第16話「お義姉様の字を、見せていただけますか」
本作品は完結迄描き切っています!!
昨日のうちに、遺言の写しを取らせていただいた。
先だっての席では、奥様にお見せするものではありませんと断られた紙である。
それが、記念の板にお義姉様のお言葉を彫らせたいのだと申し上げたら、あっさり出てきた。妹君は快くうなずいて、旦那様の机から、ご自分であの紙を持ってこられた。
断るのがお嫌なのではない。人に渡すのがお嫌なのだ。見せるのはお好きで、三年そうやって見せてこられたのだろうと思う。
シャルロッテ様、と呼ぶのを、私はやめた。
口では今もそう呼ぶ。けれど頭のなかでは、お義姉様の妹君と呼ぶことにした。名で呼ぶと、その人が少し近くなる。近づけたくなかった。
写しを机の中ほどに置いて、私はマルタを呼んだ。
「奥様、お呼びでございますか」
「マルタ、お願いがございますの」
「はい」
「お義姉様の字を、見せていただけますか」
マルタの目が、一度だけ大きくなった。
「……前の奥様の、お手でございますか」
「ええ、何でも構いませんの。献立でも、言いつけの紙でも」
「なにに、お使いになるのです」
「記念の板に、お言葉を彫らせます。お義姉様の字の癖に似せたいと、石工に申しますので」
嘘ではない。石工には本当にそう申した。
マルタはしばらく私の顔を見ていた。それから、黙って出ていった。
戻ってくるまでに、蝋燭が指の幅ひとつ短くなった。
「……これでよろしいでしょうか」
持ってこられたのは、古い文箱だった。
「わたくしが取っておいたものです。捨てられなくて」
「拝見しますわ」
中には紙が二十枚ほどあった。
献立の覚え書き。刺繍の図案帳から切り離した一枚。マルタへの言いつけを三行で書いたもの。実家へ出しかけてやめたらしい手紙。
どれも同じ字だった。細くて、右へ軽く傾いて、行の終わりの跳ねが上へはねあがる。急いで書く人の字だ。
私は紙をめくって、書かれた日付をひとつずつたどった。
一二四四年の秋。四五年の冬。四六年の三月、四月、五月。六月の献立が最後だった。
「マルタ、七月から後のものは」
「……ございません」
「一枚も」
「一枚も、ございません」
私は遺言の写しを、その隣に並べた。
一二四六年、九月二十八日。
細くて、右へ軽く傾いて、行の終わりの跳ねが上へはねあがっている。
六月の献立と、おなじ字だった。
私が扉の方を見ると、先生が壁ぎわに立っていた。
「先生、ご覧になって」
先生は机の前まで来て、二枚に目を落とした。それから、ひどく静かにこうおっしゃった。
「これは、病人の字ではありません」
「……と、おっしゃいますと」
「勢いが落ちていません」
「三月寝ついた方の字は、変わるものですか」
「変わります」
先生は遺言の写しの、行の終わりを指で示した。
「跳ねが上がるのは、手首を抜く癖です」
「ええ」
「寝たままでは、手首が抜けません」
掌が、机の紙に貼りついていた。私はそれを、そっと剥がした。
「マルタ」
「はい」
「お義姉様は、最後の三月、どのようなご様子でしたの」
マルタの手が、文箱のふちを握った。
「お部屋から、出られませんでした」
「それは、以前にも伺いましたわ。もう少し、細かく」
「……右のお体が、動かなくなっておいででした」
「右」
「七月の終わりからです。お顔の右側も、八月には少し下がっておいででした」
「右のお手は」
マルタが黙った。
私は黙って待った。待てば話す人だと、三年かけてわかっている。
「……右のお手は、まったく動きませんでした」
「いつから」
「八月のはじめごろから。お茶の匙をお持ちになれなくなって」
「それから」
「櫛もお持ちになれず、御髪はわたくしが結いました。お食事は、妹君がおひとりで」
「右のお手は、どうしておられたのです」
「毛布の上に置いたままです。指も、お開きになりませんでした」
マルタの声が、そこで一度切れた。
「御髪を結うあいだ、わたくしがおさすりしましたけれど、お戻りになりませんでした。最後まで」
私は自分の手を膝の上でそろえた。震えを見せたくなかった。
「マルタ、お義姉様は最後の三月に、何かお書きになりましたか」
「……お書きになりたがっておいででした」
「まあ」
「八月に一度、妹君が扉口へ立たれたあいだに、お手紙をとおっしゃって。わたくしがペンを左のお手に持たせました」
