第2話 御札の代償
翌朝、タマは食卓の下へ来なかった。
居間の隅で丸くなり、名前を呼んでも耳を動かすだけだった。
「具合悪いの?」
抱き上げようと手を伸ばす。
タマは私の手をすり抜け、胸元へ鼻先を寄せた。
私の体から白い霞のようなものが伸び、タマの毛の隙間から黒い靄が漏れ出す。
制服の胸ポケットへ入れた御札が、急に熱を持った。
見えない壁に弾かれ、タマの体が床を転がる。
「タマ!」
タマの体からは、まだ黒い靄が漏れている。駆け寄ろうとすると、御札がまた熱くなった。
私は御札を胸ポケットから取り出し、机の引き出しへ押し込んだ。
熱が消える。
ようやくタマへ近づけたものの、体はいつもより薄く見えた。
「やっぱり、これが原因なの?」
窓の外から、がり、と硝子を引っかく音がした。
振り返る。
青白い男の顔が、二階の窓へ張りついていた。
目を大きく見開き、口の端から長い舌を垂らしている。細長い指が硝子をすり抜け、部屋の中へ伸びてきた。
私は引き出しを開け、御札を掴んだ。
御札が淡く光る。
青白い男は熱いものへ触れたように顔を歪め、窓の外へ弾き飛ばされた。
同時に、タマも苦しそうに後ずさる。
「こんなの、やっぱり――」
御札を破ろうとした私へ、タマが鋭く鳴いた。
窓の外へ消えていく男を見たあと、もう一度、私の手元を見る。
「これを持ってろってこと?」
タマは苦しそうに目を細めた。それでも、もう一度鳴いた。
自分が苦しくても、私に御札を持たせようとしている。
そう気づいたら、破れなくなった。
私は御札を布の小袋へ入れ、鞄の内側に結びつけた。
鞄を持ち上げると、タマの耳がわずかに伏せられた。
御札を家へ置いていけば、窓から入ろうとしたものを防げない。持っていけば、タマを傷つけるかもしれない。
どちらを選べばいいのか分からず、玄関で立ち尽くした。
最後に私の背中を押したのは、タマだった。
足元まで来たタマは、鞄の中の御札へ目を向けたあと、玄関の扉を見て、行けとでもいうように鳴いた。
「今日は早く帰るね」
返事はなかった。
学校にいる間も、授業の合間に何度も鞄を見た。あの御札を持っているだけで、タマから何かを奪い続けている気がした。
放課後、急いで帰ると、タマは玄関へ迎えに来なかった。
鞄を玄関へ置き、居間の隅で丸くなっていたタマの向かいへ座る。名前を呼べば耳は動く。それ以上は何も返ってこない。
十年間一緒にいたから、眠いときと、機嫌が悪いときと、痛みを隠しているときの違いくらい分かる。
タマは、苦しんでいた。
けれど、どこが痛いのか聞くことも、代わってあげることもできなかった。
二日目、タマの体はさらに薄くなった。
学校から帰っても玄関へ迎えに来ない。家中を捜すと、二階の窓辺でうずくまっていた。
口元には、黒い煙のような汚れが付着している。
「どこかに行ってたの?」
タマは顔を背けた。
その夜、屋根を踏むかすかな音で目を覚ました。
窓の外を見ると、タマが隣家との狭い隙間を睨んでいた。暗がりには、人の形をした影が二つ立っている。
タマが背を丸めると、影は塀の向こうへ消えた。
部屋へ戻ってきたタマの口元から、また黒い煙がこぼれていた。
「大丈夫?」
私が言っても、タマは枕元へ丸くなるだけだった。
眠ったふりをしながら、私は朝まで何度もその輪郭を確かめた。
三日目。
授業中、窓の外に見知らぬ顔が並んでいた。
校舎の三階。
足場などない窓の外から、何人もの幽霊が私を見つめている。
帰り道でも、知らない幽霊が後をついてきた。
そのうちの一人が、私の肩へ手を伸ばす。御札が光り、指先を弾いた。
幽霊の顔が崩れた。
口が顎まで裂け、もう一度私へ飛びかかってくる。
塀の上から、タマが飛び降りた。
体が一瞬だけ大きくなる。
タマは襲いかかった一体だけを噛み砕いた。残りの幽霊たちは悲鳴を上げ、散り散りに逃げていく。
「タマ?」
タマは私を見なかった。
口元から黒い霧を漏らし、ふらつく足で家の中へ消えた。
御札を鞄から外そうとした。
けれど、玄関の曇り硝子の向こうには、逃げたはずの幽霊たちがまだ立っていた。御札へ手をかけるたび、扉の向こうの影が近づいてくる。
捨てれば、あれらが家へ入ってくる。
持っていれば、タマは私の霊気を食べられない。
何も知らない私には、どちらかを選ぶことしかできない。
結局、御札を外せなかった。
タマが守れと言った私自身を、私が危険にさらすことだけはできなかった。
その選択がタマをさらに苦しめているようで、鞄へ触れるたびに胸が痛んだ。
四日目の放課後、私はあの男を捜した。
初めて会った道。古い映画館。近所の神社。
けれど、男も五人の幽霊も見つからなかった。
家へ戻ったとき、タマはいなかった。
窓を開けたまま待っていると、日付が変わるころ、ようやく屋根の上に姿を現した。
体の向こう側が透けている。
息をするたび、腹部が大きく上下していた。
「タマ!」
窓から身を乗り出す。
タマの後ろには、いくつもの白い顔が浮かんでいた。窓のすぐ外から、じっとこちらを見ている。
鞄の中の御札が熱を放つ。白い顔たちは光に阻まれ、家へ入れずにいた。
その光がタマの口元から漏れる黒い靄まではじき、タマが後ずさった。
「待って。今、外すから」
