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第1話 君、このままだと死んじゃうよ

その日も、いつもと同じ朝になるはずだった。


 六時半に目覚まし時計を止め、顔を洗う。冷蔵庫から卵を一つ取り出して目玉焼きを作り、昨夜の味噌汁を温める。炊飯器に残っていたご飯を茶碗によそい、一人で食卓につく。


 向かいの椅子の下には、三毛猫が一匹座っていた。


「今日はうまく焼けた」


 箸で黄身を割る。半熟の中身が白身の上へ流れ出した。


「昨日は固くなっちゃったからね」


 猫は答えない。


 タマは十年前に死んでいる。


 私が七歳のとき、道路へ飛び出した私を追いかけ、車にはねられた。その日の夜から、幽霊になって私のそばにいる。


 幽霊だから、ご飯も水も必要ない。毛が抜けることもなければ、トイレの砂を替える必要もない。


 それでも私は毎朝、タマに話しかける。


 タマは食卓の下から私を見上げ、気が向けば尻尾を振る。たまに、にゃあと鳴く。それだけで、一人分しかない朝食が少しだけ寂しくなくなる。


「ごちそうさまでした」


 食器を流しへ運んだとき、タマが突然廊下へ飛び出した。


「タマ?」


 玄関まで走ったかと思えば、居間へ引き返す。窓枠に飛び乗り、カーテンの隙間から外を睨んだ。


 背中の毛が逆立っている。


 カーテンをめくってみたが、狭い道路と向かいの家が見えるだけだった。犬を散歩させている近所のおじいさん以外、人影も霊の姿もない。


「何かいるの?」


 タマは答えない。


 窓の外ではなく、もっと遠くにある何かを見ているようだった。


「今日は早く帰るから」


 タマは窓枠から飛び降り、私の足へ額を擦りつけた。


 手応えはほとんどない。


 それでも、タマがそこにいることだけは分かる。


 制服に着替え、鞄を肩に掛けた。


「行ってきます」


 にゃあ、とタマが鳴く。


 それが、十年前から変わらない私たちの朝の挨拶だった。


     ◇


 学校では何も起こらなかった。


 数学の小テストで一問間違え、昼休みには購買の焼きそばパンを買い損ねた。古文の授業で指名され、適当に答えたら先生にため息をつかれた。


「また買えなかったの?」


 教室へ戻ると、真帆が自分の机から顔を上げた。


 私が空の手を見せると、呆れたようにため息をつき、二つ買っていたクリームパンの片方を差し出してくる。


「昼休みになってから財布を出してたら、そりゃ負けるよ」


「明日は走る」


「廊下は走っちゃ駄目でしょ」


「じゃあ、早歩きする」


「そこは早めに並ぶって言いなよ」


 真帆はそう言って笑った。


 私が一人で昼食を済ませようとすると、いつも当たり前のように隣へ椅子を運んでくる。話したいことがある日はずっと喋っているし、私が黙っている日は、無理に理由を聞かず一緒に黙っていてくれる。


