第28話 戻る理由
◇ 久世朔
夕食の膳が下げられると、病室は急に静かになった。
久世はベッドの背を少し起こし、膝の上へ掛かっていた布団を左手で直した。装具に包まれた脚は、じっとしていても重い。夕方に飲んだ薬が効いているのか、右腕の痛みはいくらか薄れていた。
窓際には、すずがいた。
ランドセルを背負ったまま、外を見下ろしている。駐車場から出ていく車の明かりが、窓をゆっくり横切った。
ベッド脇で携帯電話が震えた。
画面を開く。
『佐々木さんは星守学園へ行くと決めたわ。次は、あなたの返事を聞かせて』
千景からだった。
久世は読み終えてからも、しばらく画面に目を落としていた。
「朔さん?」
すずが振り返っている。
「千景から。優香は星守へ行きたいって」
「タマちゃんも一緒ですか」
「そのつもりだよ。まだ、向こうが受け入れると決まったわけじゃないけどね」
すずは頷き、ベッドのそばへ来た。
久世の顔を見てから、テーブルの端へ視線を移す。
朝から持ち歩いていた書類が、そこにあった。
夕食が来るまでは開いていた。食事のために脇へ寄せて、それから戻していない。
ペンは、紙の束に挟んだままになっている。
「それは?」
「俺が陰陽庁へ戻るための申請書」
すずは書類へ目を落としたあと、久世を見上げた。
「朔さんも、優香さんたちと一緒に行けるんですか」
「戻れば、優香の監督者になれる可能性がある。あの二人のそばで、今までどおり教えられるかもしれない」
久世は携帯電話を伏せた。
「千景には、そう勧められてる」
久世は書類へ視線を戻した。
一番上には、陰陽庁の紋章が印刷されている。
七年前、任務の書類にも同じものがあった。現地へ着いたばかりの自分は、それを携えて門をくぐった。自分が何を守るために呼ばれたのか、確かめもしないで。
久世は紙の端を指で押さえた。
「戻るの、つらいですか」
すずの声に、顔を上げた。
久世は、いつものように笑おうとした。
すずは、紙を押さえた久世の指を見ていた。いつの間にか、端に小さな皺が寄っている。
「嫌だよ」
笑うのをやめた。
「できれば、戻りたくない」
口にすると、思っていたよりも素直な声が出た。
朝、千景と話している間は、何を言われてもまず疑った。優香を保護すると言われれば、そのあとで何をさせるつもりなのかと考えた。
千景自身を疑いたいわけではなかった。
それでも、あの紋章が目に入るたび、話を聞く前から体が強張った。
タマを封じるあの夜、自分も優香ごと祓う備えをした。失敗すれば、町を守るために実行するつもりだった。
誰かを犠牲にする判断が必要になることは、自分も知っている。
だが、すずを救うために、何か一つでも試したのか。ほかに方法はないのかと、誰が探した。
何も知らされずに守っていた門を思い出すと、今でも腹の底が熱くなる。その門を自分が守らなければ、という考えが、あとから必ずついてきた。
「だったら……」
すずは言いかけて、口を閉じた。
その先を、久世は待った。
廊下を台車が通っていく。車輪の音が扉の前で少し大きくなり、遠ざかった。
「優香さんたちだけで行かせるのも、嫌なんですね」
「うん」
短く答えると、すずは困ったように眉を寄せた。
どちらか一方ならよかった。
久世自身のことだけなら、この紙を千景へ返せば済んだ。だが、優香はすでに選んだ。タマと生きていくために、知らない場所で学ぶと決めたのだ。
その先で、自分だけが外に残る。
優香が何を聞かれ、何を求められているのかも、人づてにしか分からない。
紙を押さえた指に力が入った。
すずがじっと見上げている。
「おかしいと思ったときに、その場で言えるようにしておきたい」
監督者になれば何でもできる、とは思っていなかった。千景にも、そんな保証はできないと言われた。
あのころも、訴える相手を探して、話し続ける道はあったのだろう。
けれど、すずが死んだ経緯を問い直そうとしても、もう済んだこととして扱われる。ここにいても無駄だと、久世は見限った。
