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第8話 糸一本ぶん

「霊気は、それ自体には善も悪もない。ただの力だよ」


 久世さんが分厚い本を開いた。


 社には、紙をめくる音と庭で鳴く鳥の声が響いている。顔合わせが終わると、五人は思い思いの場所で過ごし始めた。ミコさんは座卓のそばに残り、岳さんは縁側から庭へ長い脚を投げ出している。


 右腕を吊った久世さんの代わりに、二人が実技を手伝ってくれるらしい。


「人も幽霊も霊気を持っている。幽霊にとっては、姿を保つための力でもある。使い方次第で物を動かせるし、大量にぶつければ、それだけで相手を傷つけることもできる」


「私が採石場でやったみたいに?」


「あれは使ったというより、無差別にはなったに近いかな」


 否定できなかった。


 あのときは必死だった。ただタマのもとへ行きたくて、目の前にある見えない壁へ、体の中にあったものをぶつけた。


「では、邪気は何なんですか」


「霊気とは別の力だ。魂へまとわりつき、霊気を食べて育つ。悪意を持つ霊が宿していることが多いけど、邪気を持っていることと、その者に悪意があることは同じじゃない」


 足元にいたタマを見る。


 タマは前脚を揃え、私たちの話を聞いているように座っていた。首には、赤い文字の浮かぶ白い布が巻かれている。


「タマのことですね」


「そう。タマは悪霊や妖怪を食べて、そいつらが持っていた邪気まで取り込んだ。そこへ君の霊気を入れ続けたから、邪気も一緒に育った」


「霊気と邪気は、見れば分かるものなんですか」


「慣れればね」


 久世さんがミコさんへ目を向けた。


 ミコさんは座卓へ、白い小石を二つ置いた。形も大きさもほとんど同じで、どちらも河原に落ちていそうな石にしか見えない。


「片方には私の霊気を込めています。もう片方には、ごく少量の邪気が封じられています」


「危なくないんですか」


「封は朔が施したものです。この程度なら、触れても害はありません」


「たぶん」


「朔」


「冗談。安全は確認してある」


 初日にする冗談ではないと思う。


「どちらに邪気が入っているか、当ててみて」


 小石を見つめた。


 右。いや、左だろうか。


 目を細めても、顔を近づけても違いは分からない。手をかざしてみたが、どちらからも何も感じなかった。


「右です」


「理由は?」


「少し黒っぽく見えます」


「それは土の汚れだね。邪気が入っているのは左」


 久世さんが左の小石を示した。


「見えるのに、分からないんですね」


「幽霊が見えることと、力の性質を見分けることは別だからね。君は今まで、どちらも同じものとして見てきたんだと思う」


 十年間、タマの中にある邪気にも気づかなかった。


 そう思った途端、左の小石が急に恐ろしいものに見えた。


「これが分かれば、タマの邪気も祓えますか」


「小石に封じた邪気と、魂に十年絡みついた邪気を一緒にしない。まずは見分ける。それから、自分の霊気を必要な分だけ動かす。その両方ができて、ようやく祓う練習に入れる」


