第26話 欲張っていい
◇ 佐々木優香
相良さんの話が、頭から離れなかった。
タマを抱いて、病院の廊下を歩く。
星守学園へ移る。
久世さんと逃げる。
タマを陰陽庁へ渡す。
考えるたびに、どの道にも足を踏み出せなくなる。
腕の中で、タマが身じろぎした。
「大丈夫」
小さな声で言う。
何も大丈夫ではないことくらい、タマには伝わっている。
それでも、ほかに言える言葉がなかった。
明日の正午までに決めなければならない。
今日は家へ帰って、一人で考えるつもりだった。
けれど、エレベーターへ向かう途中で、真帆の病室の前を通った。
足が止まる。
昼に一度、顔を出している。長く話すと疲れさせるから、今日はもう帰ると伝えた。
今の顔で会えば、きっと心配をかける。
そのまま通り過ぎようとした。
「優香?」
引き戸の向こうから声がした。
聞こえなかったふりをして歩くには、はっきり呼ばれすぎていた。
少し迷ってから、扉を開ける。
真帆はベッドの上で、背中に枕を重ねて座っていた。額には白いガーゼが貼られ、左肩を動かさないよう腕を体の前へ置いている。
「やっぱり優香だ。今、帰るところ?」
「うん」
「じゃあ、こっち来て」
「でも、休んだ方が」
「少しくらい平気。座って」
ベッド脇の椅子を指さされる。
断る理由を考えている間に、もう一度言われた。
「座る」
「はい」
返事まで求められ、仕方なく椅子へ腰を下ろす。
タマを膝に乗せた。
真帆には見えていない。それでも、そこに何かがいると分かっているように、私の膝を一度見た。
「それで、何があったの?」
「何もないよ」
「もう一回だけ聞くね。何があったの?」
笑っている。
けれど、答えるまで逃がさないという顔だった。
「本当に、何も」
「廊下を歩いてる足音が、私の部屋の前で止まった。なのに入ってこないで、そのまま行こうとした」
真帆が私の顔を見る。
「昼に来たときより、ひどい顔してるし」
「そんな顔してる?」
「してる。鏡見る?」
枕元の小さな鏡へ手を伸ばそうとする。
「いい。肩を動かさないで」
「じゃあ話して」
「それとこれとは別でしょ」
「別じゃない。私に余計な動きをさせたくなかったら、早く話す」
「怪我人がそういうことに使うの、ずるいよ」
「知ってる」
真帆は悪びれなかった。
私は椅子から立ち上がろうとした。
「帰るなら、あとで久世さんに聞く」
動きが止まった。
「久世さんは関係ないよ」
「関係あるんだ」
しまったと思ったときには、もう遅かった。
真帆が目を細める。
「さっきより分かりやすい」
「真帆」
「優香が話してくれないなら、廊下にいる看護師さんに頼んで、久世さんを呼んでもらうから」
「そんなことしたら迷惑だよ」
「じゃあ優香が話す」
「どうして、そんなに強引なの」
思ったより大きな声が出た。
真帆の笑みが消える。
「また、一人で決めようとしてるから」
静かな声だった。
「昨日、少しずつでいいから話してって言ったでしょ。なのに、また一人で抱え込むの?」
「真帆は怪我してる」
「話を聞いたら傷が増えるの?」
「増えないけど」
「なら聞ける」
真帆は右手で布団を軽く叩いた。
「話してくれるまで、何度でも聞くからね」
「本当に強引」
「優香が話すなら、すぐ終わるよ」
言い返せなかった。
タマが膝の上から私を見上げている。
心配と、ためらい。それから、ほんの少しだけ背中を押すような温かさが伝わってきた。
タマまで、真帆の味方らしい。
「長くなるよ」
「うん」
「信じられない話もあると思う」
「昨日より?」
「昨日とは、違う意味で」
「聞いてから決める」
真帆は少し姿勢を直した。
私も、椅子へ座り直す。
「さっき、陰陽庁の人と話をしたの」
◇
全部を説明し終えるころには、窓から差し込む午後の光が少し傾いていた。
