第35話 隣の君を
朝倉くんのノートには、同じ式が二度書いてあった。
一つ目は途中で線を引かれ、二つ目の答えの横には、小さな丸がついている。
「ここ、何が違うの?」
昼休みの教室で尋ねると、朝倉くんは食べかけのパンを袋へ戻した。
「上は符号を間違えた。そっちは見なくていいよ」
「あ、私も上の式と同じになってる」
自分のノートを寄せる。
朝倉くんが覗き込み、あ、と声を漏らした。
「括弧、外すところだ。こっちも変えないと」
指された数字の前へ、消しゴムを当てる。
昨日まで自分だけでは追いつけなかった部分が、少しずつ埋まってきていた。
「ありがとう。間違った方も残ってて、助かった」
「消すのが面倒だっただけなんだけど」
朝倉くんがパンを取り直す。
私は答えまで書き終えてから、二冊のノートを見比べた。
計算の途中には、先生が授業で注意したことも書かれている。字が重なって読めないところを聞くと、朝倉くんは少し考えてから教えてくれた。
放課後まで借りていていいと言われたけれど、残りは一問だった。最後はノートを閉じて、自分で解いてみることにした。
お弁当の蓋を閉じたままにして、もう少しだけ鉛筆を動かした。
◇
結界の練習を始めて、数日が経っていた。
止まって張るだけなら、赤い目印から大きくはみ出すことは減ってきた。真ん中と端で濃さが違うのは、まだ直らない。
その日の練習では、木片の代わりに朝倉くんが立った。
私はその後ろ。右隣には、白いテープで区切った通路がある。
水野くんは私の右側で、穂先を柔らかい素材で覆った練習用の槍を持っていた。通路の先には、突きを受けるための厚い的が置かれている。
「蓮の前を守りながら、悠真が右から攻撃に出られるようにします。的を一度突いて、同じ道から戻ってください。今日は走らず、動きを確かめましょう」
三枝先生の言葉に、水野くんが頷いた。
先生は少し離れた正面に立ち、布を丸めた柔らかい球を持っている。私の練習のために、相馬先輩が用意してくれたものだった。
藤宮先輩は、横から結界の端を見る役だ。相馬先輩とタマも、その隣にいる。
「では、始めます」
私は朝倉くんの前に結界を張った。
膜が立ち上がったのを確かめ、先生が球を投げる。
胸の高さへ来た球は、結界に当たって床へ落ちた。
「右、通ります」
水野くんが一歩、前へ出た。
右側は、空いている。
そう確かめたところで、二つ目の球が飛んできた。
当たる場所へ意識が向く。霊気を足した。
球は結界に弾かれた。
同時に、水野くんが足を止めた。
「佐々木先輩、右」
結界が、通路まで広がっていた。
水野くんのつま先のすぐ前に、白い膜が立っている。
「ごめん、今」
右端を内側へ戻そうとする。
膜全体が、左へずれた。
朝倉くんの右肩が、結界からはみ出す。
「止めましょう」
先生が三つ目の球を下ろした。
私は霊気を止めた。
水野くんは、結界がなくなったところを一歩跨いだ。それから、自分の足元を見た。
「ここまでは、空いてたんですけど」
「二つ目を防ごうとしたら、広がっちゃって」
赤い線を見る。
空けておく場所は分かっていた。水野くんが通ることも、忘れていなかった。
それでも、球が来ると、端より当たるところを見てしまう。
「今度は、球を一つにします。防いだあと、端を確かめてから通してみましょう」
三枝先生が落ちた球を拾った。
「悠真、合図を待ってください」
「はい」
同じ位置に戻る。
朝倉くんが肩越しに振り返った。
「俺、動かないから。端だけ見てていいよ」
「うん」
結界を張る。
一つだけなら、防いでから戻す時間があった。
霊気を足しすぎない。右の端を、白いテープから離す。
「水野くん、どうぞ」
彼が私の隣を抜け、結界の向こうへ出た。槍を構え直して的を突き、引き戻す。
「戻ります」
私は右端を見たまま頷いた。水野くんが槍を引き寄せ、通路からこちらへ戻ってくる。
朝倉くんの前には、まだ膜が残っている。
今度はできた。
けれど、球を続けて投げてもらうと、また同じところでつまずいた。
