第17話「――それは、書けません」
本作品は完結迄描き切っています!!
翌日の午後、小客間に炭を足させて、お義姉様の妹君をお招きした。
卓の上には招待状の束と、式次第の下書きと、遺言の写しを置いた。写しは伏せておいた。
「まあ。奥様が、わたくしをお呼びになるなんて」
この方は私を奥様と呼ぶときに、いつも一拍置かれる。三年、一度も縮まらない一拍だ。
「追悼式のことで、お力をお借りしたいのです。どなたを上座にお通しするか、わたくしにはわかりませんの」
「それは、わたくしがいちばんよく存じておりますわ。お姉様の頃のお客様ですから」
私は微笑んだ。腹の底にぐっと力を込めて、それを保った。頬の位置と声の高さは三年前から決まっているのに、この半月、形を保つのに腹の力がいるようになった。
「ですから、お願いしたいのです。招待状の宛名を、書いていただけますか」
「宛名」
「三十七枚ございますの。書記に書かせてもよいのですけれど」
「お待ちになって」
妹君の声が、わずかに高くなった。
「他家の書記に、お姉様のお客様のお名前を書かせるのですか」
「いけませんでしょうか」
「いけませんわ。お姉様の追悼のお式ですのよ」
「では、どうすればよろしいのでしょう」
「わたくしが書きます」
妹君は椅子を引いて、ご自分から卓に向かわれた。
思ったとおりだった。この方は、姉の名のつくものを他人の手に渡さない。三年、そうやって鍵も紙も抱えてこられた。
ペンを取る手は、慣れていた。
侯爵夫人、伯爵夫人、王都の司教代理。名を書き上げるたびに、妹君は少し声を出して読まれる。読み上げるのが楽しいらしい。
「ローゼンタール伯爵夫人。……このお方は」
「わたくしの学院の折の友人ですわ。王都のご弔問のお取りまとめをお願いしましたの」
「何人ほど、おいでになりますの」
「王都からは十四、五人になるかと存じますわ。名簿ができましたら、お見せします」
「ぜひ拝見しますわ。お姉様のお式ですから」
この方は数をお気になさる。何人来るか、どなたが上座か、だれが自分に挨拶するか。名前をひとつずつは、見ない方だ。
インクの音が続くあいだ、私は書き損じを拾って卓の端にまとめていた。名前の一字を書き違えた紙が、三枚出た。
「それは、お捨てになって」
「ええ。あとでわたくしが始末いたしますわ」
十七枚目で、妹君は手を止めて肩をまわされた。
「お姉様は、こういうことを一度もなさらなかったの。ぜんぶわたくしがやりました。頼まれたこともありません。頼まなくてもやると思っておいでだったの」
妹君の声が、そこだけ低くなった。
私はそれを聞かなかったふりをして、炭を足した。
三十七枚を書き終えるのに、蝋燭が指の幅ふたつ短くなった。
「奥様。これでよろしいでしょうか」
「ありがとうございます。とても美しい字ですわ」
「お姉様には及びませんけれど」
そこで、私は伏せていた紙を返した。
九月二十八日。遺言の写しである。
「もうひとつ、お願いがございますの」
「……なにを」
「石工に、記念の板を彫らせますの。お義姉様のお言葉を一行だけ」
「ええ」
「ですから、文字の見本が要りますの。この一行を、あなたのお手で写していただけますか」
部屋が、しんとした。
炭のはじける音が、はっきり聞こえた。
妹君の手は、ペンを持ったままだった。その指が、卓の上でひとつだけ動いた。
「――それは、書けません」
「まあ。なぜ」
「お姉様のお言葉を、わたくしの手で写すなんて。畏れ多いことですわ」
「けれど、宛名は書いてくださいましたわ」
「宛名とは違いますわ」
「一行でよろしいのです。――わたくしが死んだら、二度と誰も愛さないで。それだけ」
声に出してみると、ずいぶん短い一行だった。
三年この屋敷の空気をぜんぶ作ってきた言葉が、二十字たらずで終わる。
