第10話 守るために
五月半ばの金曜日。
九本目の線が、空中に残った。
縦と横に重なった淡い光が、崩れそうになりながら一つの格子を作っている。
「できた……」
「形だけならね」
久世さんの言葉と同時に、九本の線がほどけて消えた。
「もう少し喜ばせてくれてもいいじゃないですか」
「邪気へ通せるようになったら、いくらでも褒めるよ」
学校帰りに社へ通う生活にも、少しずつ慣れてきた。
紙を浮かせる時間は伸び、身体強化も手足だけなら短い間保てる。破邪九字は、今ようやく形が繋がったところだ。
それでもタマの邪気を祓うには、まだ遠い。
もう一度指を構えたとき、社の引き戸が三度鳴った。
「開いてるよ、直人」
久世さんが戸の向こうへ声をかける。
「ノックだけで分かるの、気持ち悪いな」
入ってきたのは、久世さんと同じくらいの年齢の男だった。紺色の上着は皺だらけで、緩めたネクタイも曲がっている。片手に大きな筒を抱え、目の下には濃い隈ができていた。
「ここに来るのは直人ぐらいだからね。それより、ひどい顔」
「誰の頼みで、鏡の後始末までしてたと思ってる」
「頼んできた本人」
「分かってるなら、お茶くらい出せ」
軽い調子で言いながらも、男は笑わなかった。
久世さんが私へ顔を向ける。
「高城直人。俺の昔からの友人で、この辺りを管轄してる陰陽師」
「初めまして。佐々木優香です」
「聞いてるよ。そっちがタマだな」
高城さんの視線が、足元のタマへ落ちた。警戒はしている。けれど、敵を見るような目ではなかった。
「今日は、その二人にも関係がある話だ」
◇
高城さんが筒から取り出したのは、町の地図だった。
座卓いっぱいに広げられた地図には、赤い印がいくつも書き込まれている。駅前、住宅地、川沿い、私の学校からそう遠くない場所にもあった。
「ここ十日ほどで確認した霊障だ。悪夢や金縛りだけならまだいい。昨日は、誰もいない道路へ飛び出した子供が車に轢かれかけた。本人は、死んだ祖母に呼ばれたと言ってる」
「同じ霊の仕業?」
「違う。残っていた気配は全部ばらばらだ。鏡の呪具とも関係ない」
高城さんの指が、地図の上を移動する。
「一件ずつなら俺でも処理できる。でも、同時に起きれば体は一つしかない。昨日は五件重なった」
赤い印は町の一部ではなく、全体へ散っていた。
「どうして、急にこんなに増えたんですか」
尋ねると、高城さんではなく久世さんが答えた。
「はっきり断定はできないけど、今までタマが抑えていた反動だと思う」
「タマは町を守っていたんですか」
「そのつもりはなかっただろうね。君を狙う悪霊や妖怪を食べ、近づくものを追い払っていた。その結果、この辺りの霊はタマを恐れて動けなかった」
タマが地図の匂いを嗅ぎ、何も知らないように座卓の下へ潜り込んだ。
「大きな蓋がなくなったようなものだ」
高城さんが言う。
「前からいた連中が動き始めた。外から入り込んでくる悪霊までいる。このまま増えれば、俺一人では抑えられない」
「それで?」
久世さんの声が低くなった。
「今朝、陰陽庁へ増援を要請した」
部屋の隅にいたすずの肩が強張る。
久世さんは何も言わなかった。
「朔が嫌がるのは分かってる。俺だって、あそこを信用してるわけじゃない。でも、町の人間を守るには人数がいる」
「要請だけなら、俺に話す必要はないよね」
「原因の報告を求められた。増援が来れば、霊を引き寄せる佐々木に気づく。隠し通すのは無理だ」
高城さんが私を見る。
「術を学び始めたばかりなのに、並の術者を大きく超える霊気を持つ高校生。その使い魔は、町まで届く邪気を放ったことがある。陰陽庁が放置できる組み合わせじゃない」
責める口調ではなかった。
だからこそ、何も言い返せなかった。
「私は、危険なんですか」
「今の佐々木が誰かを傷つけたいと思ってる、という話じゃない。扱いきれない力を持ち、その限界を誰も知らない。それを調べずに放置するほうが、組織としては無責任になる」
怖い言葉だったが、間違っているとは思えなかった。
「報告すれば、どうなりますか」
「調査はされる。封印と契約の確認も求められるだろう。危険だと判断されれば、二人を引き離す案も出る」
タマを抱き上げる。腕の中から、私の不安を感じ取ったタマの警戒が伝わってきた。