「今からやります」


「話を聞いてた?」


「見分けて、必要な分だけ動かせばいいんですよね」


 久世さんが左手で眉間を押さえた。


「その必要な分だけ、が難しいんだよ」


     ◇


 ミコさんが座卓の上へ、土を薄く敷いた盆を置き、その中央へ細長い紙を一枚載せた。


「この紙を、霊気で持ち上げてください」


「触らずに?」


「はい。糸一本分ほどの霊気で十分です」


 簡単そうに聞こえた。


 紙へ手をかざし、採石場で結界を壊したときの感覚を思い出す。胸の奥にある何かを、手のひらへ集める。温かいものが腕を通った。


「待って。多い」


 久世さんが言い終わるより先に、紙が弾け飛んだ。


 天井へぶつかり、ひらひらと落ちてくる。紙だけではない。座卓の上にあった小石と湯呑みまで浮き上がっていた。


 ミコさんが盆へ手を触れる。敷かれていた土がせり上がり、倒れかけた湯呑みを受け止めた。


「すみません」


「予想はしていました」


 ミコさんは何事もなかったように湯呑みを戻した。


「今ので、糸何本分ですか」


「縄かな」


「もう一度やります」


 二度目は、紙が天井まで飛んだ。


 三度目は、少し浮いて横へ滑った。


 四度目は何も起きなかった。


 力を抑えようとすると、今度は手のひらまで霊気が来ない。少し強く引けば、一気に溢れる。蛇口を少しだけ開けたいのに、閉じたままか、外れるかのどちらかだった。


「今の練習は、紙を浮かせるためだけのものじゃない」


 久世さんが自分の左腕へ目を落とす。


「霊気を筋肉や骨に沿わせれば、動きを強くできる。体の表面へ薄く留めれば、受ける衝撃も減らせる。どちらも身体強化の基本だよ」


「強くするのに、力を少ししか使わないんですか」


「必要な場所へ留められればね。いくら霊気を出しても、外へ逃げた分は何の役にも立たない」


 ミコさんが障子を開けた。


 岳さんが鴨居をくぐり、私の前へ座る。膝をついても、座っている私よりずっと目線が高い。差し出された手は、私の顔を隠せそうなほど大きかった。


「まずは普通に押してみて」


 両手を岳さんの手のひらへ当て、力を込める。


 動かない。


 腕だけでなく、肩や背中まで使って押しても、岳さんの手は壁のようにそこにあった。


「次は霊気を使う。手のひらへ集めるんじゃなく、足から腰、肩、腕まで、細い一本の道を作るつもりで」


 足の裏へ意識を向ける。


 胸の奥から引き出した熱を、足、腰、肩へ順番に動かす。途中で霊気が広がろうとするたび、細い道へ押し戻した。


 額に汗が滲む。


「そのまま、押して」


 岳さんの手を押した。


 畳が軋み、次の瞬間、私の体だけが後ろへ弾かれる。岳さんの反対の手が背中を支えた。


「今のはどうでした?」


「力のほとんどが足元と手のひらから外へ逃げた。岳へ届いたのは、ほんの少し」


「少しは届いたんですね」


「採石場よりは、ずっと上手な使い方だったよ」


 褒められた気がしない。


 岳さんがもう一度、手を差し出した。


 今度は押すことより、霊気を体の中に留めることだけを考えた。足から腕まで作った細い道が崩れないよう、一か所ずつ確かめる。


 力を込める。


 岳さんの手は動かなかった。けれど、私の体も後ろへ弾かれなかった。


「今のほうがいい」


「岳さんは全然動いてません」


「岳を動かす修行じゃないからね」


 岳さんも、小さく頷いた。


「もう一度やります」


 次なら、少しくらい動かせるかもしれない。


 胸の奥へ意識を向けると、さっきより強い熱が膨らんだ。


「佐々木さん、一度止めて」


「まだできます」


「できることと、続けていいことは別だ」


 久世さんの声から軽さが消えた。


 それでも岳さんの手から離れずにいると、足へ柔らかなものが触れた。


 タマが私の脛へ額を押しつけている。


 契約を結んでから、ときどきタマの感情が自分のもののように伝わってくる。今は、心配と、わずかな苛立ちだった。


「タマまで止めるの?」


 短く鳴き、タマが私を見上げる。


 心配の奥から、強い拒絶が伝わってきた。これ以上続けてほしくない。それだけは、言葉がなくても分かった。


 タマは一人で私を守ろうとして、いなくなった。


 私はタマを助けたいと焦るあまり、今度はタマの気持ちを置き去りにしかけている。


 岳さんの手から離れると、膨らんでいた熱がゆっくり胸の奥へ戻っていった。


「……少し休みます」


「そうして。急ぐほど、力は言うことを聞かなくなる」


 岳さんが立ち上がる前に、大きな手で私の頭を一度だけ撫でた。


 励ましてくれたのだと思う。


 糸一本分の力さえ、今の私にはうまく扱えない。


 けれど、力を出すことだけが前へ進むことではないらしい。


 足元へ座ったタマの背中を撫でながら、今度こそきちんと休むことにした。

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