千景は残った。
朝、その理由を聞いたとき、素直に頷けなかった。自分にはできなかったことを七年続けた相手に、今度は席を用意してもらおうとしている。
久世は書類を一枚めくった。
推薦者の欄にある千景の名前を見て、すぐ次の頁へ進もうとした指が止まる。
優香たちのためだ。それは本当だった。
それだけを理由にしていれば、自分が何を諦めて出ていったのか、話さずに済むとも思っていた。
すずは久世の左手へ、自分の手をそっと近づけた。
指が触れるより先に、淡い霊気の温もりが伝わってくる。
紙を押さえる力が緩んだ。
「朔さんが、また苦しくなるのは嫌です」
久世は小さな手を見た。
七年前、初めてすずを降ろしたときにも、同じ温もりを感じた。
命を失ったはずのすずが、目の前にいた。泣いている久世を見上げ、小さな手を伸ばしていた。
助けたい。
降霊の道を繋いだときに流れ込んできたのは、その思いだった。
「……心配かけてるね」
すずは頷いた。
大丈夫だと言いかけて、久世は口を閉じる。
書類に皺を作るほど力を込めておいて、何でもないとは言えなかった。
久世は申請書へ目を戻した。登録を失った経緯を記す欄が、空白のまま残っている。
「あのときの話は、また聞かれると思う」
「私も一緒にいていいですか」
「すずも?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「朔さんが話せなくなったら、私が話します」
久世は顔を上げた。
すずは書類を見ていない。久世の返事を待ちながら、左手のそばへ自分の手を添えている。
儀式に選ばれたことを、すずは名誉だと信じていた。そう教えられて育ち、そのまま命を落とした。久世が何度あの日を悔やんでも、すずの口から誰かへの恨みが出てくることはなかった。
それがまた、久世にはつらいことだった。
だが、そのたびにすずまで悲しそうな顔をする。
久世は息を吐き、固くなっていた肩を少し下ろした。
「いてくれると、助かる」
「はい」
すずの表情が、わずかに和らいだ。
「千景にも、すずに同席してもらいたいと伝えておくよ」
久世は、皺になった紙の端を左手で撫でた。
「戻ることで優香たちのそばにいられるなら、申請してみようと思う」
すずは頷いてから、遠慮がちに尋ねた。
「戻ったら、またみんなで練習できますか」
「できるように、頼むよ。それも大事な条件だからね」
優香が術に集中すると、タマはすぐそばでその手を見ていた。ミコが教え方を変えてみせ、玄斎が横から口を出す。久世が余計なことを言って、叱られる日もあった。
そんな時間を、向こうでも続けたかった。
「でも、まずはその腕を治してください」
すずが固定具を見る。
「練習を見るだけでも駄目?」
「見るだけなら」
即座に返ってきて、久世は少し笑った。
すずも口元を緩めた。その手が、ようやく久世の左手から離れる。
久世は携帯電話を取り上げた。
返事を打ち始め、途中で指を止める。
再登録を申請する。
画面に並んだ文字を、もう一度読んだ。
陰陽庁への怒りが薄れたわけではなかった。あの日のことを考えれば、今でも怒りがこみ上げてくる。
隣から、すずが画面を覗いている。
久世は続きを打った。
『再登録の申請をする。優香とタマの監督を引き受けたい。条件を詳しく聞かせて』
送信すると、ほどなく返事が届いた。
『詳しい条件は明日話しましょう』
少し間を置いて、もう一通。
『今度は、黙っていなくならないで』
久世は画面を見つめ、短く返した。
『分かった』
携帯電話を置き、テーブルのペンを取る。
左手で書くのは慣れない。氏名欄の最初の一画から、線が斜めに流れた。
すずがペン先を見ている。
「読めるかな、これ」
「読めます。ゆっくりで大丈夫です」
急ぐ必要はなかった。
久世は紙を引き寄せ、一画ずつ自分の名前を書いた。
すずはその隣で、最後の一文字まで見ていた。