◇
休憩になり、私は壁際で膝を抱えた。
タマが膝へ前脚を掛けてくる。抱き上げると、運動着の上で丸くなった。
水野くんは床のテープを見ながら、結界のあった場所を回り込んでいた。
「もっと外から行けば、避けられそうですけど」
「毎回そこまで空いているとは限りません。今日はこの幅でやりましょう」
先生に言われ、元の通路へ戻る。
「そっか。外で練習するときなら、使えますか」
「周りを確かめて、安全に通れるなら。ただし、黙って進路を変えないこと」
「はい」
水野くんは私のところへ来て、少し離れて腰を下ろした。
槍は壁際の台に戻してあった。
「道を塞いじゃって、ごめんね」
「ぶつかってないので、大丈夫です」
彼はタマへ手を差し出し、そのまま待った。タマが顔を上げ、指先へ鼻を寄せる。
水野くんは笑って、顎の下をそっと撫でた。
向こうでは、藤宮先輩が床へしゃがんでいた。何かを剥がそうとしている。
「それ、取るんですか」
「端が浮いてきたから。足を引っ掛ける前に貼り直そうと思って」
白いテープの先が、少しめくれていた。
私はタマを床へ下ろした。
「手伝います。新しいテープはどこですか」
「そこの箱。はさみも一緒にお願い」
持っていくと、先輩は古いテープを丸めて私に渡した。空き箱へ入れ、新しいテープの端を受け取る。
貼り直す線が曲がらないように、端を押さえる。
「もう少し、そっち」
「ここですか」
「うん。ありがとう」
先輩が手のひらで床へ押しつけていく。貼り終えてから、私ははさみと残ったテープを箱へ戻した。
「佐々木さん、次は私が球を投げるね」
藤宮先輩が立ち上がった。
「蓮と悠真も、自分の練習をしないと」
顔を上げる。
二人は水筒を置き、三枝先生に呼ばれていた。
いつの間にか、随分時間が経っていた。
「ずっと付き合ってもらって、すみません」
「今日はそういう順番。今度は私たちの練習も手伝ってね」
「私にできることなら」
「最初は、札を投げる役からかな」
先輩はそう言って、床の球を拾った。
「次は、人の出入りをなくしてみましょう。球を受けても、目印の幅を保つことに集中してください」
三枝先生が赤いテープを示した。
「千尋は弱く、一つずつ。直樹は横から端を見てあげてください」
私は結界を張った。藤宮先輩が正面から球を投げ、相馬先輩は結界の横に立つ。
球が当たると、また霊気を足してしまった。
「右が少し広がったよ」
相馬先輩の声で、端へ目を向ける。藤宮先輩は次の球を持ったまま、待ってくれていた。
目印に合わせ直し、頷く。
次の一球が来る。今度は当たったところを補っても、端を広げないように。
何度か繰り返すと、右が収まったままのこともあった。けれど、そのたびに相馬先輩から左も確認するように言われた。
隣の練習場所では、三枝先生が朝倉くんと水野くんに声を掛けていた。
私たちの練習が一段落すると、二人の方を見る余裕ができた。
朝倉くんが手にしているのは、刀の代わりに使う木製の模擬刀だった。水野くんはさっきの槍を持っている。
槍の先が伸びる。朝倉くんが斜めに踏み込み、穂先を外した。
近づかれる前に、水野くんが下がる。
二人とも術を放ってはいなかった。それでも、床を蹴る足や、武器を握る手の周りには霊気が見えた。
朝倉くんがもう一歩詰めようとして、止まる。槍の先は、もう正面に戻っていた。
「そこまで。二人とも、武器を下ろして」
先生の指示で二人が離れた。
私は札をしまい、そちらへ近づいた。
「朝倉くんは、刀も使うんだね」
「うん。まだ水野の槍には、なかなか近づけないけど」
朝倉くんが模擬刀を持ち上げかけ、周りを見て下ろした。
「さっきも、体を強くしてたの?」
「うん。あと、武器にも霊気を通す」
彼の手元を見る。指から模擬刀へ、淡い光が続いていた。
「遠くまで火を飛ばし続けるより、こっちの方が霊気を残せるんだ」
「近づく練習も、必要なんですね」
先生へ顔を向けると、頷きが返ってきた。
