第11話 待っていた悪霊
◇ ???
邪魔な陰陽師の気配が、町から遠ざかっていく。
校舎の屋上からその気配を追っていた。
錆びた給水塔の下。朝日が届かない影の中で、人の形をした黒い靄が揺れている。
陰陽師は一人ではなかった。
鋭い目と耳を持つ小さな霊と、大男の霊を連れている。はるか上空には、触れるだけでも危険だと分かる妖気があった。その三つが、陰陽師と共に同じ方角へ移動していく。
残った二つの気配も、町の北側に集まっていた。そちらには、この辺りを縄張りにしている別の陰陽師もいる。
学校には来ない。
少なくとも、すぐには。
悪意は何日も待っていた。
少女が家を出る時刻。学校にいる時間。あの猫がどこまでついてくるのか。陰陽師の仲間たちが昼間、どこにいるのか。
すべて見ていた。
以前は、近づくことさえできなかった。
三毛猫が少女のそばにいるだけで、空気が軋んだ。気配をわずかに漏らせば、どれほど離れていても赤い目がこちらを向いた。あれに見つかれば、逃げる間もなく食われていただろう。
だが、今の猫は小さい。
首には白い布が巻かれ、内側に力を押さえつけられている。大きかった邪気も、今は近くまで寄らなければ感じられない。
代わりに、少女の中から力があふれ始めていた。
隠されていたものが、蓋を失ったように。
あれを奪えばいい。
あの力をすべて食えば、もう誰からも逃げなくて済む。
奪われる側には戻らない。
校門の向こうに、少女の姿が見えた。
制服姿で鞄を肩に掛け、その足元を三毛猫が歩いている。
悪意は少女へ意識を向け、すぐに違和感を覚えた。
鞄の中に、昨日まではなかった六つの気配がある。
どれも紙切れにすぎない。だが、表面にはあの陰陽師の霊気が隙間なく組み込まれていた。何のための札かまでは分からない。それでも、霊へ向けて用意されたものだとは分かる。
先に奪う。
使える人間は、まだ三人だけ。
十分だった。
少女は、人間を傷つけられない。
◇ 佐々木優香
土曜日の学校は、いつもより音が少なかった。
運動部の掛け声が、校舎の外から遠く聞こえる。昇降口に並ぶ上履きはまばらで、二階へ上がっても、ほとんどの教室は扉が閉まっていた。
補習がなければ、私もここにはいなかった。
「久世さん、成績が悪いって本気で思ったのかな」
足元のタマが短く鳴く。
「否定してくれてもいいんだよ」
もう一度鳴いた。さっきより少し長い。
どちらの意味かは考えないことにした。
教室へ入る前に、鞄の外側から中身を確かめる。
四枚の結界札と、二枚の連絡札。久世さんから渡された六枚は、小さな布袋へまとめ、内側のポケットに入れてある。
異常が起きたら結界を張る。高城さんとミコさんへ連絡する。タマを戦わせず、助けが来るまで待つ。
何度も言わされたから、順番まで覚えていた。
もっとも、学校でそんなものを使うことになるとは思っていない。
補習を受ける生徒は、私を含めて八人だった。
欠席が続いた生徒。部活動の大会で授業に出られなかった生徒。それから、普段の授業を真面目に受けていなかったらしい三人組。
三人は後ろの席を占領していた。
一人は机に突っ伏し、一人は椅子の背にもたれて窓の外を見ている。もう一人は携帯電話を触り続け、前に立った先生から注意されても顔を上げなかった。
「補習にまで来て寝るなら、帰ってもいいんだぞ」
「別に。どうでもいいし」
机に伏せたまま、男子生徒が答えた。
先生が眉をひそめる。
「どうでもいいなら、どうして来た」
「親が行けってうるせえから」
「なら、来た分くらいは――」
「はいはい」
教室の空気が悪くなる。
私は教科書を開き、関わらないよう前を向いた。
タマが机の下へ入り、私の足へ体を寄せる。
姿が見えないだけで、普通の猫と変わらない。そう思ったところで、携帯電話が震えた。
『補習、何時に終わる?』
真帆からだった。
『十二時の予定』
『じゃあ、そのころ校門に行く。お昼食べよ』
自然に頬が緩んだ。
『分かった。終わったら連絡する』
返信して、携帯電話を鞄へ戻す。
タマがこちらを見上げていた。