御札へ手を伸ばすと、タマが低く鳴いた。
「私を守るため?」
タマは答えない。
「でも、このままじゃタマが消えちゃうよ」
タマは窓をすり抜け、部屋へ入ってきた。
枕元で丸くなる。
「あの男を捜すから」
私は布団へ入った。
「明日も捜す。だから、それまでどこにも行かないで」
指先がタマの背中をすり抜ける。
以前はわずかに感じられた温度も、今はほとんどなかった。
タマの舌が、私の頬へ触れた。
感触はない。
それでも、舐めてくれたことだけは分かった。
「おやすみ、タマ」
小さな喉が鳴る。
その音を聞きながら、私は眠りに落ちた。
翌朝、タマはいなくなっていた。
◇
最初は、夜になれば戻ると思っていた。
この数日、タマは何度も一人で外へ出ていた。今回も同じだ。そう思うことにして、私は学校へ向かった。
けれど、授業の内容は何一つ頭に入らなかった。
休み時間になるたびに窓の外を見る。昼休みには意味もなく校門まで行った。
放課後の鐘が鳴ると同時に教室を飛び出し、走って家へ帰った。
「タマ?」
玄関を開けても、迎えには来なかった。
二階。居間。台所。押し入れの中まで捜した。
どこにもいない。
それから近所を回った。
公園。小学校までの通学路。タマが死んだ交差点。昔住んでいた家の跡。
日が暮れるまで捜しても、見つからなかった。
「ただいま」
誰もいない家で、あえて声に出した。
返事はない。
昨日までも、人の返事があったわけではない。
それでもタマは必ず玄関まで来た。扉をすり抜け、靴を脱ぐ私の足へ体を寄せた。
今日は、いない。
冷蔵庫を開ける。
朝の味噌汁が残っている。温めて椀によそい、食卓に座った。
一口も食べられなかった。
向かいの椅子の下が空いている。
タマは食事をしない。それでも、私が食べ終わるまでいつもそこにいた。
「どこにいるの」
独り言が、広すぎる家へ吸い込まれた。
幽霊になったタマと暮らし始めてから、この家を静かだと思ったことは一度もなかった。
机の上で携帯電話が震えた。
真帆からだった。
『朝から気にしてたこと、大丈夫だった?』
しばらく画面を見つめた。
大丈夫ではない。けれど、死んだ猫がいなくなったから一緒に捜してほしいとは言えなかった。
『まだ。ごめん、今日は連絡できなくて』
そう返すと、すぐに既読がついた。
『手伝えることがあったら言って』
短い文字が、暗い部屋の中で光っていた。
助けてほしかった。
それでも、何を捜しているのかさえ話せない私には、ありがとう、と返すことしかできなかった。
二日目、私は学校へ体調不良の連絡を入れた。
もう、待っているだけでは戻ってこない気がした。
町にいる幽霊たちへ、片端から声をかけた。
駅前に立ち続けている会社員。
公園のブランコに座る女の子。
川沿いを歩く、首のない老人。
三毛猫の幽霊を見なかったか。
若い男と、五人の幽霊を見なかったか。
駅前では、何もない空間へ話しかける私を、通行人が遠巻きに見ていた。声を落とせば幽霊に届かず、声を上げれば生きている人から奇妙な目を向けられる。
それでも構わなかった。
知っている幽霊に聞き終えると、今まで避けていたものにも声をかけた。高架下から動かない黒い影。閉店した写真館の硝子に映る女。夕方になると川面を歩く、顔のない男。
タマを知るものはいなかった。
日が落ちても家へ帰れず、同じ道を何度も歩いた。どこかですれ違ったのではないか。私が一本隣の道を選んでいれば、見つけられたのではないか。そう考えると、足を止められなかった。
夜遅くに戻っても、窓の鍵は掛けなかった。
帰ってきたタマが、いつでも入れるように。
三日目には、担任から様子を確認する電話が来た。
まだ熱があると嘘をついた。
本当のことを話しても、誰にも理解してもらえない。
電話を切ると、今度は真帆から着信があった。
『先生から聞いた。風邪、大丈夫?』
「うん。寝てれば治ると思う」
私は駅裏の細い路地に立っていた。足元には水たまりがあり、目の前には、片腕のない幽霊がいる。
『本当に家にいる?』
真帆の声が少し低くなった。
「いるよ」
二度目の嘘は、一度目より言いにくかった。
『お見舞いに行こうか』
「大丈夫。うつしたら悪いから」
心配してくれる声を早く切りたくて、治ったら連絡すると約束した。
通話が終わる。
画面が暗くなると、水たまりに映った自分の顔だけが残った。髪は乱れ、目の下には薄い隈ができている。
片腕のない幽霊も、タマを知らなかった。
その夜は味噌汁を温めることもしなかった。
窓際へ座り、膝を抱えたまま朝を待った。
四日目。
古い駄菓子屋の前にいる老婆が、男を知っていた。
「後ろに大勢連れた兄ちゃんじゃろ」
「今、どこにいるか分かりますか」
「映画館裏の稲荷におったよ。今朝、連れの五人をどこぞへ送り出しておった」
「ありがとうございます」
「待ちなされ」
走り出そうとした私を、老婆が呼び止める。
「お嬢ちゃん、この数日で匂いが変わったのう」
「匂い?」
「ひどく、美味そうな匂いじゃ」
老婆の口が、不自然なほど大きく開いた。
鞄の中で御札が光る。
老婆は我に返ったように口を閉じ、気まずそうに顔を背けた。
「早う行きなされ。今のお嬢ちゃんが一人で歩くのは危ない」




