第12話 ひとりずつ
床を這う黒い靄が、私の上履きへ触れようとした。
その瞬間、タマが動いた。
「タマ!」
机から机へ飛び移り、人質を取っている男子生徒へ跳びかかる。
白い布に包まれた首元が、かすかに光った。
タマの前脚が、カッターナイフを握る手を打つ。皮膚には傷一つつかなかった。けれど、腕を包んでいた黒い靄が大きく歪み、男子生徒の指が痙攣したように開く。
カッターナイフが床へ落ちた。
人質になっていた女子生徒が、腕の中から逃れようとする。
「このっ!」
男子生徒がもう一方の手を振り上げた。
狙っているのがタマなのか、女子生徒なのか分からなかった。
考えるより先に、両手を突き出した。
「離れて!」
胸の奥から、霊気が一気に噴き出した。
誰かへぶつけてはいけない。
そう思ったせいで、行き場を失った力が頭上へ向かう。
教室の天井に白い光がぶつかり、破裂した。
視界が真っ白に染まる。
目を閉じても、まぶたの裏が焼けるように明るい。悲鳴と、机が倒れる音が重なった。
私自身にも、何が起きたのか分からなかった。
けれど、目を開けていられる人はいない。
「今のうちに、教室から出て!」
手探りで前へ進み、人質になっていた女子生徒の腕を掴む。
「走れる?」
「う、うん」
震える返事を聞き、廊下へ向けて背中を押した。
肩を踏まれていた男子生徒も立ち上がる。眼鏡をかけた女子生徒と背の高い男子生徒が、倒れている先生の両脇へ入った。
「先生、立てますか」
「大丈夫だ。少し、頭を打っただけだ」
そう答えた声は苦しそうだったが、先生は二人に支えられて立ち上がった。
教室の後ろに、私の鞄が落ちている。
手を伸ばせば届きそうな距離だった。
けれど、その横では鞄を奪った男子生徒が目を押さえながら立ち上がろうとしている。札を取りに戻れば、逃げ始めたみんなに追いつかれる。
迷っている時間はなかった。
「佐々木さんも!」
廊下から呼ばれる。
鞄から目を離し、タマと一緒に教室を飛び出した。
◇
「西の階段だ。そこから一階へ下りる!」
先生の指示で、私たちは廊下を走った。
人質になっていた女子生徒と、肩を踏まれた男子生徒。先生を支える眼鏡の女子生徒と、背の高い男子生徒。
教室から逃げ出した五人と先生、全員いる。
誰も置いてきていない。
それを確かめて、ほんの少しだけ息ができた。
教室から離れられた。
あとは外へ出て、誰かを呼べばいい。
運動部が校庭にいる。先生たちも、職員室には残っているはずだ。
そう思った直後、背後の教室から笑い声が聞こえた。
三人分の、同じ笑い声。
振り返る。
白い光の名残が、教室の窓から廊下へ漏れていた。
その光へ黒い靄が絡みつく。
光が校舎の外へ散るより早く、黒い靄が覆っていく。
白かったはずの光が少しずつ濁り、黒い靄の中へ吸い込まれていった。
胸の奥に、嫌な冷たさが走る。
あれは、さっき私が放った霊気だ。
逃げるために放った力を、食べられている。
「止まるな!」
先生に言われ、前を向いた。
西階段まで、あと少しだった。
先頭を走っていた男子生徒が角を曲がり、急に足を止める。
「嘘だろ……」
階段の下に、一人立っていた。
私の鞄を持った男子生徒だった。
さっきまで後ろの教室にいたはずなのに、中央階段を使って先回りしたのだ。
「返してほしいか?」
男子生徒が鞄を持ち上げる。
その後ろから、残りの二人が追ってくる足音が聞こえた。
前と後ろを塞がれた。
「上だ!」
先生が叫ぶ。
私たちは階段を駆け上がった。
二階から三階へ。先生を支えている二人の足が、目に見えて遅くなる。
「先生を貸して」
肩を踏まれていた男子生徒が、眼鏡の女子生徒と代わった。
痛むはずの肩へ先生の腕を回し、歯を食いしばって走る。
眼鏡の女子生徒が私を見る。
「佐々木さん、あの人たち、何なの?」
「今は、説明している時間がありません」
「でも、さっきの光は――」
後ろから手が伸びてきた。
「危ない!」
眼鏡の女子生徒を前へ突き飛ばし、振り返る。
追いついた男子生徒の拳が、顔へ迫っていた。
霊気を体の表面へ集める。
薄い光が頬の前に広がり、拳を受け止めた。
衝撃で体が後ろへ押される。
痛くはない。
けれど、拳を包む黒い靄が光へ食い込んだ。
歯を立てられたように、守りの一部が欠ける。
胸の奥から霊気を足し、穴を塞ぐ。
その間にも、欠けた光は黒い靄へ吸い込まれていく。
「触られると、食べられる……」
「もっと出せ」
男子生徒が笑い、もう一度拳を振るう。
タマが低く唸った。
「傷つけたら駄目」