妹君の喉が動いた。
「……手が、震えますの」
「では、お名前だけでも。アデライン、と」
「書けません」
二度目は、はっきりした声だった。
「奥様。わたくし、お姉様のためにと思って三年やってまいりました。それでもまだ、足りないのでしょうか」
被害者のお顔になられるのが、いつもここだ。私は三年見てきたので、もう手順がわかる。
喉の奥が熱くなった。私は丹田に力を込めて微笑んだ。
「いいえ。無理を申しました」
「……ほんとうに」
「ええ。石工には、わたくしの字で渡しますわ」
「奥様のお字で」
「わたくしの字でしたら、だれのものでもありませんもの」
妹君は少しのあいだ私の顔をご覧になって、それから、いつもの微笑みに戻られた。
「奥様は、おやさしいのね」
「そうですか」
「ええ。お姉様も、きっとそうおっしゃいますわ」
「奥様。その写しは、わたくしがお預かりしますわ」
妹君は卓の上へ手を伸ばされた。
「お姉様のお言葉ですから。人の目に触れる場所に置いておくのは、よろしくありませんわ」
「ええ。おっしゃるとおりですわね」
私は写しを渡した。妹君はそれを胸に抱えて、扉のところで一度振り返られた。
「奥様。お式のことは、わたくしにお任せくださいませ」
「はい。頼りにしておりますわ」
妹君は出ていかれた。ペンは卓に残されていた。
私はそのペンを取って、紙の隅にあの一行を書いてみた。書けた。当たり前のことが、はっきりした形で残った。
写しは、ほかに二枚取ってある。一枚は先生がお持ちで、もう一枚は私の手元にある。
紙を数える習慣は、実家で覚えた。商家の出だと笑われるけれど、この三年でいちばん役に立った習慣がそれだ。
私は書き損じの三枚を、袖の下に入れた。
廊下で先生に会った。壁ぎわの窓から、雪の積もった庭をご覧になっていた。
「先生。書き損じが三枚、手に入りましたわ」
「見せてください」
紙を渡すと、先生はそれを窓の光に当てて、ずいぶん長く黙っておられた。
「公爵夫人」
「はい」
「書き出しの一字が、内へ巻いています」
「遺言もそうでしたわ」
「アデライン様の手紙は、外へ開いていました」
「ええ。先生に言われてから、わたくしも見比べました」
「巻きの向きは、直りません」
「直らない、とおっしゃいますと」
「字の形は真似られます。速さも真似られます。ですが、手首の回る向きは癖です。三年練っても、急いで書けば戻ります」
「では、三十七枚の宛名はいかがでしょう」
「あれはゆっくり書かれています。名を並べるだけですから。文になると、速さが出ます」
急いで書けば戻る。
あの一行は、急いで書かれていた。行の終わりの跳ねが、そう言っている。
先生は紙を返して、それからこうお訊きになった。
「なぜ、今お問いにならないのですか」
窓の下の庭は白かった。白く見えるのは上の一枚だけで、その下の層は灰色に固まっているのだとギュンターが言っていた。
「紙は燃えますわ」
「……ええ」
「あの紙が旦那様の机のどこにあるか、あの方はご存じですの。今夜わたくしが問えば、遺言は明日の朝には灰になっておりますわ」
「人は燃えません」
「ええ。ですから、人のいる場所まで取っておきますの」
先生は、それ以上何も言われなかった。
一月十五日。この屋敷に、三十七の家から人が来る。逃げ道のない部屋で、もう一度おなじことをお願いするつもりだ。
――それは、書けません。
あの方は、そうおっしゃった。
書きたくない、でもなく、書きません、でもなく。
書けません、と。
書けない理由は、ひとつしかない。今お書きになれば、九月二十八日の紙とおなじ手が出てしまうからだ。
私は袖の三枚を確かめて、自分の部屋へ戻った。
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