第33話 少しだけ
渡された札には、細かな文字が五つのまとまりに分かれて書かれていた。
読もうとしても、一文字目から分からない。
「そのまま、胸の前で持っていてください」
三枝先生が私の手元を確かめた。
「霊気を通すと、相性のよい術式が反応します。光が見えたら、それ以上は流さなくていいですからね」
「はい」
先生は別の札を取り出し、私たちの足元へ結界を張った。淡い光が一周して消える。
顔を上げると、先生の肩越しに、四人がこちらを見ていた。
指先へ意識を向ける。
久世さんと練習したときと同じ。細く、少しずつ。
札を持つ親指の腹へ、霊気を集めた。
文字の一つが白く光った。
止めようとした、その瞬間だった。
紙全体が、眩しく膨れ上がった。
「もう止めて」
先生の声が短くなる。
反射的に指へ力が入った。流れを押さえようとして、かえって手元へ霊気が集まってくる。
白い光が指の間からこぼれた。
「息を吐いて。札へ押し込まなくていい」
先生の手が、私の手首に添えられる。
唇を開いた。
細く息を吐きながら、指先へ向けていた意識を戻す。
光が弱まる。紙の輪郭が見え、やがて、先生の手もはっきり見えるようになった。
誰も、すぐには声を出さなかった。
札は破れていなかった。焦げてもいない。さっきまであんなに光っていたのに、私の指の間で、ただの紙のように静かになっていた。
「手は痛くありませんか」
「はい。大丈夫です」
先生は私の顔を見てから、首元へ目を移した。タマの方も確かめ、ようやく手を離す。
「先生、あれだけ流して、大丈夫なんですか」
藤宮先輩が一歩近づいた。
「今のところ、異常はありません。佐々木さん、気分が悪くなったりは?」
「それも、大丈夫です」
先生の声は落ち着いていた。けれど、札を受け取ると、表と裏を念入りに確かめていた。
「ごめんなさい。出しすぎました」
「止められたので大丈夫ですよ。次は方法を変えましょう」
結界が解かれる。
足元へ来たタマが、私の脛に頭を擦りつけた。しゃがんで背を撫でると、いつもどおり尻尾が立った。
「あれで、疲れてないの?」
朝倉くんに聞かれ、顔を上げた。
「うん。まだ、一回だけだから」
「一回って……」
朝倉くんが先生の持っている札を見る。
「俺も入部したときにやったけど、文字がぼんやり光るくらいだったぞ」
「私もです」
水野くんが、小さな声で続けた。
朝倉くんは笑わなかった。何か言いかけて口を閉じ、自分の手のひらを見ていた。
膝に置いていた手を、制服の上で握る。
失敗した、ということだけではないらしかった。
「……少しだけに、したつもりだったんだけど」
言ってから、余計なことだったかもしれないと思った。
水野くんが目を丸くする。
相馬先輩も、先生へ顔を向けた。
「少しで、あれですか」
先生は一度頷いた。それから、私の前に膝をつく。
「霊気が多いとは聞いていました。ですが、私の見込みより、一度に出る量が大きかった。最初から、もう少し段階を踏むべきでしたね」
自分の霊気が多いことは、久世さんから聞いていた。
けれど、今の一度で、何かが減ったような感じはしない。朝倉くんたちには、そんなに違って見えたのだろうか。
先生の後ろを見る。
藤宮先輩は、まだ札を見ていた。さっき、朝倉くんの火を防いだ人が。
「藤宮先輩も、あんなふうには光らなかったんですか」
「あんな出し方したら、私はその後の練習を休むことになるかな」
先輩が答えた。
どう返せばいいのか分からずにいると、先輩は私の手元を指した。
「調べるだけなら、あそこまで要らないからね」
私は頷いて、立ち上がった。
◇
二度目は、札を持たなかった。
先生が札を構え、私はそこへ指先を近づける。触れる手前で止めて、霊気を出す。
さっきの、もっと少し。
そう思うと、指先が強張った。
「出ませんか」
「また、多くなりそうで」
「札から離して、指先だけに集めてみましょう」
言われたとおり、手を引いた。
人差し指の先に、小さな光が灯る。
「そのまま。近づけなくていいです」
先生の方から、ゆっくり札を寄せてきた。
今度は紙全体ではなく、端に近い文字のまとまりだけが光った。
先生が札を離す。