 今日もパンを食べながら何度か窓の外を見た私に、真帆は一度だけ尋ねた。


「朝から気にしてるけど、何かあった?」


「ううん」


「そっか」


 それ以上は聞かなかった。


 真帆のこういうところに、私は何度も助けられている。


 放課後、友達の真帆から駅前へ誘われた。


「新しいクレープ屋、今日まで半額だって」


「ごめん。今日は帰る」


「何か用事?」


「うん。朝から、ちょっと気になることがあって」


 真帆には、タマが今も家にいることを話していない。


 死んだ猫が幽霊になり、十年間ずっとそばにいる。そんな話を信じてもらえるとは思っていなかった。


 校門で真帆と別れ、住宅街の細い道へ入る。


 そこで、変な男を見つけた。


 二十代半ばくらいだろうか。白いTシャツに色の落ちたジーンズ。少し長い黒髪を後ろで適当に結んでいる。


 格好だけなら、どこにでもいそうな人だった。


 普通ではないのは、その周りだ。


 着物姿の少女。巫女装束の少女。二メートルはありそうな大男。赤いランドセルを背負った女の子。そして、腰の曲がった老人。


 五人とも、足元が透けている。


 幽霊だ。


「古い映画館は?」


 男が尋ねた。


「鏡の向こうへ続く道がありました」


 巫女姿の少女が答える。


「ですが、まだ入口が安定していません」


「次の新月に五人で入ろう。それまでは周囲の痕跡を調べて。おじいさんは地下水路を頼む」


「人使いが荒いのう。儂はもう死んどるんじゃぞ」


「死んでるから入れる場所もあるでしょ」


 男は慣れた様子で幽霊たちと話していた。


 絶対に関わってはいけない人だ。


 私は視線を落とし、道の反対側へ寄った。


 見えていないふりをして、横を通り過ぎればいい。


 あと三歩。


 あと二歩。


「そこの君」


 聞こえないふりをした。


「今、俺の隣にいる五人を数えたよね」


 足が止まった。


 見えていないふりをしたつもりだった。けれど、五人を順番に見た視線までは隠せていなかったらしい。


「やっぱり見えてるんだ」


 男の声から軽さが消えた。


「それなら話が早い。君、このままだと死んじゃうよ」


 逃げた。


 全力で逃げた。


「あっ、ちょっと! 待って!」


 待つわけがない。


 知らない男に帰り道で呼び止められ、死ぬと脅された。どう考えても不審者だ。


「俺、怪しい者じゃないから!」


 怪しい人は、みんなそう言う。


 角を曲がり、細い路地へ飛び込む。鞄が背中で跳ね、ローファーが何度も脱げそうになる。


 二つ目の角で振り返った。


 誰もいない。


 それでも止まらず、家まで走った。


 門の前へ着いたときには、制服のシャツが背中に張りついていた。膝に手をついて息を整え、来た道を確認する。


 誰も追ってきていない。


 ようやく安堵して、玄関へ向き直った。


「やあ」


 男が塀にもたれていた。


「ひっ」


「急に走るから驚いたよ。高校生って足が速いね」


「どうやって……」


「少し近道をした」


 近道で私より先に、知らないはずの私の家へ着けるわけがない。


 男の周りには、先ほどの幽霊たちもそろっていた。


「顔が真っ青ですよ」


 巫女姿の少女が心配そうに私を覗き込む。


「汗もすごいね」


 ランドセルの女の子まで顔を寄せてきた。


「誰のせいだと思ってるんですか!」


「主に朔のせいですね」


「儂らは止めたんじゃがのう」


「ちょっと待って。俺だけが悪いの?」


「知らない女の子に『死ぬ』なんて言ったのはあなたでしょう!」


「だから、それには事情が――」


 男が言い終えるより先に、玄関を何かがすり抜けた。


 タマだった。


 私と男の間へ割って入り、背中を弓なりにする。


 低い唸り声が、地面を震わせた。


 男の目が細くなる。


「なるほど。君にも、この子と同じ霊気がまとわりついているのか」


 タマの頭が膨れ上がった。


 小さな口が耳まで裂け、白い牙が伸びる。頭だけで男の上半身をのみ込めるほどの大きさになった。


 男の周囲にいた五人が、一斉に身構える。


 巫女姿の少女の袖から白い紙が滑り、大男が一歩前へ出た。


「動かないで」


 男が制した。


 タマの口が開く。


 男へ食らいつこうとした。


「ダメッ!」


 巨大な牙が、男の鼻先で止まった。


 タマの口から、どす黒い霧が漏れている。


 男は逃げなかった。


 牙の奥にある何かを見定めるように、タマを見つめている。


「君の守護霊?」


「家族です」


「名前は?」


「帰ってください」


「猫の名前」


「警察を呼びますよ!」


「分かった。今日は帰る」


 男は両手を上げた。


 それでもタマから目を離さない。


 タマが再び喉を鳴らすと、男はジーンズのポケットから折り畳まれた紙を取り出した。


「これだけ持っていて」


「いりません」


「お守りだよ。君には濃い邪気がまとわりついている」


「そういうの、間に合ってます」


「間に合ってないから声をかけたんだけどな」


 軽い口調だった。


 けれど、差し出された手は少しも揺れていない。


「この猫から、かなり強い邪気を感じる」


「タマが危険だって言うんですか」


「分からない。邪気の量だけを見れば危険だ。でも、君を襲うどころか俺から守ろうとした」


 男はタマと私を見比べた。


「それに、二人の霊気が同じだ。今ここで、この猫を悪霊だと決めつけることはできない」


「だったら、これは何を防ぐんですか」


「君に近づく邪気だ。この猫から漏れ出すものも含めてね」


 タマの全身の毛が、さらに逆立つ。


「今追っている事件を片づけたら、必ずもう一度ここへ来る。それまで、この札を持っていて」


「どれくらいかかるんですか」


「入口が開く時期次第だ。でも、放っておくつもりはない」


 真剣な声だった。


 私は迷った末、御札を指先でつまんだ。


 複雑な朱色の文字が書かれている。


「肌身離さず持っていて」


「受け取りました。もう帰ってください」


「そう嫌われると傷つくなあ」


「朔、あなたが悪いです」


 巫女姿の少女が冷たく言った。


「次からは順序を考えて話してください」


「次があれば気をつけるよ」


 朔と呼ばれた男は踵を返した。


 五人の幽霊も後をついていく。


 六人の姿が角の向こうへ消えるまで、タマは低く唸り続けていた。

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