「そう」
「学院で二年おなじ部屋にいて、あなたは一度も何も頼まなかった。ペンも借りなかった。熱を出した晩も、自分で水を汲みに行ったのよ」
「覚えているの」
「忘れるわけがないでしょう」
胸のあたりが、少しつまった。私は湯を一口飲んで、それをやり過ごした。
「ユリア。手紙を出したのは、お願いがあるからなの」
「知ってるわ。そう書いてあったから来たのよ」
「……ええ」
そこで、声が止まった。
自分でもおかしいと思う。三年、夜中に燭台を運ぶのも自分でやった。人に何かを頼むという形が、口の中でうまく組み上がらないのだ。
私は息を一度、深く吸った。
「ユリア。一度だけ、力を貸してくれる?」
「…………」
ユリアは、しばらく黙っていた。
それから、湯呑みを卓に置いて、私の膝の上の手を両手で包んだ。
「一度だけって、何よ」
「何度も頼めることではないから」
「三年よ」
「ええ」
「三年間ひとりで立っていて、それでやっと一度だけ。あなたね、頼るのが下手なんじゃないの。頼らないことに慣れたのよ」
「……そうかもしれないわ」
「三年前に手紙を一枚くれたら、わたし冬の道でも来たわ。押して来たわよ。車輪ごと」
目のふちが熱くなったので、私は天井を見た。天井を見ると止まる。三年でそれも覚えた。
ユリアの前では、微笑みに力を込めなくてよかった。
「理由は聞かないわ」
「聞いてくれないの」
「……嘘。聞くわ。ぜんぶ聞かせて」
それから一刻ほどかけて、私はぜんぶ話した。
三年分の帳簿のこと。毎週計上されていた薬代のこと。使われた記録がひとつもない十二週分のこと。十七回断られた往診のこと。お義姉様の右手が七月の終わりから動かなかったこと。そして九月二十八日の、右手の字の遺言のこと。
三年分が、こんなに短く話せるのかと思った。
ユリアは途中で一度も口をはさまなかった。話し終えると、湯呑みの中身がすっかり冷えていた。
「……その妹君、まだこの屋敷にいるの」
「ええ。廊下の向こうに」
「同じ屋根の下で、あなた三年」
「ええ」
「ノーラ」
「ええ」
「わたし、今から泣くけど、それはあなたのためじゃなくて自分のためだから、気にしないで」
「ええ」
ユリアは袖で目を拭いて、それから顔を上げた。もう声は乾いていた。
「で、わたしは何をすればいいの」
「王都のご弔問のお取りまとめを、お願いしたいの」
「名簿を作るのね」
「ええ。追悼式は一月十五日なの。王都から十四、五人」
「それだけ?」
「その名簿に、一人加えてほしいの」
私は紙を一枚、卓の上に滑らせた。書いてある名はひとつだけである。
王宮医師団長、ヴェーバー。
ユリアは紙を見て、それから私を見た。
「お医者様を、追悼式に」
「ええ」
「なぜ」
「三年前、この方の署名で、一人の医師が王宮の名簿から除かれたの」
「……その人が、この屋敷にいるのね」
「ええ」
「なるほどね」
ユリアは紙をつまんで、指で二度たたいた。
「呼ぶ口実はあるの。氷花よ」
「ええ。王国でこの領地の雪の下からしか出ないから」
「王宮のお医者様たちは、あの根を欲しがっているそうよ。うちの人が言っていたわ。納めの話がまとまらなくて、去年からもめているとか」
「では、弔問と視察を兼ねて」
「兼ねていただくわ。こちらから礼を尽くしてお願いすれば、断る理由がないでしょう」
「引き受けてもらえるかしら」
「わたしが書くのよ。王都の取りまとめはわたしなの。名簿に名前が並んでいたら、それは王都の都合ということになるわ」
ユリアはペンを取った。
「ノーラ。ひとつ確かめていい」
「どうぞ」
「この名前を、あの妹君は名簿で見るのよね」
「ええ。名簿は見せる約束なの」
「見て、気づかれない?」
「あの方は数を見るの。十四人か十五人か、侯爵夫人が何人か。名前をひとつずつは、見ない人よ」
「……怖い人ね、あなた」
「そうかもしれないわね」
ユリアは名簿の紙を引き寄せて、十五人目にその名を書き足した。
王宮医師団長、ヴェーバー。
インクが乾くまで、二人で黙ってそれを見ていた。
その晩の夕餐に、お義姉様の妹君が下りてこられた。
王都の伯爵夫人がお泊まりになるとあっては、下りてこないわけにいかないのだと思う。妹君は喪の色の一番よい上着をお召しになっていた。
「まあ、遠いところをようこそ。お姉様も喜んでおりますわ」
「ご丁寧に。姉君のことは、王都でもよくうかがっておりました」
「ほんとうに。お姉様は王都でもお人気でしたの」
ユリアは、人の話をとても上手に聞く人だった。
うなずいて、目を丸くして、ときどき短く問いを入れる。妹君はお茶の三杯目まで一人で喋っておられた。
旦那様は皿に目を落としたまま、二度だけうなずかれた。
部屋へ戻ってから、ユリアは扉を閉めて、鍵をかけた。
「ノーラ。あの方、姉君のお名前を三十一回使ったわ」
「数えていたの」
「数えたわよ。お姉様が、お姉様の、お姉様も。ぜんぶ数えたの」
「……三十一」
「そのあいだ、ご自分のことは一度も言わないの。お姉様の妹、でしかないのよ。あれは、そうでないと立っていられない人の喋り方だわ」
私は湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。
三年、おなじ卓でおなじ話を聞いてきた。けれど数えたことは一度もなかった。数えていたのは、扉の前の足音だけだ。
「ユリア」
「なに」
「あなたを呼んで、よかったわ」
「当たり前でしょう」
「ノーラ。一度だけ、って言ったわね」
「言ったわ」
「訂正なさい。何度でもって」
「……ええ」
「言ってごらんなさい」
「何度でも、お願いするわ」
ユリアは笑って、私の肩を一度たたいた。
窓の外では、雪が降り続けていた。冬のあいだ、積もったものが減る日は、この土地にはない。
私が三年積んできたものも、たぶん、どこにも行っていない。
ユリアが、燭台の向こうで顔を上げた。
「ノーラ。ひとつ訊き忘れたわ。あなた、さっきからあの人を先生としか呼ばないのね」
指の先が、急に乾いた。
「十五人目の下に、一行ぶん余白があるの。三年前に名簿から削られたお医者様のお名前よ」
「……書けないの」
「書けないの。それとも、訊いていないの」
私は答えなかった。
雪の中から拾ってひと月あまり、私はあの方の名を一度も口にしていない。伺っていないのだから、言えるはずがない。そのことを、今まで一度も不思議に思わなかった。
ユリアは燭台を吹き消して、それから言った。
「明日の朝でいいわ。何度でも訊くから」
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