第5話 一緒に帰ろう
久世さんは、岩壁の下に倒れていた。
胸から血を流し、折れた木剣を杖にして立とうとしている。
その前に、巨大なタマがいた。
三毛の模様は黒く濁り、毛皮にはいくつもの人の顔が浮かんでいる。
巨大な口が、久世さんをのみ込もうと開かれた。
「タマ!」
牙が止まった。
赤い目が私を向く。
一瞬だけ、瞳が揺れた。
「来るな……」
久世さんが血を吐きながら言う。
「どうして結界を……」
「壊しました」
「壊すなって言ったよね」
「タマを祓うつもりだったんでしょう」
「最初は封じるつもりだった」
「最初は?」
「四方封陣を破られて、俺一人では封じられないと分かった。あのまま町へ出すわけにはいかなかったから、討伐に切り替えた」
久世さんが折れた木剣を杖にして立ち上がろうとする。
「言い訳はしない。君が来なければ、祓うつもりだった」
私はタマへ近づいた。
鞄から御札を取り出す。
これが私を守った。
同時に、タマとの繋がりを断った。
紙の両端を掴み、引き裂く。
「佐々木!」
見えない壁が消えた。
途切れていた道が、再び繋がる。
タマの中にある飢えと、痛みと、十年分の濁りが、一度に流れ込んできた。
同時に、私の霊気がタマへ向かって流れ始める。
膝から力が抜けた。
体の中身が吸い出されていく。
それでも、不思議なほど底は見えなかった。
久世さんが息を呑む気配がした。
「お腹、空いてたんでしょう」
一歩近づく。
「食べていいよ」
「止まれ、佐々木。今のあいつは量を調整できない!」
「タマはできます」
「できないから、君の前から消えたんだ!」
タマは自分が私を傷つけると分かったから、一人でいなくなった。
そうかもしれない。
それでも、もう一歩踏み出す。
「だったら、私が止めます」
タマの前脚が持ち上がる。
巨大な爪が振り下ろされた。
風圧で髪がちぎれ、頬に血が滲む。
爪は、私の頭上で止まっていた。
「ほら」
震える手を伸ばす。
「やっぱりタマだ」
赤い瞳から、黒い液体が流れ落ちた。
泣いていた。
突然、視界が反転した。
タマの口に体をくわえ上げられる。
巨大な牙が、私の首を挟んだ。
少し顎を閉じるだけで、私は死ぬ。
牙の先が皮膚へ食い込む。
それでもタマは噛まなかった。
苦しそうな声を漏らし、自分の口を閉じまいとしている。
「タマ」
牙の隙間から手を伸ばし、その鼻先へ触れる。
「帰ろう」
黒い霧が激しく渦を巻く。
毛皮に浮かんだ顔が泣き叫び、タマの顎が少しずつ閉じ始めた。
息ができない。
視界が暗くなる。
「佐々木!」
久世さんが、血まみれの手を地面へ伸ばした。
採石場に散っていた札が一斉に震える。焼け焦げ、半分に裂けた札までが地面を滑り、私とタマの周囲へ集まってきた。
白い札が内側の円を作る。その外側へ、黒く焦げた札が重なっていく。
「まだ、そいつに君の声が届いてる。使い魔の契約に賭ける!」
「お願いします!」
「契約が成立すれば、そいつの魂を君へ繋いで、邪気を封じられる。力の大半は失うが、存在は残る!」
久世さんは答えながら、自分の血で外側の札を繋いだ。
「失敗したら?」
「邪気が君へ逆流する。君の霊気とそいつの邪気が混ざれば、今よりはるかに強い悪霊が生まれる。この山では止められない」
「外側の札は?」
「そのときのための保険だ」
最後の一枚が置かれる。
黒い円が閉じ、山の音が遠のいた。
「保険ですか」
久世さんの手が、一瞬だけ止まる。
「町の人間を守るためだ」
黒い札に赤い火が灯った。
「契約が崩れた瞬間、この外陣は自動で起動する。君の霊気を燃料にして、君ごとそいつを祓う」
「私も……」
「悪い。でも、ほかに手はない。契約を試さなくても君はこのまま食われる。そいつを放せば、次は町が襲われる」
