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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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18/30

第18話「ユリア。一度だけ、力を貸してくれる?」

本作品は完結迄描き切っています!!

 四日後の昼過ぎに、馬車が門を入ってきた。


 王都から五日の道である。この季節に北へ上ってくる馬車は、ほとんどない。


 玄関に出ると、外套の肩に雪を積んだ人が降りてきて、私の顔を見るなり大きな声を出した。


「ノーラ!」


「……ユリア」


「五日よ。五日も揺られたわ。三度も車輪が埋まって、そのたびに降りて押したの」


「伯爵夫人が、馬車を押すの」


「押すわよ。押さなきゃ進まないのだから」


 ユリア・ローゼンタール伯爵夫人。二十三歳。王立淑女学院で二年おなじ部屋にいた人である。


 手袋を取った手で、いきなり私の手を握られた。


「冷たい」


「この土地はどこも冷たいのよ」


「屋敷の中でもこの冷たさ? ノーラ、あなたずっとこうなの」


 私は答えなかった。答えずに、居間へお通しした。


 炭を足させて、湯を運ばせて、それから二人になった。


 三年ぶりだった。三年前の婚礼にはだれも呼べなかったから、顔を合わせたのは学院を出た日以来になる。


「手紙、年に二度ね」


「ええ」


「書いてあるのは天気と小麦の値。あなた、天気の話だけで三年凌いだのよ」


「北の天気は話題が豊富なのよ」


「ノーラ」


「……ごめんなさい」


 ユリアは湯呑みを置いて、まっすぐ私を見た。


「わたし、一度も頼まれなかったわ」


「そう」


「学院で二年おなじ部屋にいて、あなたは一度も何も頼まなかった。ペンも借りなかった。熱を出した晩も、自分で水を汲みに行ったのよ」


「覚えているの」


「忘れるわけがないでしょう」


 胸のあたりが、少しつまった。私は湯を一口飲んで、それをやり過ごした。


「ユリア。手紙を出したのは、お願いがあるからなの」


「知ってるわ。そう書いてあったから来たのよ」


「……ええ」


 そこで、声が止まった。


 自分でもおかしいと思う。三年、夜中に燭台を運ぶのも自分でやった。人に何かを頼むという形が、口の中でうまく組み上がらないのだ。


 私は息を一度、深く吸った。


「ユリア。一度だけ、力を貸してくれる?」


「…………」


 ユリアは、しばらく黙っていた。


 それから、湯呑みを卓に置いて、私の膝の上の手を両手で包んだ。


「一度だけって、何よ」


「何度も頼めることではないから」


「三年よ」


「ええ」


「三年間ひとりで立っていて、それでやっと一度だけ。あなたね、頼るのが下手なんじゃないの。頼らないことに慣れたのよ」


「……そうかもしれないわ」


「三年前に手紙を一枚くれたら、わたし冬の道でも来たわ。押して来たわよ。車輪ごと」


 目のふちが熱くなったので、私は天井を見た。天井を見ると止まる。三年でそれも覚えた。


 ユリアの前では、微笑みに力を込めなくてよかった。


「理由は聞かないわ」


「聞いてくれないの」


「……嘘。聞くわ。ぜんぶ聞かせて」


 それから一刻ほどかけて、私はぜんぶ話した。


 三年分の帳簿のこと。毎週計上されていた薬代のこと。使われた記録がひとつもない十二週分のこと。十七回断られた往診のこと。お義姉様の右手が七月の終わりから動かなかったこと。そして九月二十八日の、右手の字の遺言のこと。


