第6話 弟子入り
採石場での出来事から三日後、私はタマを連れて病院を訪れた。
受付で病室を聞き、教えられた階までエレベーターで上がる。
手には、駅前で買ったプリンが二つ入った紙袋を提げていた。
病室の扉をノックする。
「どうぞ」
聞き覚えのある声が返ってきた。
扉を開けると、久世さんは窓際のベッドに横たわっていた。
右腕は肩から固定され、胸元には厚く包帯が巻かれている。頬には大きな絆創膏が貼られ、顔色もまだよくなかった。
それでも、私を見るなり軽い笑みを浮かべた。
「いらっしゃい。お見舞い?」
「ほかに何に見えるんですか」
「俺を倒し損ねたから、とどめを刺しに来たのかと」
「それを言うなら、久世さんを倒したのはタマです」
私の足元で、タマが低く唸る。
「ほら。本人もそう言ってます」
「否定してくれてるようには聞こえないなあ」
窓際には、あの巫女姿の少女が立っていた。ランドセルの女の子は、久世さんのベッドに腰かけている。
「朔。怪我人なのですから、余計なことを言わないでください」
「入院してから、みんなが冷たいんだよ」
「自業自得です」
私はベッド脇の棚へ紙袋を置いた。
「プリンを持ってきました」
「二つとも俺の?」
「一つは私のです」
「病人へのお見舞いを、自分で食べるつもり?」
「タマは食べられないので」
「そういう問題かな」
久世さんが体を起こそうとする。
胸の痛みに顔を歪めたため、ベッドを起こすスイッチを押して手伝った。
「それで」
私は椅子へ座り、タマを膝に乗せた。
「タマは、もう大丈夫なんですか」
久世さんの表情から笑みが消えた。
「首の封印を見せて」
タマが牙を剥く。
「確認するだけだから。今度は何もしないよ」
「タマ」
名前を呼ぶと、タマは不満そうに尻尾を振った。それでも私の膝の上で頭を下げる。
久世さんは動く左手を伸ばし、タマの首に巻かれた白い布へ指を近づけた。
赤い文字が、鼓動のように二度明滅する。
「今のところは安定してる」
「もう悪霊にはならないんですか」
「今すぐにはね。でも、大丈夫だとは言えない」
「どういうことですか」
「俺がしたのは、邪気を消すことじゃない。外へ出ないように押さえ込んだだけだ」
私はタマの首元を見る。
「この布が押さえているんですか」
「その布と、君との使い魔契約がね」
久世さんは、枕元に置かれた紙とペンを取った。
左手で不器用に円を描き、その中央へ小さな猫の絵を描く。猫には見えなかったけれど、黙っておいた。
「君とタマは、契約で繋がっている。今は君から流れる霊気の一部を使って、封印を維持してる」
「またタマが、私の霊気を食べているんですか」
「以前とは違う。契約を通して、封印に必要な分だけが流れるように調整してある。今までのように、タマ自身が量を決めることはできない」
「それなら、ずっとこのままでいられますか」
「封印は少しずつ傷む。タマが力を使えば、そのぶん早く弱くなる。定期的に補修すれば時間は稼げるけど、それだけで何十年も保たせるのは難しい」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「タマの中にたまった邪気を、少しずつ祓う必要がある」
「久世さんが祓うんですか」
「今の俺には難しい」
久世さんの視線を受け、タマの耳が伏せられる。
「俺の霊気とタマは相性が悪い。無理に浄化しようとすれば、邪気だけでなくタマ自身の魂まで削る可能性がある」
「それなら、誰が祓うんですか」
「封印を補修しながら、安全に祓える方法を探す。俺以外の術者にも当たってみるつもりだ」
「見つからなかったら?」
「見つけるよ。そのために時間を稼ぐ封印だ」
久世さんはそう言った。
けれど、必ず見つかるとは言わなかった。
私は膝の上にいるタマを見る。
久世さんの霊気とタマは相性が悪い。
では、タマと同じ霊気を持つ私はどうなのだろう。
「私では駄目なんですか」
「何が?」
「タマの邪気を祓うことです。久世さんは、私とタマの霊気がほとんど同じだと言いましたよね」
久世さんが黙った。
「私なら、タマ自身を傷つけずに邪気だけを祓えるんじゃないですか」
「理屈の上では、可能性がある」
「なら――」
「今の君には無理だ」
久世さんが、はっきりと言った。