「任務には基本的に一人で出ますからね。接近されたとき、誰かに任せられるとは限りません。佐々木さんも、少しずつ覚えていきましょう」
「はい」
身体に霊気を巡らせる感覚なら、分かる。タマと一緒に動いたときの感覚も、まだ残っていた。
けれど、さっきの二人を見ていても、いつ踏み込めばよいのかは分からなかった。
「持ってみる?」
朝倉くんが先生を見た。先生が頷いてから、模擬刀を渡してくれる。
両手で握ると、思っていたより先が重かった。
「手、そこまでくっつけなくていいよ。左はもう少し下」
「こう?」
「そう。そのまま、まずは構えてみて」
手を直すだけで、先端が揺れた。
自分の腕の先に、もう一つ動かさなければならないものがある。身体に力を込めるのとは、勝手が違った。
「今日は振らずに、持ち方だけにしておきましょう」
先生の言葉に頷く。
朝倉くんに位置を教わりながら、もう一度握り直した。
◇
片づけを終えて部室へ戻ると、相馬先輩が湯飲みを並べていた。
「熱いから、少し待ってね」
机の端へ置かれた急須から、湯気が上がっている。
私は鞄からノートを取り出し、朝倉くんに差し出した。
「ありがとう。最後の問題、自分で解けたよ」
「答え、合ってた?」
「うん。符号も、今度は間違えなかった」
「よかった」
朝倉くんがノートをしまう。
私は、今日の練習で書いたメモを代わりに開いた。
右端が広がる。
縮めようとすると、全部ずれる。
文字にすると二行なのに、直すのはずっと難しかった。
「それ、今日の?」
朝倉くんが覗いた。
「忘れないように。次も同じことしそうだから」
「球を増やすと広がる、も書いとけば」
「うん」
書き足すと、水野くんもこちらを見た。
「僕が通るって言うの、もう少し早い方がいいですか」
「……うん。先に分かった方が、右を見られると思う」
「じゃあ、声を掛けて、先輩の返事を待ってから出ます。戻るときも」
ノートの余白へ、声を掛けてもらったら端を確かめて返事、と書いた。
隣で朝倉くんが湯飲みを持ち上げ、すぐ机へ戻した。
「まだ熱い」
「待ってって言ったでしょう」
相馬先輩が笑う。
私は湯飲みを持たずに、立ち上る湯気を見た。
「先輩は、飲まないんですか」
相馬先輩の前にだけ、湯飲みがなかった。
先輩は机を見渡してから、棚へ目を向ける。
「自分の分、出してなかった」
私は立ち上がり、棚からもう一つ取った。
「これでいいですか」
「うん。ありがとう」
急須の隣へ置く。
五つの湯飲みが並んだ。
藤宮先輩が、机に置いてあった菓子の袋を開けた。中のせんべいを勧められ、一つ受け取る。
タマは私の椅子の下へ入っていた。
「そういえば、今日の弁当って、自分で作ってるの?」
朝倉くんが私に尋ねた。
「うん」
「何が得意?」
続けて聞かれ、少し考える。
得意と言っていいほどのものは、浮かばなかった。
「卵焼きは、よく作る」
「甘いやつ?」
「甘くない方」
「あ、そっちか。俺、甘い方が好き」
「私はどっちも好き」
藤宮先輩が言った。
「自分で作ると、甘い方は焦がすけど」
「火を弱くすると、少し巻きやすいです。時間はかかりますけど」
口にしてから、余計なお世話だったかもしれないと思った。
けれど、先輩は頷いた。
「朝、急いでると強くしちゃうんだよね。今度、休みの日にやってみる」
せんべいの袋が、机の上を回ってきた。
今度は私が受け取り、水野くんへ渡す。
「ありがとうございます。先輩、もう一枚いります?」
「うん。そっちの、小さい方」
水野くんが袋を傾けてくれた。小さなせんべいを一枚取り、「ありがとう」と返す。
隣では、朝倉くんが藤宮先輩に、甘い卵焼きに何を入れるのか聞いていた。
私は開いたままだったノートを閉じ、二人の話に耳を傾けた。
ふと、真帆と教室でお弁当を食べていたときのことを思い出した。あのときも、話しているうちに昼休みが終わっていた。
今日のことを、真帆にも話したい。
帰ったら連絡しようと思いながら、冷めてきたお茶を一口飲んだ。