私も霊気を引っ込めた。
「今ので十分です」
肩から力が抜けた。
先生は反応した場所を示してくれる。
「金ですね。次は陰陽を見ます」
別の札でも、同じように確かめた。
こちらは文字が二組だった。片方に光が寄り、もう片方はほとんど変わらない。
「陰の反応が強い。金の陰、と考えてよいでしょう」
黒板へ目を向ける。
木、火、土、金、水。
金の下に、先生が私の名字を書いた。
「俺たちにいなかったところですね」
相馬先輩が言う。
「これで五つ、そろった」
水野くんが、私と黒板を交互に見た。
自分の名前が入っただけで、並んだ文字が、さっきより少し身近に見えた。
「金だと、どんな術が得意なんですか」
「固める、隔てる、切り分ける。そうした働きに向いています。陰の性質も強いので、まずは希望していた結界から始めるのがよさそうですね」
「金属を動かすんじゃないんですか」
「それもありますよ。ただ、金属そのものだけを指すわけではありません。細かいところは、術を習いながら覚えていきましょう」
先生が札を片づける。
切り分ける。
タマを見た。
体の中に残っている邪気を、この子から離すことも、いつかできるのだろうか。
聞きかけて、やめた。今は、札に流す量さえ加減できない。
まずは、先生の言ったとおりに出せるようにならなければ。
◇
「佐々木さんは、今日はここまで。残りは皆の練習を見ていてください」
三枝先生に言われ、壁際へ下がった。
タマを膝に乗せて座ると、先生が隣に椅子を置いた。
「千尋と蓮は、さっきの続きを。今度は、守る場所を狭くしてみましょう」
藤宮先輩が札を持ち直す。
立ち上がった結界は、さっきより幅が狭かった。朝倉くんは向かいに立ち、藤宮先輩が頷くのを待った。
手元に炎が灯る。
火は結界の中央へ飛ぶ。光が散った直後、二つ目が低いところを狙った。
先輩は札を持つ手を下げ、受け止めた。
短い音が続いた。
私は膝の上のタマを撫でる手を止めていた。炎が来るたびに、結界の光る場所が変わる。さっき説明してもらったことが、今度は少し見えた。
「あれ、ずっと全体を厚くしておくことはできないんですか」
隣の先生に、小声で尋ねる。
「できますよ。ただ、千尋は霊気を残して戦う練習もしています。あとのことを考えなければ、もっと厚く張れます」
藤宮先輩の額に、髪が一筋貼りついていた。
もう一度、結界を見る。
自分にも、あれが張れるのだろうか。
先生は床の白いテープへ目を向けた。
「佐々木さんは、次の練習で目印の間に張ってみましょう。相手の攻撃を受けるのは、その後です」
「はい」
テープの向こうで、また炎が弾けた。今度は藤宮先輩の手元を見ていたけれど、動き出す瞬間を捉えられなかった。
「そこまで。二人とも休憩です」
先生の声で、炎が消えた。
藤宮先輩が結界を解く。朝倉くんは額を袖で拭いながら、こちらへ戻ってきた。
「見てて分かった?」
「霊気を集めるところを変えてるのは、少し。でも、あんなに速くはできないと思う」
「千尋先輩、俺が撃つ前にもう動いてるんだよ」
朝倉くんが、藤宮先輩を振り返った。
「二発目は、いけたと思ったんですけど」
「ぎりぎりだったよ。二発目、速かったね」
「じゃあ、次はもう少し詰めます」
朝倉くんが顔を上げる。藤宮先輩は頷き、額に貼りついた髪を指で払った。
相馬先輩と水野くんが、先生に呼ばれて中央へ出ていく。
朝倉くんは私の隣に腰を下ろした。今度は一緒に、二人の練習を見るらしい。
「明日、結界やるの?」
「うん。先生が、場所を決めて張るところからって」
「じゃあ、俺も見たい。佐々木さんが張ったら、どれくらいになるんだろ」
「まだ、加減するのが難しくて。うまくできるといいんだけど」
札いっぱいに溢れた光を思い出して言うと、隣の三枝先生がこちらを向いた。
「そのために私がいます。最初は、一緒に確かめながらやりましょう」
私は頷いた。
膝の上で、タマが丸くなる。
まだ札も持っていないのに、指先へ意識が向きかけた。両手をタマの背へ戻し、顔を上げる。
今日は、見て覚えよう。
誰がどこに立って、どう守ろうとしているのか。考えながら見ようと思った。




