第29話 知らない道
◇ ミコ
翌日の昼前、ミコは朔の病室で、畳み直したシャツを棚へ収めていた。
大きめの前開きのものを選んできたが、右腕を固定したままでは袖を通すのも難しそうだった。もう少しゆとりのあるものを探した方がいいかもしれない。
「着替え、持ってきてくれたんだ。ありがとう」
ベッドから声がした。
「タオルもここに置いておきますね」
朔が頷く。ミコは、ベッドから左手を伸ばせば届く場所へ、畳んだタオルを重ねた。
棚の下段に洗濯物を入れる袋を置き、ミコは持ってきた鞄を閉じた。こういう支度には迷わない。何をどこへ置けば使いやすいか、手が先に動く。
窓際では、岳が椅子の横に膝をついていた。
優香の膝にいるタマを撫でている。大きな指が額から耳の後ろへ動くたび、三毛猫の目が細くなった。
「昨日から、そこが定位置じゃのう」
玄斎が横から覗き込む。
岳は答えず、タマの顎へ指を移した。
「儂にも撫でさせてくれるか」
玄斎が指を出すと、タマは鼻を寄せた。匂いを確かめるように少し嗅いでから、また岳の手へ頭を押しつける。
「……そうか」
優香が口元を押さえた。
「すみません。岳さんに撫でてもらうの、好きみたいで」
「よいよい。好き嫌いはあるものじゃ」
玄斎は鷹揚に頷いたが、差し出した手はしばらく引っ込まなかった。
岳の指が止まる。タマがその手を前脚で引き寄せた。
大きな背中が、ほんの少し丸くなる。
ミコも笑いそうになり、鞄を置くために顔を下げた。
そのそばで、すずがテーブルの上を覗いていた。
薄い冊子が一冊、置かれている。
「それは何ですか」
ミコが尋ねると、朔が表紙へ左手を置いた。
「星守の案内。さっき千景が置いていったんだ」
陰陽庁で優香たちのことを話し合うのは、夕方だという。朔の再登録も、優香の転入も、まだ決まってはいない。
「優香が学校の様子を知りたいって言ったら、持ってきてくれた」
「どんな場所なのか、昨日までは全然知らなかったので」
優香はタマを抱え直し、椅子を少しテーブルへ寄せた。岳も、タマに急かされながら横へずれる。
ミコは二人の向かい側へ回った。
表紙には、正門と校舎の写真が載っていた。
星守学園高等部。
金色の細い文字を目で追い、正門の奥へ続く並木道を眺めた。
「この校舎は変わってないな」
朔が冊子を開いた。
「久世さんが通っていたときからですか」
「うん。実技棟の方は新しくなってるけど」
優香は写真を覗き込んだあと、ミコへ顔を向けた。
「ミコさんも、こういう学校で術を習ったんですか」
ミコは写真から目を上げた。
「それが、分からないんです。朔と出会う前の記憶がなくて」
優香の目が大きくなった。
「前のこと、何もですか」
「はい。どこで暮らしていたのかも、自分の名前も」
「じゃあ、ミコっていうのは……」
「朔につけてもらった名前です」
優香の視線が朔へ移り、それからミコの巫女服へ戻った。
「もしかして、この服から?」
「そうです」
「呼び名がないと困るでしょ」
朔が言った。
「もう少し考えてくださってもよかったと思います」
優香が少しだけ笑った。
ミコも口元を緩め、袖口を整えた。
服の乱れを直す手つきも、術の使い方も、覚えている。けれど、そうするよう教えてくれた人の顔は、一つも浮かんでこなかった。
朔が次の頁を開く。ミコも再び、冊子へ目を戻した。
頁には教室や食堂、図書室の写真が並んでいた。
すずの目が、書棚の並ぶ写真で止まる。
「本がたくさんありますね」
「術の本もあるよ。持ち出せないものも多いけど」
「優香さんが読む本も、ここにあるんですか」
「そうだね。最初に使うものは、俺が選ぶけどね」
「あまり難しくないものからお願いします」
優香が小さく言った。
ミコは図書室の写真を見た。窓の外に、校舎の端と木の枝が少しだけ写っている。
優香が隣の頁にある構内図を指で辿った。
「教室からだと、この中庭を回って行くんですね」
「校舎の裏から行くと近いですよ」
言ってから、視線が集まっていることに気づいた。
「裏?」
朔が聞き返す。
「渡り廊下がありますから。中庭へ出ずに、階段の脇を……」
