第15話【SIDE:シャルロッテ】「あの女、帳簿を見ている」
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シャルロッテは、その朝、姉の部屋の鍵を三度も確かめた。
わたくしのことである。
腰の紐に下げた鍵は三年前からわたくしのもので、おなじものを持つ人間はこの屋敷にいない。旦那様さえお持ちでない。
鍵はちゃんとある。あるのに、三度も指でなぞった。
朝の茶が冷えていくのを見ていたら、ニナが入ってきた。
「ニナ」
「はい」
「奥様は、昨夜もあちらにいらしたの」
「……書庫に、おいででした」
「何時まで」
「わたし、二時の鐘までは起きておりましたけれど、そのときまだ灯りが」
わたくしは茶碗を置いた。思ったより高い音が鳴った。
「何をなさっていたの」
「帳簿を、机にお並べになって」
「並べて」
「三年分ぜんぶ、背をこちらに向けて。マルタが燭台を運んでおりました」
マルタ。姉に仕えた侍女頭。
このあいだまでは、あの年寄りも奥様と呼ぶときにきちんと一拍置いていた。
今は置かない。
「それから」
「先だって、家令のギュンターが、古い箱を書庫へ運び入れて」
「箱」
「厨房の下げ物の控えと、侍女の日誌だと聞きました」
息が、いちど止まった。
「……あの流れ者は」
「……ご一緒でした」
髭で顔の下半分が隠れた、あの流れ者。三年前に門で追い返した白い襟の宮廷医とは、似ても似つかない。あのときも、顔などろくに見なかった。
ニナは膝の前で指を組んで、その指をずっと動かしていた。
あの女、帳簿を見ている。
三年、だれも開かなかった紙を。姉は帳簿など見ない人だったし、旦那様は数字をご覧にならない。だからこの屋敷の数字は三年ずっと、わたくしの都合のいい形で積もっていた。
「ニナ。こちらへいらして」
できるだけ、やわらかい声を出した。声の高さだけは自信がある。
「あなたのお母様、まだ寝ついておいでなのでしょう」
「……はい」
「お薬はお高いわね。わたくし、ちゃんとお送りしているつもりですけれど」
「いつも、ありがとうございます」
「弟さんは、六つになられた」
「……七つに、なりました」
「まあ。お大きくなって」
わたくしは、ニナの手をとった。冷たい手だった。
「いいこと。あなたは何も見ていないの」
「……はい。何も」
「そう。よくできたわね」
それから、思いついて訊いた。
「ニナ。あなた、庭へは出ていないわね」
「……庭」
「北側の、姉の部屋の窓の下。あのあたり」
「……行っておりません。冬は、だれも行きません」
「そうね。だれも行かないわね」
ニナの喉が鳴った。飲み込む音だ。
「あのあたりのことを、だれかにお話しした」
「いいえ」
「マルタにも」
「いいえ。だれにも」
「よろしい。それでいいの」
ニナの肩が、細かく震えていた。
この娘は昔から震える。震えている娘は逃げない。逃げる娘は、震えないで出ていくものだ。
ニナを下がらせてから、わたくしは机に向かった。
領都のボルツ先生へ、一筆。三年前に死亡診断書を書いてくださった、あの親切なお医者様へ。
――控えをお確かめくださいまし。余計な紙が残っておりましたら、暖炉の火の始末にでもお使いになって。
――もしどなたかにお尋ねいただくことがあれば、あの冬のことをどうぞ正しくお話しになって。
三年前に一度きちんとお支払いしたのだから、あとはご商売の続く限り、正しくお話しになるはずだ。
お父様にも一枚書いた。ヘルミナ男爵家は、うちの領境の小さな家である。
――お父様。あの藪医者の名をもう一度お出しになる用がありましたら、そのときはお願いいたします。
お父様は止めない方だ。三年前も止めなかった。
封をして、蝋を落とす。蝋はすぐに固まった。
窓の下は雪だった。
新しい雪は、古い雪の形をなぞって積もる。だから庭は年々かさが増して、去年の冬の形はどこにも残らない。
わたくしはそれをいいことだと思っている。
姉のことを、少しだけ思い出した。
最後の三月、姉はわたくしの名をよく呼んだ。廊下の端まで聞こえる声で、シャルロッテ、シャルロッテと。
それまでの二十年で、あの人がわたくしを呼んだ数より多かったと思う。
……それ以前のことは、思い出さないようにしている。思い出しても、どうにもならない。
先だっての茶の席で、あの人はわたくしにこうお訊きになった。
「遺言を聞いたのは、あなただけですか」
わたくしはきちんとお答えした。声も震えなかったと思う。
「はい。お姉様は、わたくしの手を握って、そうおっしゃいました」
それなのに、答えたあとで、膝の上の手が勝手に動いていた。
寒かったのだ。この屋敷は寒い。三年住んでもまだ慣れない。
昼過ぎ、書斎へ行った。
旦那様は書き物をしておいでで、わたくしが入ると顔を上げてくださった。この三年、この方はいつも顔を上げてくださる。
「アルフレート様ぁ」
「シャルロッテか」
「わたくし、ご相談があって参りました。……いえ、やはりよろしいのです。お忙しいのに」
「言ってみろ」
わたくしは目を伏せて、少し待った。待つと、この方はご自分から訊いてくださる。
「どうした」
「奥様が、お姉様のお部屋のことをお気にかけておいでのようで」
旦那様の筆が止まった。
「……そうか」
「わたくし、お姉様のお品を人目に触れさせたくないと思って、鍵をお預かりしてまいりました。それがいけなかったのでしょうか」
「いや。君の言うとおりだ」
「奥様は、帳簿もずっとご覧になっていて。夜もお眠りにならないと聞きました。お体に障りますわ」
「……家政は、あの人に任せてある」
「ええ、ええ。もちろんですわ。わたくしが申し上げることではありませんでした」
それから、いちばん大事なひと言を置いた。
「ただ、お姉様のお部屋の鍵だけは。あれはお姉様のお言葉ですから」
旦那様は少し黙って、それからうなずいた。
「……アデラインの願いだ。俺が守る」
わたくしは頭を下げて、廊下へ出た。
三年、おなじことを申し上げている。おなじ順番で。三年ずっと、おなじようにうなずいてくださる。
あの紙は、わたくしが守ってきた。
――わたくしが死んだら、二度と誰も愛さないで。姉がそう書いた紙である。旦那様はそれを三年守っておいでで、これからも守られる。あの方は誠実なお方だから、ご自分の耳で聞いていないことを一度も疑わない。
三年もったものは、あと十年でももつ。
追悼式は一月十五日。王都からも弔問の方々がお見えになる。
姉の妹として、わたくしが皆様をお迎えする。喪主の隣に立つのはわたくしで、あの女は端の席だ。
端の席で、あの微笑みを貼りつけていればいい。
それが、いちばん気に障る。
三年、一度も崩れないのだ。眉の位置も、声の高さも、判で押したようにおなじ。雪とおなじで、いつまでも溶けない。
いつか一度、崩してみたい。
――でも、もう少し。あと一月で、ぜんぶ片がつく。
わたくしは腰の紐に手をやって、姉の部屋の鍵をもう一度握り直した。
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