「させないよ」
久世さんが、静かに言った。
「でも、隠せば余計に危険な存在だと思われる」
高城さんも声を荒らげない。
「だから、向こうが結論を出す前に朔が説明しろ。封印を組んだ術者として、監督方法と安全策を示すんだ。俺からも、二人を今すぐ拘束する必要はないと報告する」
「君の立場まで悪くなるよ」
「今さらだ。もぐりの陰陽師へ鏡の調査を頼んだ時点で、綺麗な経歴は諦めてる」
久世さんは地図へ目を落とした。
長い沈黙のあと、赤い印を一つずつ確かめるように見ていく。
「タマの封印は俺が定期的に確認する。優香に教える術と修行内容も、すべて俺が管理する。封印に異常があれば、すぐ報告する」
「増援を町へ回すこと。優香とタマの調査は俺の立ち会いの下で行うこと。二人を勝手に引き離さないこと。その条件を飲ませる」
「簡単じゃないぞ」
「そうだろうね。簡単なら、君が済ませてる」
久世さんが顔を上げた。
「分かった。明日、俺が陰陽庁へ行く」
久世さんが五人を見回した。
「すずと岳は、俺と一緒に来て。さつきは陰陽庁の上から周りを見張ってくれる?」
「分かりました」
すずが頷き、岳さんも無言で頭を下げた。
「よかろう。あの者どもの懐へ入るつもりはない」
さつきさんが静かに答える。
久世さんは、地図を見ていたミコさんと玄斎さんへ顔を向けた。
「ミコ、玄斎。俺が戻るまで、直人を手伝ってくれる?」
「承知しました」
「人手が足らぬのであろう。任せておけ」
高城さんが二人へ頭を下げた。
「助かる」
◇
翌朝、久世さんは社の前で私に四枚の札を渡した。
一枚ずつ違う文字が書かれ、裏には青い線が引かれている。
「留守中は、紙を浮かせる練習と、手足だけの身体強化。それから、何もない場所で九字の形を作るところまで。邪気には使わない。タマとの感覚共有も、俺が戻るまで禁止」
「分かっています」
「念のため、言ってみて」
「基礎の練習だけ。邪気には触らない。感覚共有もしません」
「よし」
久世さんが四枚の札を指す。
「異常を感じたら、まずこの札を自分の周りの四方へ置いて、『結』と言う。術は札へ組んであるから、君でも結界を張れる」
「何でも防げるんですか」
「霊や邪気は防げる。でも、生きた人間までは止められない。人に取り憑いたものが相手なら、邪気を遠ざけられても、身体は結界を越えてくる。だから札があるからといって、戦おうとは思わないこと」
続いて、細く折られた二枚の札を渡された。一枚には円、もう一枚には三角の印がある。
「円が高城、三角がミコへ繋がる。異常が起きたら二枚とも折る。君の居場所が伝わるから、近くにいるほうが向かう」
「結界を張って、助けを待つ」
「そう。自分で確かめに行かない。タマも戦わせない。二人とも結界から出ない」
「もし、ほかの人が襲われていたら?」
久世さんが口を閉じた。
「助けられる範囲で結界へ入れる。でも、自分まで倒れれば助けを呼べなくなる。まず連絡すること」
何があっても見捨てろとは言わなかった。
けれど、自分の力だけでどうにかしろとも言わなかった。
「もう一度。異常が起きたら?」
「訓練を止めて、四枚の札で結界を張る。高城さんとミコさんへ連絡して、結界の中で待ちます」
「約束ね」
「はい」
「それと、俺が戻るまでは、なるべく家から出ないで」
「家から……今日の補習、どうしよう」
「補習? 佐々木さん、成績悪いの?」
「違います!」
「タマを探すために学校を休んだ分です」
「ああ……俺にも少し責任があるやつか」
「少しだけです」
久世さんが小さく息を吐いた。
「補習は行っていいよ。ただし、札は全部持っていくこと。タマから離れない。終わったら寄り道せず帰る」
「分かりました」
石段の下では、すずと岳さんが待っている。さつきさんの姿は見えなかったが、はるか上空から同行するらしい。高城さんとミコさん、玄斎さんは、夜明け前から古い団地で住民が一斉に目を覚まさなくなった霊障へ対応していた。
久世さんは彼らを連れ、嫌っている陰陽庁へ行く。
町の人たちと、私とタマを守るために。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
久世さんたちの姿が石段の下へ消えるまで、タマと並んで見送った。




