第3話 十年分の爪痕
映画館裏の稲荷神社は、半分ほど蔦に埋もれていた。
崩れかけた鳥居をくぐる。
男は、社殿の前に置かれた丸い鏡を覗き込んでいた。水のように揺れる鏡面には、暗い廊下を進む五人の姿が映っている。
「聞こえる?」
男が鏡へ声をかける。
巫女姿の少女が振り返った。
『聞こえています。こちらは予定どおり進んでいます』
「帰還は夜明けになる。無理はしないで」
『そちらもお気をつけて』
鏡面が曇り、五人の姿が消える。
私は男へ駆け寄った。
「あなた!」
男が振り返る。
私を認めると、すぐに背後へ視線を移した。
「君か。あの猫は?」
「あなたが、タマに何かしたんじゃないんですか」
「俺が?」
「あの御札をもらってから、タマは弱っていったんです。それから、いなくなった」
男の表情から軽さが消えた。
「待って。最初から順番に聞かせて。札は今も持ってる?」
「持っています」
「猫が弱り始めたのは、札を渡した翌日?」
「そうです」
「いなくなったのは?」
「今日で四日目です」
男は私の周囲を見つめたあと、細長い紙を取り出した。
紙に書かれた青い線が、下から順に赤く染まっていく。上端へ達しても止まらず、最後には紙の端が黒く焦げた。
「これは何なんですか?」
「君の霊気だ。初めて会ったときとは量が違いすぎる」
「霊気?」
「生きている人間が持つ力だよ。数日で急に生まれた力じゃない。今までは、作られるそばから何かに持っていかれていたんだ」
「タマがもっていってたんですか」
「可能性は高い。いつから猫と一緒にいるの?」
「タマが死んだのは、十年前です」
男が顔を上げた。
「十年?」
「私が七歳のときです。死んだその日から、ずっと一緒にいました」
「十年間、君の霊気を取り込み続けていたのか」
男は焦げた紙へ目を落とした。
「それだけ長く続いていたなら、君の身体にも何か影響が出ていたはずだ」
「出ていません」
「一度も?」
「理由もなく弱ったりしたことはありません」
「なら、君に影響がない様に、量を調整していたことになる」
「タマは私を傷つけません」
今度は、男もすぐには否定しなかった。
「札は、君に触れる邪気をはじく。タマが君の霊気を取り込もうとすると、内側の邪気が刺激されて漏れる。札はそれをはじき、結果として二人の霊気のやり取りも止めていたんだ」
「だからタマは弱ったんですか」
「その可能性は高い」
「やっぱり、あなたの御札が原因じゃないですか」
「二人の間に、これほど長く霊気の流れがあったとは見抜けなかった。俺の落ち度だ」
男は言葉を濁さず、私を見る。
「ただ、札だけが失踪の原因かは断定できない。あの猫を見つける必要がある」
「だったら、捜してください」
男は社殿の鏡を振り返った。
「五人は別の事件を追って、今朝から鏡の向こうへ入っている。戻るのは早くても夜明けだ」
「だったら、私一人で捜します」
「待って」
男は鏡の四隅を確認し、新しい札を一枚貼った。
「入口は固定されてる。俺が離れても夜明けまではもつ。あの五人なら自力で戻れる」
「いいんですか」
「君を一人で行かせるほうが危険だ」
男は細い札へ何かを書き、鏡の縁に挟んだ。
「これは?」
「あの五人への伝言。俺の居場所を追える印もつけてある。戻ったときに俺たちがいなければ、これを辿ってくる」
「夜明けまで戻らないんですよね」
「使わずに済むのが一番だけど、何も残さず危険な場所へ行くほど無責任じゃないよ」
「朔って呼ばれていましたけど、フルネームは?」
「久世朔。二十六歳。職業は陰陽師。これで少しは怪しくなくなった?」
「全然」
「正直でよろしい。君は?」
「佐々木優香です」
「佐々木さん。猫を最後に見た場所へ案内して」
◇
私の部屋で、久世さんはタマが眠っていた枕へ手をかざした。
黒い糸のようなものが、指先へ絡みつく。
