第30話 親友
◇ 真帆
転校しても、友達だからね。
昨日は、ちゃんと言えた。
優香が相良さんに電話をかけるときも、隣で笑っていられた。
なのに今日は、携帯の画面を見ているだけで、目の奥が熱くなる。
昼食を片づけてもらったあとの病室は、することがなかった。
左肩を庇って座り直す。動かしたつもりがなくても、角度によってはまだ痛む。額のガーゼの端が気になって右手を上げ、触らないよう言われたのを思い出して下ろした。
画面の中で、優香がクリームパンを持っている。
少し前の昼休みに撮った写真だった。やっと買えた記念、と私が携帯を向けたら、そんなの撮らなくていいと笑っていた。
顔の前へパンの袋を上げたから、半分しか写っていない。
それでも、楽しそうなのは分かる。
写真を閉じた。
もう一度開いた。
「……寂しいじゃん」
病室には誰もいなかった。
声に出してから、余計に寂しくなった。
優香の前では、簡単そうに言った。連絡すればいい。休みの日に会えばいい。遠かったら、私が行けばいい。
嘘ではなかった。
でも、昼休みに椅子を持っていけば会えるのとは違う。
授業中に眠そうな顔をしていたら、あとでからかえる。購買へ行くのが遅ければ、一緒に残っているパンを選べる。
そういうことは、わざわざ約束しなくてもできた。
今度からは、今日空いてる、と聞くところから始まる。
優香には、私の知らない授業があって、私の知らない先生がいる。幽霊の話をしても、驚かない人たちがいるのだろう。
そっちの方が、気楽かもしれない。
そこまで考えて、携帯を布団へ伏せた。
自分で行けと言っておいて、何を考えているんだろう。
◇
痛いのは、まだ我慢できた。
困るのは、何も覚えていないことだった。
優香から来たと思った連絡を読んだ。
その先がない。
目が覚めたらここにいて、家族や先生から、事故だったと聞かされた。
ガス漏れと、設備の故障。
そういうものなのだと思っていた。
一昨日、優香が来るまでは。
知らないものに体を動かされて、優香を襲った。
優香は私を助けようとして、力を止めきれなかった。
話を聞いたあと、右手を何度も開いたり閉じたりした。自分で動かしている。それを確かめても、覚えていない間に何をしていたのかは分からないままだった。
今も、病室の扉が音を立てると、先にそちらを見てしまう。
窓の外で鳥が鳴いただけなのに、何の音か確かめたくなる。
前は気にしなかったことばかりだ。
優香が椅子へ座るとき、何もない膝の上に手を置いた。
そこにタマがいる、と聞かされていた。
分かっていたのに、その手が急に動いたとき、一瞬だけ肩が強張った。
優香には気づかれなかったと思う。
そう思いたかった。
膝の上の何も見えない場所を、じっと見てしまったことも。
携帯へ手を伸ばす。
昨日のやり取りを開こうとして、間違えて少し前まで遡った。
教室まで来て。
その文字で、指が止まった。
優香の名前の下にある。
でも、優香が送ったものではない。
消してしまおうかと思った。長く押せば、その項目が出てきた。
しばらく迷ってから、画面の別の場所に触れた。
消したら、それだけで怖くなくなる気がした自分が、嫌だった。
優香に、こっちに残ってほしい。
そう思う一方で、専門の人がいる学校へ行けば、また同じことになる心配も減るかもしれないと思っている。
優香も、タマも、私も。
私も、と思ったところで、左肩の痛みが急にはっきりした。
あんなに偉そうなことを言ったのに。
優香のためみたいに言いながら、自分が怖いから離れてほしい気持ちもあるのだろうか。
布団を右手で握った。
もし今、優香にそう聞かれたら、すぐに違うとは言えない。
でも、昨日、優香が「私、全部欲しいの」と言ったときには、嬉しかった。
タマも、久世さんも、私も。
私まで、そこに入っていた。
誰にも気を遣わず、自分が欲しいものを言ってくれたのが嬉しくて、あのときは離れる寂しさまで考えなかった。
だから、電話をかけるところまで見ていられた。
今になって寂しくなるなら、少しは格好をつけずに話せばよかった。
行ってほしいけど、毎日会えなくなるのは嫌だ。
私だって、そんなに物分かりはよくない。
◇