「書けましたの」
「三行で、お止めになりました」
「その紙は」
マルタは文箱の底に指を入れて、二重になっていた底板の下から一枚を出した。
「……これでございます」
紙を受け取って、私は机に置いた。
紙には三行だけ残っていた。字は大きく崩れて、線が震え、行が下へ落ちていく。最後の一行は判じ物のようで読めない。
右へ傾いていないし、行の終わりの跳ねもない。
「先生」
「左手です」
「間違いなく」
「間違いありません」
私は三枚を机の上に順に並べて、日付を声に出して確かめた。
「七月の終わりに、右のお手足が動かなくなった」
「はい」
「八月には、左のお手で三行しか書けなかった」
「……はい」
「そして九月の二十八日に、右のお手できちんと遺言をお書きになった」
マルタが文箱を抱えたまま少しよろけたので、私は椅子をすすめた。
「お座りになって」
「いえ。奥様の前で、そのようなことは」
「お座りになって。話はまだ終わりませんの」
マルタは椅子の端に浅く腰を下ろして、膝の上で両手を握った。老いた人の手の甲に、筋が浮いて見えた。
「マルタ、最後の三月にお義姉様のお部屋へ入れたのは、どなたでしたの」
「……妹君でございます」
「あなたも入っておられたでしょう」
「朝、御髪を結うときとお着替えのときだけです。それも妹君のお立会いで。お食事もお薬も妹君が扉口でお受け取りになって、わたくしどもは廊下で待つように言いつけられておりました」
「お医者様は」
「……七月からは、お見えにならなかったと伺っております」
「お見えになっていましたの。十七回」
「……お見えに、なっていたのでございますか」
マルタの目は、壁ぎわの先生を素通りした。髭と伸びた髪の下に、あの白い襟の方がいるとは思いもしないのだろう。
「家令の控えに残っておりますの。七月から九月まで、十七回。そのたびに妹君が玄関で、姉が会いたくないと言っている、とお帰しになった」
マルタの唇が動いて、声にならなかった。
「……わたくしは、お医者様が見放したのだと思っておりました。屋敷の者はみな、そう話しておりました」
「その話は、どこから出たのでしょうね」
マルタは答えなかった。答えは二人ともわかっていた。
「マルタ、もうひとつだけ伺いますわ」
「はい」
「最後のころ、お義姉様は何かおっしゃっていましたか」
「……妹君のお名前を、よくお呼びになりました」
喉の奥が、少し狭くなった。
「シャルロッテ、シャルロッテと、廊下の端まで聞こえる声で。何度も」
「そう」
「わたくしは、仲のよいご姉妹だと思っておりました。お嬢様は妹君がおいでになると、少し落ち着かれるようでしたから」
私は、九月二十八日の写しに目を戻した。
その一月半あとの紙に、右手の字がある。手首を抜いて、行の終わりを上へはねあげた字が。
喉の奥が熱くなって、私はそれを、微笑みに押し込めた。
三年分の苛立ちを、頬の位置と声の高さで押し込める。これだけは上達した。
「マルタ、今日はありがとうございました」
「奥様」
「はい」
「あの遺言は、九月の末とうかがっております」
「ええ」
「……あの方は、お名前もお書きになれなかったと思います」
マルタはそこで、文箱を抱えたまま立ち上がっていた。五十二の人の背が、急に薄く見えた。
「奥様。これは、どういうことでございますか」
「今は申し上げられません」
「わたくしは、あの方はお薬を飲んでおいでだと思っておりました。毎週、ちゃんと」
「ええ」
「それも、違うのでございますか」
私は答えなかった。答えれば、この人は今夜のうちに義妹の部屋の扉を叩く。
「マルタ、一月十五日まではお待ちくださいませ」
「……なぜ、その日まで」
「人が集まりますから」
マルタは、それ以上何も訊かなかった。文箱を胸に抱えて、静かに出ていった。
部屋には、燭台がひとつだけ残った。
机には三枚ある。六月の献立。八月の三行。九月二十八日の遺言。
遺言は、偽りだ。
お義姉様は、書いていない。
書けなかったのだ。
窓の外では、雪が降っていた。この庭はどこを掘っても、去年の層に当たる。三年前の九月に書かれたというあの紙だけが、いまもこの屋敷で消えずに残っている。
お義姉様の字は、もうどこにもない。
私は蝋燭を吹き消した。
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