「邪気は濃い。でも、君の霊気とほとんど同じ気配がする」
「だから最初に分からなかったんですか」
「君自身から出ているか、君に重なった守護霊から漏れていると思った。別の存在だと切り分けられなかったんだ」
黒い糸は窓を抜け、屋根の向こうへ続いていた。
「追えるんですか」
「最近の痕跡なら。古いものまで辿ろうとしたら、何日かかるか分からない」
最も濃い糸を選び、私たちは家を出た。
痕跡は、小学校近くの歩道橋で途切れていた。
錆びた階段の裏に新しい爪痕が刻まれ、黒い染みが残っている。
歩道橋の上には、少年の幽霊が座っていた。
少年は私を見るなり、欄干の陰へ隠れた。
「この辺りで三毛猫を見なかった?」
私が尋ねると、少年は恐る恐る顔を出した。
「お姉ちゃん、前にもここを通ってた」
「私を覚えてるの?」
「うん。今より少し小さかった。後ろに黒い女がついてた」
中学生のころだろうか。
「三毛猫が来て、女を食べた。あの猫、いつもお姉ちゃんの後ろにいた」
「いつも?」
「うん。ここで何回も見た」
久世さんが爪痕へ触れる。
「最近も来た?」
「何日か前。今度はすごく苦しそうだった。川のほうへ行ったよ」
少年の証言を頼りに、川沿いへ向かった。
河原には、古い狛犬の霊がいた。
タマについて尋ねると、狛犬はゆっくり頷いた。
「あの三毛なら、長くこの辺りを守っておる」
「守っている?」
「おぬしをじゃ」
狛犬が私を見る。
「おぬしの匂いを追うものが現れるたび、あの猫が先に見つけて食っておった。八年ほど前から、何度もな」
狛犬は川下へ顔を向けた。
「ここは水に沿って、よからぬものが流れ着く。あの猫はおぬしが橋を渡るより先に来て、草むらや橋脚の下を嗅ぎ回っておった」
「タマが、毎日?」
「毎日ではない。だが、何かが来た夜には必ずな。己より大きなものに食らいつき、川へ落とされたこともある。それでも夜が明ければ、またおぬしの後ろを歩いておった」
河川敷は、小学生のころから何度も通った道だった。
夏休みには、朝早くタマと散歩をした。私が橋を渡るころには、いつの間にかいなくなっていることがあった。けれど、家へ帰れば先に戻っていて、窓辺で丸くなっていた。
気まぐれな猫だからだと思っていた。
あれは、私より先に危険を探しに行っていたのだろうか。
「ほかに、あの子がよく向かっていた場所を知りませんか」
狛犬の証言を手掛かりに、久世さんは川沿いに残った痕跡を探し直した。私はその先々で、タマを見たことがないか霊たちに尋ねた。
最初に向かったのは、学校の裏手にある狭い路地だった。
色褪せた通学路の標識の下に、作業着姿の老人の霊が立っていた。生前は近くの学校で用務員をしていたらしく、タマの姿を覚えていた。
「あの三毛は、嬢ちゃんが通る日はよう見かけたよ。塀の上から、ずっと道の先を睨んどった」
「何かと戦っているところも見ましたか」
「一度だけな。犬みたいな黒い化け物が、嬢ちゃんに鼻を近づけとった。三毛が屋根から飛び降りて、そいつの首に噛みついた。嬢ちゃんは気づかんまま、友達と歩いていったよ」
去年の秋、真帆と文化祭の話をしながら帰った日を思い出した。
あの日、家へ着いてもタマは姿を見せなかった。しばらくして窓から入ってきたとき、ひどく疲れた様子で机の下にうずくまった。呼んでも尻尾を一度振っただけだった。
私は、どこかで昼寝でもしてきたのだと思った。
何も知らずに、「今日は随分のんびりしてたんだね」と笑った。
胸の奥が、遅れて痛んだ。
「次へ行こう」
立ち止まった私を、久世さんは急かさずに待っていた。私が歩き出してから、半歩先を進んだ。
次に見つけた痕跡は、タマが死んだ交差点にあった。
ガードレールの裏側に、幾重もの爪痕が残っている。新しいものに古いものが重なり、錆の下にまで深く食い込んでいた。
久世さんがしゃがみ込み、指先でなぞる。爪痕から細い黒煙が立ち上り、すぐに風へ溶けた。
