第9話 九つの線
座卓の上で、細長い紙が揺れている。
手は触れていない。
胸の奥から引き出した霊気を、できるだけ細く、ゆっくりと紙の下へ送る。力を強めれば飛んでいく。弱めすぎれば落ちてしまう。
紙は指一本分の高さで、頼りなく浮かび続けていた。
「十秒」
久世さんが時間を告げた途端、紙が座卓へ落ちた。
息を吐き、額の汗を拭う。
「どうでした?」
「五日前は天井まで飛ばしてたから、大進歩だね」
「褒められている気がしません」
「ちゃんと褒めてるよ」
この五日間、放課後になるたび社へ通った。今日も学校から直接来たため、私は制服のままだった。久世さんもまだ右腕を吊っている。けれど顔色は初日よりよく、座卓の横には、私が持ってきた教本へ貼るための付箋が山ほど積まれていた。
足元では、タマが退屈そうに尻尾を揺らしている。
「身体強化は?」
「手と足だけなら、少し」
両手を握り、霊気を腕へ通す。
皮膚の下を温かいものが流れた。手首までは細く保てたが、肘を越えたところで急に広がり、袖が風を受けたように膨らむ。
「そこまで」
すぐに霊気を戻した。
「全身を一度に強くしようとしないこと。今は手なら手、足なら足だけでいい。必要のない場所まで強くすれば、維持するだけで集中力を使う」
「いつになったら、邪気を祓う修行を始めるんですか」
「今日」
思わず身を乗り出した。
「ただし、まずは形だけ。タマには触らない」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
否定しようとしたが、タマを見ていたことには自分でも気づいていた。
◇
ミコさんが、黒ずんだ細い紙片を座卓の中央へ置いた。
四隅には小さな石が並べられ、紙片から滲む黒い靄を、薄い膜のような光が覆っている。
「この黒いものが邪気ですか」
「そう。今は見えやすいように、少しだけ封を緩めてある」
久世さんの説明を聞いてから目を凝らすと、紙の表面で黒いものが蠢いているように見えた。
見えているのか、そう言われたから見える気がしているだけなのか、自信はない。
「邪気を取り除くことを、浄化という。霊そのものを祓うのとは違って、魂を残し、まとわりついた邪気だけを消すための処置だ」
「私が覚えたいものですね」
「うん。その基本が破邪九字」
久世さんは左手の人差し指と中指を揃えた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
一字ごとに、空中へ縦と横の線を切っていく。
指先を追うように淡い光が残った。九本の線が格子を結んだ瞬間、紙片にまとわりついていた黒い靄が細く裂ける。靄だけが紙から剥がれ、音もなく消えた。
あとには、白い紙が残っている。
「紙は傷ついてない……」
「九字を通したのは、紙じゃなく邪気だからね。対象と邪気を見分け、断つものだけに術を届かせる」
「見分けられなかったら?」
「紙ごと傷つける。相手が霊なら、魂ごとね」
タマの首に巻かれた白い布を見る。
「だから、タマへ使うのはまだ駄目なんですね」
「分かってくれて助かるよ」
ミコさんが、邪気のついていない紙を新しく置いた。
「まずは九字の形を覚えてください」
久世さんと同じように、右手の人差し指と中指を揃える。
「臨、兵、闘――」
三字目を切ったところで、最初の二本がほどけるように消えた。
「一度に出す霊気が多すぎる。線を太くする必要はないよ」
もう一度、今度は細くなるよう意識する。
力を抑えすぎて、一字目から何も残らなかった。
「紙を浮かせたときと同じです」
ミコさんが、私の指先を見る。
「九本とも、同じ量の霊気を保ってください。途中で増やしても、減らしてもいけません」
「糸一本分ですか」
「まずは、それより細く」
初日より難しくなっている。
何度も繰り返した。
三字目。四字目。次は五字目。
少しずつ先へ進むが、一本へ意識を向けすぎると、それまでに切った線が消えてしまう。すべてを保とうとすれば、今度は次の一字が作れない。
九度目の挑戦で、ようやく九字目まで指が動いた。
