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亡き奥様への貞節とおっしゃるので、三年お待ちしました。では、婚姻無効の手続きをいたしましょう  作者: chiro


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16/30

第16話「お義姉様の字を、見せていただけますか」

本作品は完結迄描き切っています!!

 昨日のうちに、遺言の写しを取らせていただいた。


 先だっての席では、奥様にお見せするものではありませんと断られた紙である。


 それが、記念の板にお義姉様のお言葉を彫らせたいのだと申し上げたら、あっさり出てきた。妹君は快くうなずいて、旦那様の机から、ご自分であの紙を持ってこられた。


 断るのがお嫌なのではない。人に渡すのがお嫌なのだ。見せるのはお好きで、三年そうやって見せてこられたのだろうと思う。


 シャルロッテ様、と呼ぶのを、私はやめた。


 口では今もそう呼ぶ。けれど頭のなかでは、お義姉様の妹君と呼ぶことにした。名で呼ぶと、その人が少し近くなる。近づけたくなかった。


 写しを机の中ほどに置いて、私はマルタを呼んだ。


「奥様、お呼びでございますか」


「マルタ、お願いがございますの」


「はい」


「お義姉様の字を、見せていただけますか」


 マルタの目が、一度だけ大きくなった。


「……前の奥様の、お手でございますか」


「ええ、何でも構いませんの。献立でも、言いつけの紙でも」


「なにに、お使いになるのです」


「記念の板に、お言葉を彫らせます。お義姉様の字の癖に似せたいと、石工に申しますので」


 嘘ではない。石工には本当にそう申した。


 マルタはしばらく私の顔を見ていた。それから、黙って出ていった。


 戻ってくるまでに、蝋燭が指の幅ひとつ短くなった。


「……これでよろしいでしょうか」


 持ってこられたのは、古い文箱だった。


「わたくしが取っておいたものです。捨てられなくて」


「拝見しますわ」


 中には紙が二十枚ほどあった。


 献立の覚え書き。刺繍の図案帳から切り離した一枚。マルタへの言いつけを三行で書いたもの。実家へ出しかけてやめたらしい手紙。


 どれも同じ字だった。細くて、右へ軽く傾いて、行の終わりの跳ねが上へはねあがる。急いで書く人の字だ。


 私は紙をめくって、書かれた日付をひとつずつたどった。


 一二四四年の秋。四五年の冬。四六年の三月、四月、五月。六月の献立が最後だった。


「マルタ、七月から後のものは」


「……ございません」


「一枚も」


「一枚も、ございません」


 私は遺言の写しを、その隣に並べた。


 一二四六年、九月二十八日。


 細くて、右へ軽く傾いて、行の終わりの跳ねが上へはねあがっている。


 六月の献立と、おなじ字だった。


 私が扉の方を見ると、先生が壁ぎわに立っていた。


「先生、ご覧になって」


 先生は机の前まで来て、二枚に目を落とした。それから、ひどく静かにこうおっしゃった。


「これは、病人の字ではありません」


「……と、おっしゃいますと」


「勢いが落ちていません」


「三月寝ついた方の字は、変わるものですか」


「変わります」


 先生は遺言の写しの、行の終わりを指で示した。


「跳ねが上がるのは、手首を抜く癖です」


「ええ」


「寝たままでは、手首が抜けません」


 掌が、机の紙に貼りついていた。私はそれを、そっと剥がした。


「マルタ」


「はい」


「お義姉様は、最後の三月、どのようなご様子でしたの」


 マルタの手が、文箱のふちを握った。


「お部屋から、出られませんでした」


「それは、以前にも伺いましたわ。もう少し、細かく」


「……右のお体が、動かなくなっておいででした」


「右」


「七月の終わりからです。お顔の右側も、八月には少し下がっておいででした」


「右のお手は」


 マルタが黙った。


 私は黙って待った。待てば話す人だと、三年かけてわかっている。


「……右のお手は、まったく動きませんでした」


「いつから」


「八月のはじめごろから。お茶の匙をお持ちになれなくなって」


「それから」


「櫛もお持ちになれず、御髪はわたくしが結いました。お食事は、妹君がおひとりで」


「右のお手は、どうしておられたのです」


「毛布の上に置いたままです。指も、お開きになりませんでした」


 マルタの声が、そこで一度切れた。


「御髪を結うあいだ、わたくしがおさすりしましたけれど、お戻りになりませんでした。最後まで」


 私は自分の手を膝の上でそろえた。震えを見せたくなかった。


「マルタ、お義姉様は最後の三月に、何かお書きになりましたか」