「一度や二度じゃない。同じ場所で、何年も戦ってる」
「どうして、ここで」
「君の通り道だったからだろう。この交差点には霊が溜まりやすい。タマにとっては自分が死んだ場所でもある。近づくものを待ち伏せるには都合がよかったのかもしれない」
信号が青へ変わる。
何度も渡った横断歩道の向こうで、幼い私がランドセルを背負っているような気がした。その隣には、三毛猫のタマがいる。
亡くなったばかりのころから、タマは毎朝、私を学校まで送ってくれた。雨の日も、冬の寒い日も、曲がり角までついてきた。
寂しがり屋の私に付き合ってくれているのだと思っていた。
それだけではなかった。
学校の裏。河川敷。この交差点。
聞いて回るたび、私の知らない戦いが見つかった。
朝になってもタマが動かなかった日。毛の間から黒い靄が漏れていた日。撫でようとした私の手を避け、少し離れたところで丸くなった夜。
全部、ただの気まぐれだと思っていた。
私が眠り、学校へ通い、何も知らずに毎日を過ごしている間、タマはずっと戦っていた。そして帰ってくるたび、何事もなかったように私のそばへ座っていた。
久世さんは、爪痕に残った黒煙をしばらく見つめていた。
「獲物を追ってつけた傷じゃない。ここを越えさせまいと踏みとどまった跡だ。ここまで見つかった痕跡も、全部同じだった」
最初に会った日、久世さんはタマを警戒していた。その久世さんが、自分で確かめたものを一つずつ積み上げるように言った。
「霊気を取り込んでいたのは、君を弱らせるためじゃない」
久世さんが古い爪痕から手を離す。
「今の君の霊気は、札で守っていても周囲の霊を引き寄せている。タマは君の霊気を減らし、外へ漏れる量を抑えていたんだろう。それでも近づくものは、自分で食べた」
「やっぱり、タマは私を守ってた」
「うん」
久世さんは静かに認めた。
「最初に君を見たとき、君の霊気に混ざった邪気が外へ漏れ始めていた」
「それで、死ぬって言ったんですか」
「あのときは原因まで分からなかった。でも今なら分かる。タマはもう、取り込んだ邪気を抑えきれなくなっていたんだ。このまま君のそばにいれば、漏れた邪気が君まで侵食していた」
「だから、タマは私から離れた」
「おそらくね。自分が君を傷つける前に、一人で消えるつもりなんだ」
「助ける方法は?」
「邪気を祓う」
「そうすればタマは戻りますか」
「普通の浄化には耐えられない。邪気とタマ自身が混ざりすぎてる。無理に祓えば、存在ごと消える」
「他には?」
久世さんは答えなかった。
「あるんですね」
「使い魔の契約を結び、主人の霊気で魂の形を固定する方法はある」
「それなら――」
「今のままでは無理だ」
「どうしてですか」
「タマが自分から契約を受け入れ、流れ込む邪気を内側から押さえる必要がある。少しでも抵抗すれば、邪気がまともに君へ流れ込み、その場で魂が壊れる」
「タマなら私の声を聞いてくれます」
「理性が残っていればね。でも、今の痕跡だけでは、それを期待できる状態か判断できない」
「じゃあ、祓うんですか」
久世さんは立ち止まった。
「まずは封印を試す。話が通じる状態なら、その後で別の方法を探す」
「通じなかったら?」
「人を守る」
それ以上は答えなかった。
夕方、最新の痕跡が北の山へ続いていると分かった。
「この先に、人が近づかない場所はある?」
「古い採石場があります」
子どものころ、怪我をしたタマが一度だけ姿を消したことがある。
三日後、採石場の岩陰でうずくまっているのを見つけた。私に弱った姿を見せまいとしたのだろう。帰り道が分からなくなって泣き出した私を、怪我をしたタマが家まで導いてくれた。
あの子は、苦しいときほど一人になろうとする。
「タマは、そこにいると思います」
「確信は?」
「あります。タマは傷ついたとき、あそこへ隠れるから」




