第13話 一緒に
廊下へ出たはずの先生が、準備室の扉から戻ってくる。
「先生、来ないでください!」
「生徒を置いていけるか。佐々木、手を伸ばせ」
差し出された手は、まだ遠い。早く掴めと言うように開かれた指先が、小さく震えている。
一歩踏み出そうとすると、女子生徒の腕が私の肘へ絡みついた。細い腕からは想像できない力で、準備室の中へ引き戻される。
タマが低く身を沈めた。
背中の毛が逆立ち、開いた口の奥に白い牙が見える。
「駄目、タマ!」
教室では、女子生徒の手首にまとわりついた邪気だけを狙ってくれた。カッターナイフを落とさせても、その手には傷一つつけなかった。
見ていた。分かっている。
それでも、次も同じようにできるとは信じ切れなかった。
タマの力は強すぎる。久世さんでも敵わなかった力を、今のタマがどこまで加減できるのか、私には分からない。牙が少し深く入るだけで、爪を振るう向きが少しずれるだけで、人の体は簡単に傷ついてしまう。
だから止めた。
けれど、タマは止まらなかった。
床を蹴った三毛の体が、私の脇をすり抜ける。
女子生徒の腕が私の前へ上がった。その手に牙が届く寸前、タマの首がわずかに沈む。
噛みついたのは腕ではなかった。
肘から指先へまとわりついていた黒い靄が、タマの口へ引き寄せられる。細い糸の束が牙の間で引きちぎられ、床へ落ちる前に霧散した。
女子生徒の腕から、急に力が抜ける。
先生の手が私の手首を掴んだ。
「走れ!」
廊下へ引き込まれる。振り返ると、タマは女子生徒の胸元を蹴らず、壁を足場にして向きを変えていた。
女子生徒は尻もちをついただけだった。その瞳にはまだ黒い膜が残っている。
助けられてはいない。
それでも、傷ついてもいなかった。
タマが廊下へ飛び出した直後、理科室と準備室を隔てていた扉が準備室側へ倒れた。
三人分の足音が狭い部屋へ雪崩れ込んでくる。
先生が廊下側の扉を閉める。
廊下の少し先にある教室の戸が、半分開いていた。
中では、制服姿の生徒が二人、机へ突っ伏している。教卓のそばには、別の先生が椅子からずり落ちるように倒れていた。
「おい!」
先生の声が裏返った。
先生は眼鏡の女子生徒の肩から腕を外し、その教室へ行こうとする。けれど、一歩目で膝が崩れ、慌てて壁へ手をついた。
「先生!」
「大丈夫だ。それより、あの人たちを……」
大丈夫には見えなかった。壁についた指が震え、呼吸も浅くなっている。それでも先生は、倒れている三人から目を離せなかった。
タマが低く唸る。
目を凝らすと、教室の床を薄い邪気が這っていた。倒れている人たちの足元へ、黒い糸のように絡みついている。
「この人たちも、あれにやられたのか」
肩を痛めた男子生徒の声が震える。
窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえていた。校庭にいる人たちは、まだ異変に気づいていない。悪霊は、校舎の中だけを狙ったらしい。
準備室の扉が激しく揺れた。
先生が肩を跳ねさせる。倒れている三人と、私たちを何度も見比べた。
「息だけでも確かめないと」
「今、あの人たちのところへ行ったら、私たちも捕まります」
言いながら、胸が痛んだ。置いていくしかないと、先生に言わせようとしている。
もう一度、扉が揺れた。
先生は唇を噛み、震える息を吐いた。
「……東階段から下りる。校庭の運動部に助けを求める。誰も離れるな」
最初の言葉は掠れていた。先生は一度唾をのみ、今度は声を張る。
「走るぞ!」
眼鏡の女子生徒が、もう一度先生の腕を肩へ回す。私たちは廊下を走り出した。
向かう先は東階段だった。そこを下りれば、昇降口へ出られる。
今度こそ外へ逃げられる。
そう思ったとき、背後で準備室の扉が勢いよく開いた。
「走って!」
何度目かも分からない言葉に、全員が足を速めた。
先生の呼吸は荒く、支える女子生徒の足ももつれかけている。肩を痛めた男子生徒は、片腕を押さえながら何度も後ろを振り返っていた。
私だけなら、もっと速く走れる。
けれど、離れるわけにはいかない。
角を曲がり、東階段へ続く廊下へ入った。
その先に、一人立っている。
教室で女子生徒を人質にしていた男子生徒だった。
四人の声を聞いた直後、扉から離れていった一人だ。理科室の出入口から先に廊下へ出て、東階段の前で待ち伏せていたのだ。
黒く濁った目が、こちらを見ている。
後ろからは、四人分の足音が近づいてくる。
先生が足を止めた。視線が前と後ろを何度も行き来する。息を整えようとしているのに、呼吸は速くなるばかりだった。
逃げ道がなくなる。
「佐々木。さっきの光は、まだ出せるか」
声は掠れていた。それでも先生は私たちより前へ出ようとした。
「はい。少しだけなら、押し返せます」
「なら、後ろは俺が――」
「駄目です」
先生は怪我をしている。ほかの二人にも戦う力はない。
私が守るしかない。
両腕を広げ、霊気を引き出す。
両手からあふれた白い光が、私たちの前後へ膜のように広がった。
前から男子生徒が手を伸ばす。背後から追いついた四人も、同時に光へ触れた。
五か所から黒い靄が食い込んでくる。
削られる。
送った分だけ奪われる。
分かっていても、壁を消すことはできなかった。その向こうには、生きている人たちの手がある。
押し返せば傷つけるかもしれない。
タマに任せても、傷つけるかもしれない。
だから私が耐えるしかない。
光が少しずつ薄くなる。
足元で、タマが鳴いた。
短い声だった。
前へ出ようとする体を、私は足で遮った。
「駄目」
タマが私を見上げる。
その瞬間、胸の奥へ冷たいものが流れ込んできた。
悪霊に霊気を食べられたときの冷たさとは違う。
これは、タマの感情だ。
怖がっている。
生徒たちを傷つけることでも、彼らを操る悪霊でもない。
私がまた、自分の手の届かないところへ行ってしまうことを恐れている。
家を飛び出し、一人でタマを捜したとき。
採石場で、タマを置いて逃げることを拒んだとき。
私は置いていかれる苦しさを知っていたはずなのに、同じものをタマに与えていた。
守りたい。
そばにいたい。
その恐怖の底に、退こうとしない強い意志がある。私を守りたい。私が守ろうとしている人たちも傷つけたくない。その思いが、言葉ではなく契約を通じて伝わってくる。
廊下の両側から押され、前後の光が腕の近くまで縮んだ。
黒い指が白い光を突き破る。
怖かった。
タマそのものが怖いのではない。
任せた結果、誰かが傷つくことが怖い。自分が止めていれば防げたのではないかと、後悔することが怖い。
けれど、このままタマを遠ざけ続ければ、どちらか一方が守るのではなく、お互いを守ると決めた約束を、私の方から破ることになる。
教室でも、準備室でも、タマは私が恐れていたことをしなかった。
信じるための理由なら、もう目の前にある。
私は、タマを遮っていた足を退けた。
「ごめん、タマ」
三毛猫の耳が、まっすぐ私へ向く。
「みんなを助けたいの」
タマのきれいな瞳が私を見つめている。
「だから――一緒に戦って」
タマが放たれた矢のように飛び出していった。