ミコは口を閉じた。
図書室の写真に、そんなものは写っていない。
優香の指していた構内図を見る。校舎と図書室の建物はあるが、その間の細かな通路までは描かれていなかった。
「ミコ、あそこを知ってるの?」
朔の声が変わっていた。
ミコは写真へ目を戻した。
「いえ……」
窓。枝。白い壁。
その向こうへ曲がれば、屋根のある細い廊下が続いている。
そう思った。迷いもしなかった。
「そこに、渡り廊下はありますか」
「あるよ。俺たちも使ってた」
指先に、紙の縁が食い込んでいた。
いつの間にか、冊子を掴んでいたらしい。物へ触れるために指へ集めた霊気が揺れ、紙が手をすり抜けた。
頁が伏せられる。
ミコは何もない自分の手を見た。
「歩いたことが、あるような気がします」
そこに誰がいたのか。
どちらへ向かっていたのか。
続けて考えようとすると、もう分からなかった。
自分の足音がした気もする。すぐ後ろに、もう一人。
振り返ろうとする感覚だけが残った。
「ミコさん」
優香の声で、顔を上げた。
タマが優香の腕の中から、こちらを見ている。
病室の窓は閉まっていた。誰の足音もしていない。
「……すみません」
「座りませんか」
優香は空いている椅子を示した。
ミコは頷き、腰を下ろした。息を整えようとして、自分にはその必要もないのだと思い出す。
それでも、胸のあたりが落ち着かなかった。
朔は閉じかけた冊子に左手を添えた。
「ほかに、何か思い出した?」
ミコは首を横に振った。
「道だけです。誰といたのかも、分かりません」
「誰かといた気はするんだね」
「はい。たぶん」
朔は頷いた。
「学園に通ってたのかもしれない。千景に伝えておくよ。君を知っている人がいないか、調べてもらおう」
通っていた。
ミコは冊子へ目を落とした。
そうなのだろうか。あの教室のどこかに座り、本を開いていたのだろうか。
学生服を着た自分を思い浮かべようとしても、うまくいかなかった。
「ほかの写真も見る?」
朔が尋ねた。
ミコは少し迷ってから、首を横に振った。
「あとで、見てもいいですか」
「もちろん」
冊子を閉じる音がした。
玄斎も、すずも、続きを急かさなかった。
さつきが壁際を離れ、ミコのそばへ来た。
「少し、落ち着いたかえ」
穏やかな声に、膝へ落としていた目を上げる。
すずがすぐそばにいた。優香も、岳もこちらを見ている。
「はい。ありがとうございます」
答えると、さつきは小さく頷いた。
優香が腕の中のタマへ目を落とす。
タマが前脚を伸ばしている。
「ミコさんの手、気になるみたいです」
ミコが手を差し出すと、タマは鼻先を寄せた。小さな頭を撫でれば、目を細めて顎を上げる。
柔らかい毛並みを、指先で辿った。
「顎の下も撫でてやるとよい」
言われたとおりに指を動かすと、タマが喉を鳴らした。
「気持ちいいですか」
顎を上げたままのタマへ、玄斎も指を伸ばした。
「今なら儂もよいかの」
今度は、ミコも小さく笑った。
岳が少し場所を空け、玄斎が隣へしゃがむ。すずも猫の顔を覗き込んだ。
優香の膝の周りが、急に狭くなった。
「玄斎さん、すずにも見せてあげてください」
ミコが言うと、玄斎は後ろにいたすずに気づき、横へずれた。
「すまんすまん」
さつきが微笑んでいる。
いつもの顔が、そこに揃っていた。
◇
帰る支度をするとき、ミコはテーブルの冊子を見た。
朔が気づき、左手でこちらへ寄せる。
「預かっててもいいよ。優香は写真を撮ったから」
優香が携帯電話を軽く上げた。
「私もあとで見てみます。ミコさんが言っていた道、写真に写っているかもしれませんし」
「ありがとうございます」
ミコは冊子を受け取った。
今は、開かなかった。
持ってきた鞄へ、角を折らないように収める。一度手を離してから、ほかの荷物で曲がっていないか、もう一度確かめた。
すずは朔のそばに残り、玄斎たちは優香と廊下へ出ていった。
扉の向こうで、タマが一声鳴いた。
ミコも顔を上げる。
知らない道を思い出すのは、もう少しあとでいい。
今は、待っている皆のところへ歩いていった。




