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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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17/30

第17話「――それは、書けません」

本作品は完結迄描き切っています!!

翌日の午後、小客間に炭を足させて、お義姉様の妹君をお招きした。


 卓の上には招待状の束と、式次第の下書きと、遺言の写しを置いた。写しは伏せておいた。


「まあ。奥様が、わたくしをお呼びになるなんて」


 この方は私を奥様と呼ぶときに、いつも一拍置かれる。三年、一度も縮まらない一拍だ。


「追悼式のことで、お力をお借りしたいのです。どなたを上座にお通しするか、わたくしにはわかりませんの」


「それは、わたくしがいちばんよく存じておりますわ。お姉様の頃のお客様ですから」


 私は微笑んだ。腹の底にぐっと力を込めて、それを保った。頬の位置と声の高さは三年前から決まっているのに、この半月、形を保つのに腹の力がいるようになった。


「ですから、お願いしたいのです。招待状の宛名を、書いていただけますか」


「宛名」


「三十七枚ございますの。書記に書かせてもよいのですけれど」


「お待ちになって」


 妹君の声が、わずかに高くなった。


「他家の書記に、お姉様のお客様のお名前を書かせるのですか」


「いけませんでしょうか」


「いけませんわ。お姉様の追悼のお式ですのよ」


「では、どうすればよろしいのでしょう」


「わたくしが書きます」


 妹君は椅子を引いて、ご自分から卓に向かわれた。


 思ったとおりだった。この方は、姉の名のつくものを他人の手に渡さない。三年、そうやって鍵も紙も抱えてこられた。


 ペンを取る手は、慣れていた。


 侯爵夫人、伯爵夫人、王都の司教代理。名を書き上げるたびに、妹君は少し声を出して読まれる。読み上げるのが楽しいらしい。


「ローゼンタール伯爵夫人。……このお方は」


「わたくしの学院の折の友人ですわ。王都のご弔問のお取りまとめをお願いしましたの」


「何人ほど、おいでになりますの」


「王都からは十四、五人になるかと存じますわ。名簿ができましたら、お見せします」


「ぜひ拝見しますわ。お姉様のお式ですから」


 この方は数をお気になさる。何人来るか、どなたが上座か、だれが自分に挨拶するか。名前をひとつずつは、見ない方だ。


 インクの音が続くあいだ、私は書き損じを拾って卓の端にまとめていた。名前の一字を書き違えた紙が、三枚出た。


「それは、お捨てになって」


「ええ。あとでわたくしが始末いたしますわ」


 十七枚目で、妹君は手を止めて肩をまわされた。


「お姉様は、こういうことを一度もなさらなかったの。ぜんぶわたくしがやりました。頼まれたこともありません。頼まなくてもやると思っておいでだったの」


 妹君の声が、そこだけ低くなった。


 私はそれを聞かなかったふりをして、炭を足した。


 三十七枚を書き終えるのに、蝋燭が指の幅ふたつ短くなった。


「奥様。これでよろしいでしょうか」


「ありがとうございます。とても美しい字ですわ」


「お姉様には及びませんけれど」


 そこで、私は伏せていた紙を返した。


 九月二十八日。遺言の写しである。


「もうひとつ、お願いがございますの」


「……なにを」


「石工に、記念の板を彫らせますの。お義姉様のお言葉を一行だけ」


「ええ」


「ですから、文字の見本が要りますの。この一行を、あなたのお手で写していただけますか」


 部屋が、しんとした。


 炭のはじける音が、はっきり聞こえた。


 妹君の手は、ペンを持ったままだった。その指が、卓の上でひとつだけ動いた。


「――それは、書けません」


「まあ。なぜ」


「お姉様のお言葉を、わたくしの手で写すなんて。畏れ多いことですわ」


「けれど、宛名は書いてくださいましたわ」


「宛名とは違いますわ」


「一行でよろしいのです。――わたくしが死んだら、二度と誰も愛さないで。それだけ」