牙が、少しずつ私の首へ食い込んでくる。
「成功すれば、タマは生きられるんですね」
「二人とも生きられる」
久世さんが白い札の中央へ掌を叩きつけた。
「だから、契約が崩れる前に連れ戻せ!」
白い光が、私とタマを包む。
「佐々木優香! 猫の名を呼べ!」
「タマ!」
世界が黒く染まった。
◇
七歳の私が、暗い寝室で眠っている。
窓の外には、首の長い女がいた。
女が窓をすり抜けようとする。
小さな三毛猫が飛びかかり、その喉へ噛みついた。
場面が変わる。
十歳の私が、学校から帰ってくる。
背後には、四つん這いの男がついていた。
塀の上からタマが飛び降り、男を食いちぎる。
十二歳。
十五歳。
十六歳。
私が眠り、笑い、学校へ行く間、タマは戦っていた。
傷つき、邪気に体を染めながら、それでも毎朝、何事もなかったように私の足元へ戻ってきた。
食卓の下で、私が食べ終わるのを待った。
誰にも話せず、一人で泣いた夜には、枕元で喉を鳴らした。
最後の夜。
眠る私を、タマが見ている。
自分の爪が巨大になっていることに気づき、怯えたように私から離れる。
それでも最後に一度だけ、私の頬を舐めた。
ごめんね。
声が聞こえた気がした。
「謝らないで」
暗闇の中に、小さなタマがいた。
体には、無数の黒い手が絡みついている。
「こっちに来て」
タマは動かない。
遠くで赤い火が燃えている。
あの火がここまで届けば、私もタマも消える。
「もう私を守らなくていい」
タマが悲しそうに目を伏せる。
「違うよ。守るなって言ってるんじゃない」
私は黒い手を掻き分ける。
爪が腕へ食い込み、皮膚が裂ける。
赤い火が近づいてくる。
それでも手を伸ばし、タマを抱き上げた。
「勝手に守って、勝手にいなくならないで」
冷たい体を胸へ抱く。
「これからは一緒に守るの。私もタマを守るから」
タマが私を見上げる。
「一緒に帰ろう」
しばらく私を見つめたあと、タマは腕へ額を押しつけた。
小さく、にゃあと鳴いた。
赤い火が消えた。
◇
目を開けると、空が白み始めていた。
採石場の中央に、私は横たわっている。
起きようとしたが、指一本動かすだけで全身が痛んだ。
「生きてる?」
少し離れた場所から声がした。
久世さんが岩にもたれている。
胸元は血に染まり、右腕は力なく垂れていた。
「たぶん」
「奇遇だね。俺も、ぎりぎり」
「タマは?」
体を起こし、周囲を見る。
巨大な怪物は消えていた。
胸元で、何かが動く。
小さな三毛猫が丸くなっていた。
首には、赤い文字が刻まれた白い布が巻かれている。
「タマ」
抱き上げる。
以前より薄く、驚くほど軽い。
タマが目を開けた。
私の指を一度だけ舐める。
今度は、かすかに舌の感触があった。
「成功したんですね」
「したみたいだ」
久世さんは安心したように息を吐く。
「邪気は、そいつの首にある封印と君との契約で押さえた。力の大半も封じてある」
「もう大丈夫なんですか」
「その説明は、ここから生きて帰ってからにしよう」
久世さんは力なく笑った。
「今は俺も、長く話すと本当に死にそうだ」
「朔!」
山道から声が響いた。
巫女姿の少女が、ほかの四人を連れて駆けてくる。
久世さんが片目を開けた。
「遅いよ」
「鏡の向こうにいた私たちへ、最初に言う言葉がそれですか」
「別件は?」
「片づけました。こちらの惨状ほどではありません」
大男が久世さんを軽々と抱き上げる。
「ちょっと待って。この運ばれ方は格好悪くない?」
「歩けるなら降ろしますが」
「このままでお願いします」
着物姿の少女が私のそばへしゃがみ、焼けた右手を確かめた。
「あなたも治療が必要です」
私はタマを抱いたまま、ようやく力を抜いた。