「真帆とお昼を食べるだけ。寄り道じゃないよ」
目を細められた。
「帰りに食べるんだから、たぶん」
久世さんに知られたら、同じ顔をされる気がした。
◇
一時間目が終わっても、後ろの三人はほとんど問題を解いていなかった。
先生が職員室から追加のプリントを取ってくると言い残し、教室を出ていく。
途端に、窓際の男子生徒が椅子を蹴った。
「まじで、やってらんねえ」
倒れた椅子が床へぶつかり、大きな音を立てる。
近くの女子生徒が肩を揺らした。
「ちょっと、びっくりするからやめてよ」
「うるせえな」
男子生徒が女子生徒を睨む。
その目が、ひどく暗く見えた。
眠そうだったからではない。目の奥に、黒い膜のようなものが重なっている。
胸の奥が冷えた。
見間違いかもしれない。私はまだ、霊気と邪気をきちんと見分けられない。
けれど、机の下から低い唸り声が聞こえた。
「タマ?」
窓際の男子生徒が、こちらを向く。
その口元だけが、不自然に持ち上がった。
「気づいたか」
同時に、後ろの二人が立ち上がった。
三人の足元から黒い靄が広がる。
「みんな、教室から出て!」
叫びながら鞄へ手を伸ばした。
指が届くより先に、横から腕が伸びてくる。
携帯電話を触っていた男子生徒が鞄の持ち手を掴み、そのまま後ろへ引いた。
「返して!」
追おうとした私の前へ、別の一人が立ち塞がる。
タマが床を蹴った。
「タマ、駄目!」
声に反応し、タマが空中で身をひねる。男子生徒の顔へ伸びかけた前脚が止まり、私の机へ着地した。
相手は悪霊でも、使われている身体は生きた人間だ。
私も、タマも、簡単には攻撃できない。
「よく分かってるじゃねえか」
三人の声が重なった。
同じ高さ。同じ調子。
別々の口から出ているのに、一人の人間が話しているように聞こえる。
教室の扉へ走ろうとした男子生徒を、一人が突き飛ばした。倒れた生徒の肩を踏みつけ、もう一人が扉の前に立つ。
「動くな」
鞄を持った男子生徒が、内側のポケットへ手を入れた。
布袋が引きずり出される。
「これだな」
六枚の札が入った袋を、黒い靄が包んだ。
結界札には術が組まれている。けれど、四方へ置いて「結」と言わなければ、結界にはならない。連絡札も、私が折らなければ二人へは何も伝わらない。
「それを返してください」
「嫌だね」
「その人たちから離れて」
「それも嫌だ」
廊下から足音が近づいてくる。
追加のプリントを抱えた先生が、開いたままの扉から教室を覗いた。
「何をしている!」
一人が先生の腕を掴み、教室の中へ引き込んだ。
プリントが宙を舞う。
先生が床へ倒される。助けようと動いた瞬間、別の男子生徒が、近くにいた女子生徒の首へ腕を回した。
手には、筆箱から取り出したカッターナイフがある。
「動けば、この女からやる」
刃が、女子生徒の頬へ触れた。
女子生徒の顔から血の気が引いていく。
「やめて」
「だったら、猫も動かすな」
どうしてタマが見えているのか。
考えるまでもなかった。
話しているのは、この三人ではない。
教室に散った黒い靄が、一度だけ大きく脈打った。
「あの陰陽師は、もう町にいない。お前を助けに来る奴も、今は別の場所だ」
最初から、今日を狙っていた。
私だけではない。久世さんたちの動きまで、ずっと見られていた。
鞄は教室の後ろにある。
結界札も、連絡札も、その中だ。
取り戻そうとすれば、目の前の女子生徒が傷つけられる。タマを向かわせても、操られている男子生徒を無事に退けられるとは限らない。
久世さんとの約束を守るためのものが、すべて手の届かない場所にあった。
「私に、何をさせるつもりですか」
三人が同時に笑った。
「何もしなくていい」
男子生徒の足元から伸びた黒い靄が、床を這ってくる。
「お前の力を、全部寄越せ」
タマが私の前へ立った。
小さな背中の毛が逆立っている。
私はその背中へ手を伸ばし、触れる直前で止めた。
戦わせないと決めた。
タマを守ると決めた。
けれど、この教室で守らなければならないのは、タマだけではなかった。