私が止めると、タマの前脚が床を掻いた。
「この人たちを傷つけない方法が分かるまで、待って」
本当は、方法など思いついていなかった。
拳を防ぎながら後ろへ下がる。二度、三度と触れられるたび、光が少しずつ食いちぎられた。
霊気なら、まだいくらでもある。
胸の奥には、底が見えないほどの力が残っている。
それなのに、一度に引き出せる量には限界があった。薄くなった場所を塞ぎ、みんなの背中を追い、次の攻撃を見る。考えることが増えるたび、霊気の流れが乱れていく。
三階へ上がったところで、眼鏡の女子生徒が再び先生の腕を取った。身軽になった背の高い男子生徒が先へ走り、防火扉を開けて待っている。
「佐々木さん、早く!」
その隙間へ体を滑り込ませる。
私とタマが抜けたのを確認し、男子生徒が扉を閉めようとした。
「手伝う!」
二人で重い扉を引く。
閉じ切る直前、向こう側から強い力がぶつかった。
扉が押し戻される。
「うわっ!」
男子生徒の手が離れた。
開いた隙間から腕が伸び、その胸ぐらを掴む。
「離して!」
霊気をまとわせた腕で、男子生徒の体を引き戻す。
同時に、向こう側から突き飛ばされた。
背の高い男子生徒が廊下の壁へ叩きつけられる。
鈍い音がした。
そのまま床へ崩れ落ちる。
「しっかりして!」
呼びかけても返事がない。
眼鏡の女子生徒が腕を掴み、肩を踏まれていた男子生徒が足を持った。
「運ぶぞ!」
私が扉を押し返す。
向こう側から伸びる手が、光の表面を掻いた。
また一つ、守りが欠ける。
それでも扉が閉じるまで耐えた。
金属同士が噛み合う音がして、防火扉が閉まる。
「こっちです!」
眼鏡の女子生徒が、近くの理科室の扉を開けた。
全員で中へ入り、机と椅子を扉の前へ積み上げる。
ようやく、廊下の足音が遠くなった。
荒い呼吸だけが、理科室に残った。
「何なんだよ、あいつら!」
肩を踏まれていた男子生徒が、積み上げた机を拳で叩いた。
「知らないよ! 急におかしくなって……先生も殴られて……」
人質になっていた女子生徒が、壁に背中をつけたまま崩れ落ちる。自分を抱くように両腕を回し、声を上げて泣き始めた。
「さっきの光は何? 佐々木さんがやったの?」
眼鏡の女子生徒が私を見た。
「それに猫って、誰に話してたの? あの人たちにも何か見えてたの?」
「それは――」
「静かにしろ!」
先生の声が、重なる質問を止めた。
全員が口を閉じる。先生は頭を押さえ、顔をしかめていた。それでも一人ずつの顔を確かめるように見回した。
「俺にも、何が起きているのかは分からない。だが、ここで怒鳴り合っても外には出られない。まず怪我を確認する。外へ連絡する。それから別の逃げ道を探す。いいな」
声は少し震えていたが、言葉ははっきりしていた。
「君は窓から助けを呼んでくれ。二人は、倒れている彼をゆっくり寝かせろ。首はなるべく動かすな」
指示を受け、みんながようやく動いた。
肩を踏まれていた男子生徒が窓を開け、何度も助けを呼ぶ。眼鏡の女子生徒と、泣いていた女子生徒が、背の高い男子生徒を理科室の床へ寝かせた。
理科室が面しているのは、校舎裏の狭い搬入口だった。運動部のいる校庭は反対側で、何度叫んでも返事はない。三階の窓から飛び降りることもできなかった。
先生が、倒れている男子生徒の呼吸を確かめる。
「息はある。だが、目を覚まさない」
人質になっていた女子生徒が、また小さく泣き出した。
「佐々木。何か知っているんだな」
先生が私を見る。
「あの三人は、自分の意思で動いていません。何かに操られています」
「何かって、何だよ」
「全部は、私にも分かりません」
悪霊だと説明して、信じてもらえるだろうか。
迷っている私から、先生が視線を外した。
「詳しい話は、ここを出てからだ。今はあいつらへ近づくな。佐々木の言うとおり、本人たちの意思ではない可能性がある」
それだけ言うと、先生は自分のポケットを探った。
「携帯電話を持っている人は?」
「鞄の中です」
「俺も。教室に置いてきた」
人質になっていた女子生徒と、窓辺の男子生徒が答える。先生の携帯電話も職員室だった。
「私、持ってます。救急車を呼ばないと」
眼鏡の女子生徒が、震える手で制服のポケットから携帯電話を取り出す。
「待って」
タマの唸り声が、さっきより低くなった。
視線は、床に倒れている男子生徒へ向いている。
男子生徒の指が動いた。
「目が覚めた?」
眼鏡の女子生徒が近づく。
閉じていた目が開いた。
黒い膜が、瞳の奥を覆っている。
「離れて!」
間に合わなかった。