「君は霊気の扱い方を何一つ知らない。邪気とタマの魂を見分けることもできない。今触れれば、俺がやるよりひどい結果になる」
「できるようになる方法はありますか」
「……陰陽術を一から学ぶことになる」
「どれくらいかかりますか」
「分からない。何年かかっても身につかないかもしれない」
「それでも、何もしないよりはいいです」
私は久世さんを見る。
「教えてください」
「簡単に決めることじゃないよ」
「簡単に決めてません」
「採石場の結界を壊したとき、君は力を使ったんじゃない。膨大な霊気を、壁へ力任せに叩きつけただけだ。一歩間違えれば、自分だけじゃなく周りまで巻き込んでいた」
「でも、あのときはほかに方法がありませんでした」
「あの場ではね。結果として間に合った。でも、次も同じ使い方をすれば、今度は誰かを傷つける」
私は包帯の巻かれた右手を見る。
「だから、扱い方を覚えます」
十年間、タマは私を守ってくれた。
私の知らないところで戦い、傷つき、最後には私を傷つけないために一人で消えようとした。
もう、同じことはさせない。
「今度は私が、タマを守ります」
久世さんはしばらく何も言わなかった。
やがて、窓の外へ視線を向ける。
「俺は君を殺そうとしたんだよ」
採石場に並べられた、黒い札を思い出す。
「契約に失敗していたら、私はタマと一緒に祓われていました」
「それでも、俺に習うの?」
「失敗していたら、私とタマを止める必要がありました」
「納得してるわけじゃないでしょう」
「してません」
私は久世さんを見る。
「でも、タマを助ける方法を考えてくれたのも、久世さんです」
「陰陽師になるなら、教えることに慣れた術者を紹介できる。腕も口も信用できる人だ」
「それでも、久世さんがいいです」
「どうして?」
「御札のことを、自分の判断が間違っていたと認めてくれました。タマを一緒に捜して、封印に失敗しても逃げず、最後には命懸けで助けてくれました」
私は膝の上のタマを撫でた。
「タマが私を守ってきたことも、悪霊になりかけたことも知っています。それに、久世さんなら、危険なことを危険だとはっきり言ってくれる」
久世さんを見る。
「私は、そういう人から教わりたいです」
膝の上で、タマがにゃあと鳴いた。
久世さんは眉間を押さえる。
「弟子を取るつもりはなかったんだけどな」
「嫌なら、退院するまでに断る理由を考えておいてください」
「返事をする前に決めないでくれる?」
そう言いながらも、久世さんは断らなかった。
窓際の二人の幽霊が、顔を見合わせて笑った。
◇
それから三週間後。
久世さんが退院した日、私は町外れの長い石段を上っていた。
動きやすいジャージ姿で、肩から鞄を提げている。中には筆と墨、それから久世さんに渡された分厚い本が入っていた。
石段の上で、久世さんが待っている。
右腕はまだ吊ったままだった。
「遅い」
「約束の十分前です」
「弟子は師匠より先に来るものだよ」
「まだ師匠として尊敬しているわけではありません」
「弟子入り初日に言うことじゃないよね」
私は黙って石段を上り切った。
足元では、首に封印の布を巻いたタマが、久世さんへ低く唸っている。
「その猫、俺を見るたびに殺気を出すのやめさせてくれない?」
「御札のこと、まだ怒ってるんだと思います」
「俺だって反省してるよ」
タマの背後に、巨大な牙の影が浮かぶ。
久世さんの頬が引きつった。
「封印したんじゃないんですか」
「したよ。したはずなんだけどな」
「陰陽師としての腕は大丈夫なんですか?」
「一応、国内で十本の指には入るんだけど」
「タマに負けましたよね」
「あれは相性と準備の問題。五人がいれば、もう少しましに戦えた」
「勝てました?」
「……今日の修行、山を十周にしようか」
「怪我人が無理しないほうがいいですよ」
「走るのは君だけ」
「軽薄、噓つき、陰険」
「君、師匠への敬意は?」
「尊敬できるところを見せてください」
タマが、にゃあと鳴いた。
笑っているように聞こえた。
久世さんは深いため息をつき、古い社へ向かって歩き出す。
私とタマは、その後を追った。
昨日までと同じ朝ではない。
きっと明日も、同じではない。
それでも、隣にはタマがいる。
今度は私が、この子を守る。
そう考えると、変わっていく毎日も悪くないと思えた。