 三年分が、こんなに短く話せるのかと思った。


 ユリアは途中で一度も口をはさまなかった。話し終えると、湯呑みの中身がすっかり冷えていた。


「……その妹君、まだこの屋敷にいるの」


「ええ。廊下の向こうに」


「同じ屋根の下で、あなた三年」


「ええ」


「ノーラ」


「ええ」


「わたし、今から泣くけど、それはあなたのためじゃなくて自分のためだから、気にしないで」


「ええ」


 ユリアは袖で目を拭いて、それから顔を上げた。もう声は乾いていた。


「で、わたしは何をすればいいの」


「王都のご弔問のお取りまとめを、お願いしたいの」


「名簿を作るのね」


「ええ。追悼式は一月十五日なの。王都から十四、五人」


「それだけ?」


「その名簿に、一人加えてほしいの」


 私は紙を一枚、卓の上に滑らせた。書いてある名はひとつだけである。


 王宮医師団長、ヴェーバー。


 ユリアは紙を見て、それから私を見た。


「お医者様を、追悼式に」


「ええ」


「なぜ」


「三年前、この方の署名で、一人の医師が王宮の名簿から除かれたの」


「……その人が、この屋敷にいるのね」


「ええ」


「なるほどね」


 ユリアは紙をつまんで、指で二度たたいた。


「呼ぶ口実はあるの。氷花よ」


「ええ。王国でこの領地の雪の下からしか出ないから」


「王宮のお医者様たちは、あの根を欲しがっているそうよ。うちの人が言っていたわ。納めの話がまとまらなくて、去年からもめているとか」


「では、弔問と視察を兼ねて」


「兼ねていただくわ。こちらから礼を尽くしてお願いすれば、断る理由がないでしょう」


「引き受けてもらえるかしら」


「わたしが書くのよ。王都の取りまとめはわたしなの。名簿に名前が並んでいたら、それは王都の都合ということになるわ」


 ユリアはペンを取った。


「ノーラ。ひとつ確かめていい」


「どうぞ」


「この名前を、あの妹君は名簿で見るのよね」


「ええ。名簿は見せる約束なの」


「見て、気づかれない?」


「あの方は数を見るの。十四人か十五人か、侯爵夫人が何人か。名前をひとつずつは、見ない人よ」


「……怖い人ね、あなた」


「そうかもしれないわね」


 ユリアは名簿の紙を引き寄せて、十五人目にその名を書き足した。


 王宮医師団長、ヴェーバー。


 インクが乾くまで、二人で黙ってそれを見ていた。


 その晩の夕餐に、お義姉様の妹君が下りてこられた。


 王都の伯爵夫人がお泊まりになるとあっては、下りてこないわけにいかないのだと思う。妹君は喪の色の一番よい上着をお召しになっていた。


「まあ、遠いところをようこそ。お姉様も喜んでおりますわ」


「ご丁寧に。姉君のことは、王都でもよくうかがっておりました」


「ほんとうに。お姉様は王都でもお人気でしたの」


 ユリアは、人の話をとても上手に聞く人だった。


 うなずいて、目を丸くして、ときどき短く問いを入れる。妹君はお茶の三杯目まで一人で喋っておられた。


 旦那様は皿に目を落としたまま、二度だけうなずかれた。


 部屋へ戻ってから、ユリアは扉を閉めて、鍵をかけた。


「ノーラ。あの方、姉君のお名前を三十一回使ったわ」


「数えていたの」


「数えたわよ。お姉様が、お姉様の、お姉様も。ぜんぶ数えたの」


「……三十一」


「そのあいだ、ご自分のことは一度も言わないの。お姉様の妹、でしかないのよ。あれは、そうでないと立っていられない人の喋り方だわ」


 私は湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。


 三年、おなじ卓でおなじ話を聞いてきた。けれど数えたことは一度もなかった。数えていたのは、扉の前の足音だけだ。


「ユリア」


「なに」


「あなたを呼んで、よかったわ」


「当たり前でしょう」


「ノーラ。一度だけ、って言ったわね」


「言ったわ」


「訂正なさい。何度でもって」


「……ええ」


「言ってごらんなさい」


「何度でも、お願いするわ」


 ユリアは笑って、私の肩を一度たたいた。


 窓の外では、雪が降り続けていた。冬のあいだ、積もったものが減る日は、この土地にはない。


 私が三年積んできたものも、たぶん、どこにも行っていない。


 ユリアが、燭台の向こうで顔を上げた。


「ノーラ。ひとつ訊き忘れたわ。あなた、さっきからあの人を先生としか呼ばないのね」


 指の先が、急に乾いた。


「十五人目の下に、一行ぶん余白があるの。三年前に名簿から削られたお医者様のお名前よ」


「……書けないの」


「書けないの。それとも、訊いていないの」


 私は答えなかった。


 雪の中から拾ってひと月あまり、私はあの方の名を一度も口にしていない。伺っていないのだから、言えるはずがない。そのことを、今まで一度も不思議に思わなかった。


 ユリアは燭台を吹き消して、それから言った。


「明日の朝でいいわ。何度でも訊くから」


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