「……お書きになりたがっておいででした」


「まあ」


「八月に一度、妹君が扉口へ立たれたあいだに、お手紙をとおっしゃって。わたくしがペンを左のお手に持たせました」


「書けましたの」


「三行で、お止めになりました」


「その紙は」


 マルタは文箱の底に指を入れて、二重になっていた底板の下から一枚を出した。


「……これでございます」


 紙を受け取って、私は机に置いた。


 紙には三行だけ残っていた。字は大きく崩れて、線が震え、行が下へ落ちていく。最後の一行は判じ物のようで読めない。


 右へ傾いていないし、行の終わりの跳ねもない。


「先生」


「左手です」


「間違いなく」


「間違いありません」


 私は三枚を机の上に順に並べて、日付を声に出して確かめた。


「七月の終わりに、右のお手足が動かなくなった」


「はい」


「八月には、左のお手で三行しか書けなかった」


「……はい」


「そして九月の二十八日に、右のお手できちんと遺言をお書きになった」


 マルタが文箱を抱えたまま少しよろけたので、私は椅子をすすめた。


「お座りになって」


「いえ。奥様の前で、そのようなことは」


「お座りになって。話はまだ終わりませんの」


 マルタは椅子の端に浅く腰を下ろして、膝の上で両手を握った。老いた人の手の甲に、筋が浮いて見えた。


「マルタ、最後の三月にお義姉様のお部屋へ入れたのは、どなたでしたの」


「……妹君でございます」


「あなたも入っておられたでしょう」


「朝、御髪を結うときとお着替えのときだけです。それも妹君のお立会いで。お食事もお薬も妹君が扉口でお受け取りになって、わたくしどもは廊下で待つように言いつけられておりました」


「お医者様は」


「……七月からは、お見えにならなかったと伺っております」


「お見えになっていましたの。十七回」


「……お見えに、なっていたのでございますか」


 マルタの目は、壁ぎわの先生を素通りした。髭と伸びた髪の下に、あの白い襟の方がいるとは思いもしないのだろう。


「家令の控えに残っておりますの。七月から九月まで、十七回。そのたびに妹君が玄関で、姉が会いたくないと言っている、とお帰しになった」


 マルタの唇が動いて、声にならなかった。


「……わたくしは、お医者様が見放したのだと思っておりました。屋敷の者はみな、そう話しておりました」


「その話は、どこから出たのでしょうね」


 マルタは答えなかった。答えは二人ともわかっていた。


「マルタ、もうひとつだけ伺いますわ」


「はい」


「最後のころ、お義姉様は何かおっしゃっていましたか」


「……妹君のお名前を、よくお呼びになりました」


 喉の奥が、少し狭くなった。


「シャルロッテ、シャルロッテと、廊下の端まで聞こえる声で。何度も」


「そう」


「わたくしは、仲のよいご姉妹だと思っておりました。お嬢様は妹君がおいでになると、少し落ち着かれるようでしたから」


 私は、九月二十八日の写しに目を戻した。


 その一月半あとの紙に、右手の字がある。手首を抜いて、行の終わりを上へはねあげた字が。


 喉の奥が熱くなって、私はそれを、微笑みに押し込めた。


 三年分の苛立ちを、頬の位置と声の高さで押し込める。これだけは上達した。


「マルタ、今日はありがとうございました」


「奥様」


「はい」


「あの遺言は、九月の末とうかがっております」


「ええ」


「……あの方は、お名前もお書きになれなかったと思います」


 マルタはそこで、文箱を抱えたまま立ち上がっていた。五十二の人の背が、急に薄く見えた。


「奥様。これは、どういうことでございますか」


「今は申し上げられません」


「わたくしは、あの方はお薬を飲んでおいでだと思っておりました。毎週、ちゃんと」


「ええ」


「それも、違うのでございますか」


 私は答えなかった。答えれば、この人は今夜のうちに義妹の部屋の扉を叩く。


「マルタ、一月十五日まではお待ちくださいませ」


「……なぜ、その日まで」


「人が集まりますから」


 マルタは、それ以上何も訊かなかった。文箱を胸に抱えて、静かに出ていった。


 部屋には、燭台がひとつだけ残った。


 机には三枚ある。六月の献立。八月の三行。九月二十八日の遺言。


 遺言は、偽りだ。


 お義姉様は、書いていない。


 書けなかったのだ。


 窓の外では、雪が降っていた。この庭はどこを掘っても、去年の層に当たる。三年前の九月に書かれたというあの紙だけが、いまもこの屋敷で消えずに残っている。


 お義姉様の字は、もうどこにもない。


 私は蝋燭を吹き消した。


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