扉が開き、看護師さんが顔を出した。
「真帆さん、お水は足りてる?」
「はい」
答えてから、ペットボトルが空に近いことに気づいた。
「……すみません。やっぱり、お願いします」
「持ってくるね」
扉が閉まる。
いつもの癖だった。大丈夫、と先に答えてから、自分が困っていることに気づく。
優香のことばかり言えない。
枕元に置いた携帯が震えた。
『今、久世さんの病室。このあと寄ってもいい?』
優香からだった。
胸が軽くなるのと同時に、さっき見た文面が浮かんだ。
携帯を奪われていた。
指が、返事を打つ手前で止まる。
こんなことまで、疑うようになるのか。
優香の名前を見つめた。
声が聞きたかった。
通話の印に触れると、少しして、聞き慣れた声が返ってきた。
『真帆?』
「来ていいよ」
『電話で返事?』
「暇だったから」
言ってから、少しだけ言い直した。
「声も聞きたかったし」
向こうが静かになった。
『どうしたの。具合悪い?』
「そうじゃないって。優香、今から来られるんでしょ」
『うん』
「じゃあ、待ってる」
切ったあとで、携帯を胸の上へ置いた。
優香の声だった。
たったそれだけで、こんなに安心する。
少しして水を持ってきてくれた看護師さんにお礼を言い、ベッドの横の椅子を見た。
家族が置いていった袋が乗っている。
取ろうとすると肩が痛んだので、棚へ移してもらった。
椅子が空いた。
◇
優香は、扉の前で一度だけ足を止めた。
後ろを見る。
それから入ってきた。
今なら、その動きの理由が分かる。
「タマも来た?」
「うん」
優香が足元へ目を向ける。
私には、床しか見えない。
視線をそこへ留めたまま、少し息を吐いた。
「こんにちは」
「鳴いたよ」
「私には聞こえないから、優香が教えて」
「うん」
優香が椅子へ座る。両手を下ろしてから、膝の上で揃えた。
今、そこに乗ったのだろう。
分からないことが一つずつ分かれば、少しは慣れるだろうか。
「学校の案内、見せてもらったよ」
優香が携帯を取り出した。
「まだ行けるって決まったわけじゃないけど」
「どんなところ?」
画面をこちらへ向けてくれる。
校舎。大きな食堂。本がたくさん並んだ部屋。
そこへ優香が通うのだと思うと、また喉のあたりが詰まった。
「広いね」
「迷いそう」
「優香、最初は絶対迷うよ」
「絶対って言わなくても」
いつものように返ってきた。
優香が画面を指で送る。その横顔を見ていると、黙っていたくなくなった。
「ねえ、優香」
「何?」
「向こうに行ったら、私から電話してもいい?」
優香の指が止まった。
「もちろん。昨日も、連絡すればいいって」
「うん。言ったけど」
布団の縫い目を、右の人差し指でなぞった。
「寂しくなってかけるの、私の方かもしれない」
言えた。
顔を上げると、優香がこちらを見ていた。
「真帆も?」
「私もだよ。何で優香だけだと思うの」
優香は何か言いかけて、少し笑った。
「出られなかったら、あとでかけ直す」
「授業中は出なくていいからね」
「真帆こそ、授業中にかけないでよ」
そんなことしない、と言い返しかけた。
たぶん、分かっていて言っている。
私も笑った。
肩は痛い。見えないものは、まだ怖い。
明日になれば、また携帯の画面を見て寂しくなるかもしれない。
優香へ少し体を向ける。膝の上を避けて、携帯に映る食堂の写真を指さした。
「ここ、クレープはあるかな」
「学食に?」
「あったら、遊びに行く楽しみが増えるでしょ」
優香が写真を拡大する。
メニューの文字は、小さくて読めなかった。
私たちはしばらく二人で、同じ画面を覗き込んでいた。
優香がここへ通うことになったら、どの席でお昼を食べるのか聞いてみよう。友達ができたら、どんな人なのかも。
私の知らない話が増えるのは、少し寂しい。
でも、それを話してくれる優香の顔は見たいと思った。私も、教室であったことや、帰り道で見つけたお店のことを話そう。
会いたくなったら、会いたいと言えばいい。
さっき寂しいと言えたのだから、きっと言える。
隣で画面を見つめている優香に、もう一度少しだけ近づいた。
退院したら、まずは約束のお昼だ。食べたいものを、ちゃんと考えておこう。