最後の横線を切る。
九本の光は格子になる前に揺らぎ、端から崩れた。
「最後までできたのに」
「線を引くだけならね。術としてはまだ繋がってない」
「もう一度やります」
「その前に、邪気を見分けるほうも確かめよう」
◇
五日前と同じ二つの小石が、座卓へ置かれた。
ミコさんが布袋の中で混ぜているため、どちらに邪気が封じられているのかは分からない。
目を閉じ、手をかざす。
何も感じない。
近づいてみても、目を開けて見比べても、違いは見つけられなかった。
「右」
「左です」
ミコさんが答えた。
「前より分からなくなった気がします」
「前は土の汚れで選んだだけでしょ」
「それでも半分は当たります」
「それは見分けたとは言わないよ」
久世さんがタマへ目を向ける。
「君自身の感覚を育てる必要はある。ただ、タマの感覚を借りる方法も覚えておいたほうがいい」
「そんなことができるんですか」
「使い魔の契約で、二人の間には霊気が行き来する道ができている。今も感情くらいは伝わるんだよね」
「はい」
「その道を少しだけ広げて、感覚を重ねる。俺が使う降霊術に近い方法だ」
「降霊術?」
「霊を自分の身体へ降ろして、力や感覚を借りる術。俺がいちばん得意なものだよ」
初めて会った日にいた五人を思い出す。
「すずたちを、身体の中に?」
「さつきは例外。ほかの四人も、本人が同意したときだけね。君とタマも同じ。タマが嫌がるなら、この練習はしない」
タマが立ち上がり、私の膝へ前脚をかけた。
「やってくれるの?」
短く鳴いて、膝の上へ乗ってくる。
久世さんはタマの首の封印を確かめ、ミコさんは私たちを囲むように四つの小石を置いた。
「今日は入口に触れるだけ。見つけても引っ張らない。自分から入り込むのも駄目。タマがこちらを見るのを待って」
タマの背中へ手を置き、目を閉じた。
膝の上にある重み。手のひらに触れる毛。ゆっくり上下する背中。
その奥に、自分ではない何かがいる。
温かくて、懐かしい。十年間、ずっとそばにあった気配だった。
早く、と呼びかけたくなる。
けれど、待った。
私が無理に進めば、タマの気持ちを無視してしまう。
しばらくして、タマが顔を上げた気配がした。
一瞬だけ、世界が低くなる。
畳の匂いが濃くなり、庭を走る小さな足音が、すぐ耳元で鳴ったように響いた。閉じているはずの目に、座卓の下がぼんやりと映る。
次の瞬間、冷たいものが指先へ絡みついた。
「離れて」
久世さんの声に、目を開ける。
見慣れた高さへ戻った部屋で、タマの首に巻かれた布の文字が淡く光っていた。
「今のは……」
「道の入口には触れた。ただ、タマを降ろせたわけじゃない。最後に封印が反応した。邪気が漏れたんだ」
指先を見る。何もついていない。それでも、冷たさだけが残っていた。
「もう一度やれば、見分けられるかもしれません」
「今日は終わり」
「一回しかしてません」
「一回で封印を越えて邪気まで漏れたから終わり。俺がいないところでは絶対に試さないこと。タマも止めてね」
タマが返事をするように鳴いた。
「どうして久世さんには素直なの」
不満はあったが、さっき感じた冷たさを思い出すと、無理に続けるとは言えなかった。
帰り支度を始めると、ミコさんが二つの小石を布袋へ入れた。袋を軽く振ってから、座卓の左右へ一つずつ置き直す。
「最後に、もう一度だけです」
相変わらず、見た目に違いはない。
けれど左の小石へ目を向けたとき、指先に、ごくかすかな冷たさが蘇った。
「左」
「正解です」
偶然ではないと言い切れるほど、はっきりとは分からなかった。
「もう一度、九字を試してもいいですか」
「駄目。今日は形と感覚を覚えただけで十分」
九つの線は、まだ一つの術にならない。
タマとの感覚も、ほんの一瞬重なっただけだった。
それでも、これまで届かなかった場所へ、指先だけは触れられた気がした。
足元で待っていたタマを抱き上げる。
次は、あの九本の線をきちんと繋げよう。
急がずに進める自信は、まだない。
だからせめて、タマと歩調を合わせることだけは忘れないようにしよう。