男子生徒が跳ね起き、眼鏡の女子生徒の手から携帯電話を叩き落とす。床へ落ちた端末を、踵で踏みつけた。
画面が砕ける。
四人目。
最初は三人だった。
今は、その三人が廊下にいる。それとは別に、目の前の男子生徒も同じ黒い目をしている。
増えている。
「お前のおかげだ」
男子生徒が笑う。
教室で放った霊気。
階段で、守りから食いちぎられた霊気。
それを使って、この悪霊は強くなっている。
男子生徒が眼鏡の女子生徒へ掴みかかる。
間へ入り、両腕で受け止めた。
霊気の光に黒い指が食い込む。
「みんな、奥の準備室へ!」
理科室の奥には、薬品や器具を置く小さな部屋がある。先生が先に入り、残った生徒たちを呼ぶ。
私は男子生徒を押さえながら、少しずつ準備室へ近づいた。
押し返す力は足りている。
けれど、触れている間ずっと霊気が削られる。
腕を覆う光が薄くなるたび、胸の奥から新しい力を送る。送れば送るほど、相手の黒い靄が濃くなっていく。
「佐々木さん!」
先生の声に合わせ、男子生徒を突き放した。
準備室へ飛び込み、扉を閉める。
すぐに外側から体当たりされた。
棚に置かれたガラス器具が震える。
「ここにも別の出口があります」
先生が奥の扉を指した。
準備室にも、さっき通ってきた廊下へ出る扉があった。理科室の出入口から少し離れた位置にある。
「先に行ってください」
扉を霊気で押さえながら答える。
「佐々木、お前も一緒に来るんだ」
「すぐ行きます」
先生は迷ったが、眼鏡の女子生徒に肩を借り、準備室のもう一つの扉から廊下へ出た。
肩を踏まれていた男子生徒も続く。
最後に、人質になっていた女子生徒が残った。
「早く」
声をかけても動かない。
青ざめた顔で、震える扉を見つめている。
「あの人、私たちを助けてくれたのに」
背の高い男子生徒のことだ。
先生を支え、防火扉を押さえ、最後まで私を待ってくれた。
その人が今、扉の向こうから私たちを襲っている。
「操られているだけです。助ける方法を探します」
「どうやって?」
「それは……」
答えられなかった。
扉が大きく軋む。
光に黒い亀裂が走った。
さらに奥で、理科室の入口へ積み上げた机が崩れる。三つの足音が室内へ入り、扉の前にいる男子生徒のものと重なった。
「佐々木を置いていけば、お前たちは帰してやる」
扉の向こうから、四人分の声が聞こえた。
その直後、一人分の足音だけが扉から離れていった。どこへ向かったのか確かめる余裕はない。
「嘘です。信じないで」
「そいつが欲しいだけだ。お前たちは関係ない」
女子生徒の目が、私へ向く。
さっきまで恐怖しかなかった瞳に、別の色が混ざっていた。
「私たち、本当に関係ないよね」
「今は、そんな話をしている場合じゃ――」
「佐々木さんを置いていけば、みんな助かるの?」
「助かるわけない!」
廊下側の扉の向こうから、肩を踏まれていた男子生徒が叫んだ。
「そいつら、最初から俺たちを殺す気だろ!」
「でも、このままじゃ、どっちにしたって……」
女子生徒が両手で頭を抱える。
「もう嫌。帰りたい……佐々木さんを置いていけば済むなら、もうそれでいいじゃない」
足元の影が揺れた。
黒い糸のようなものが、女子生徒の足首へ絡みつく。
「駄目!」
扉から片手を離し、女子生徒へ伸ばした。
その手を、強く払いのけられる。
顔を上げた女子生徒の瞳には、黒い膜が張っていた。
「遅い」
女子生徒の口から、あの声がした。
五人目。
ついさっき、タマと一緒に助けた人だった。
腕を掴まれる。
反射的に霊気を集めると、女子生徒の指先から黒い靄が食いついてきた。
守らなければならない相手が、私の力を食べている。
振り払えば、彼女を傷つけるかもしれない。
止まれば、扉の向こうの三人が入ってくる。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
息が浅くなった。
胸の奥には、まだ力がある。
いくらでもあるはずなのに、指先へ送る霊気が震えている。
タマが私と女子生徒の間へ割って入ろうとした。
「来ないで!」
思ったより強い声が出た。
タマの体が止まる。
その顔を見て、胸の奥がさらに苦しくなった。
助けたい。
誰も傷つけたくない。
そのために力を使うたび、悪霊は強くなり、味方だった人が一人ずつ奪われていく。
廊下側の扉の向こうで、先生と二人の生徒が私を呼んでいる。
そして背後の扉には、三人分の手が叩きつけられていた
目の前では、助けたはずの女子生徒が笑っている。