 声に出してみると、ずいぶん短い一行だった。


 三年この屋敷の空気をぜんぶ作ってきた言葉が、二十字たらずで終わる。


 妹君の喉が動いた。


「……手が、震えますの」


「では、お名前だけでも。アデライン、と」


「書けません」


 二度目は、はっきりした声だった。


「奥様。わたくし、お姉様のためにと思って三年やってまいりました。それでもまだ、足りないのでしょうか」


 被害者のお顔になられるのが、いつもここだ。私は三年見てきたので、もう手順がわかる。


 喉の奥が熱くなった。私は丹田に力を込めて微笑んだ。


「いいえ。無理を申しました」


「……ほんとうに」


「ええ。石工には、わたくしの字で渡しますわ」


「奥様のお字で」


「わたくしの字でしたら、だれのものでもありませんもの」


 妹君は少しのあいだ私の顔をご覧になって、それから、いつもの微笑みに戻られた。


「奥様は、おやさしいのね」


「そうですか」


「ええ。お姉様も、きっとそうおっしゃいますわ」


「奥様。その写しは、わたくしがお預かりしますわ」


 妹君は卓の上へ手を伸ばされた。


「お姉様のお言葉ですから。人の目に触れる場所に置いておくのは、よろしくありませんわ」


「ええ。おっしゃるとおりですわね」


 私は写しを渡した。妹君はそれを胸に抱えて、扉のところで一度振り返られた。


「奥様。お式のことは、わたくしにお任せくださいませ」


「はい。頼りにしておりますわ」


 妹君は出ていかれた。ペンは卓に残されていた。


 私はそのペンを取って、紙の隅にあの一行を書いてみた。書けた。当たり前のことが、はっきりした形で残った。


 写しは、ほかに二枚取ってある。一枚は先生がお持ちで、もう一枚は私の手元にある。


 紙を数える習慣は、実家で覚えた。商家の出だと笑われるけれど、この三年でいちばん役に立った習慣がそれだ。


 私は書き損じの三枚を、袖の下に入れた。


 廊下で先生に会った。壁ぎわの窓から、雪の積もった庭をご覧になっていた。


「先生。書き損じが三枚、手に入りましたわ」


「見せてください」


 紙を渡すと、先生はそれを窓の光に当てて、ずいぶん長く黙っておられた。


「公爵夫人」


「はい」


「書き出しの一字が、内へ巻いています」


「遺言もそうでしたわ」


「アデライン様の手紙は、外へ開いていました」


「ええ。先生に言われてから、わたくしも見比べました」


「巻きの向きは、直りません」


「直らない、とおっしゃいますと」


「字の形は真似られます。速さも真似られます。ですが、手首の回る向きは癖です。三年練っても、急いで書けば戻ります」


「では、三十七枚の宛名はいかがでしょう」


「あれはゆっくり書かれています。名を並べるだけですから。文になると、速さが出ます」


 急いで書けば戻る。


 あの一行は、急いで書かれていた。行の終わりの跳ねが、そう言っている。


 先生は紙を返して、それからこうお訊きになった。


「なぜ、今お問いにならないのですか」


 窓の下の庭は白かった。白く見えるのは上の一枚だけで、その下の層は灰色に固まっているのだとギュンターが言っていた。


「紙は燃えますわ」


「……ええ」


「あの紙が旦那様の机のどこにあるか、あの方はご存じですの。今夜わたくしが問えば、遺言は明日の朝には灰になっておりますわ」


「人は燃えません」


「ええ。ですから、人のいる場所まで取っておきますの」


 先生は、それ以上何も言われなかった。


 一月十五日。この屋敷に、三十七の家から人が来る。逃げ道のない部屋で、もう一度おなじことをお願いするつもりだ。


 ――それは、書けません。


 あの方は、そうおっしゃった。


 書きたくない、でもなく、書きません、でもなく。


 書けません、と。


 書けない理由は、ひとつしかない。今お書きになれば、九月二十八日の紙とおなじ手が出てしまうからだ。


 私は袖の三枚を確かめて、自分の部屋へ戻った。


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