陰陽庁が、私とタマをこのまま元の学校へ戻すつもりはないこと。
星守学園という陰陽師を育てる学校があること。
相良さんから示された、三つの道。
真帆は途中で口を挟まなかった。
ただ、タマを引き渡せば戻ってこられないかもしれないと話したときだけ、布団の上に置いた右手を握った。
「明日の正午までに、選ばないといけない」
最後にそう言うと、真帆はしばらく黙った。
「確認していい?」
「うん」
「一つ目なら、その陰陽師の学校で、タマと一緒に勉強できるんだよね」
「絶対に一緒にいられるとは言われてない。でも、危険がない限り引き離す必要はないって、相良さんは言ってた」
「久世さんも、ついてきてくれるかもしれない」
「陰陽庁に戻れば」
「二つ目なら、今の学校を辞めて、久世さんまで追われる」
「うん」
「三つ目なら、優香はここに残れるけど、タマがどうなるか分からない」
頷く。
口に出して並べられると、三つ目の道がまた胸へ刺さった。
膝の上のタマへ手を置く。
「三つ目はなし」
真帆が言った。
「でも、それなら今の学校には」
「タマは家族なんでしょ」
迷いのない声だった。
「家族を渡せば学校に通っていい、なんて言われて、優香が普通に通えるわけないじゃん」
「それは」
「それに、私は見えないけど、タマには昨日助けてもらったんだよね」
真帆が私の膝の少し上へ顔を向ける。
「助けてくれた相手を差し出して、また隣の席で一緒に授業を受けようって言われても困る」
「真帆は悪くないよ」
「知ってる。だから、優香も私を理由に三つ目を選ばないで」
先に言われた。
今の学校へ残れば、真帆のそばにいられる。
その考えを、私は捨てきれていなかった。
「じゃあ、二つ目は?」
「それもなし」
「早いね」
「だって、久世さんの人生を勝手に使って逃げるんでしょ」
「私が頼めば、たぶん」
「そうしてくれるから、頼んじゃ駄目なんじゃない?」
久世さんと長く話したわけでもない真帆にまで、見抜かれている。
「昨日、あの怪我で優香を心配して、病室の前にいた人だよ。断らないでしょ」
「うん」
「優香も、そんなことをさせたいわけじゃない」
「うん」
「だったら、一つしか残ってないじゃん」
「でも、転校したら」
真帆と会えなくなる。
言葉にするのが怖かった。
口に出せば、本当にそうなる気がした。
「私と友達じゃなくなる?」
真帆が先に言った。
顔を上げる。
「ならないよ」
「じゃあ、何が困るの?」
「毎日会えなくなるかもしれない」
「連絡すればいい。休みの日に会えばいい。遠かったら、私がそっちへ行く」
「簡単に言うけど、どこにある学校かも分からないんだよ」
「外国じゃないんでしょ」
「たぶん」
「じゃあ行ける」
根拠は何もないのに、真帆が言うと本当にどうにかなりそうに聞こえた。
「正式に転校するかも、まだ決まってないんでしょ」
「最初は一時的に移るって」
「だったら、戻ってくるかもしれない。転校することになっても、友達じゃなくなるわけじゃない」
真帆が右手を伸ばす。
私の手首を掴みかけて、膝の上にタマがいることを思い出したように止めた。
代わりに、制服の袖を指先でつまむ。
「勝手に私を諦めないで」
胸の奥が熱くなる。
「私、全部欲しいの」
「うん」
「タマと一緒にいたい。久世さんにも、これ以上迷惑をかけたくない。真帆とも離れたくない」
「うん」
「そんなの、欲張りすぎると思う」
「欲張っていいじゃん」
真帆は、当たり前のことのように言った。
「一つしか選んじゃ駄目なんて、誰にも言われてないでしょ」
「でも、三つの中から選べって」
「道は一つ選ぶ。でも、その先で何を大事にするかまで一つに絞らなくていい」
袖をつまむ指に、少しだけ力が入る。
「タマと一緒に学校へ行って、ちゃんと力を使えるようになる。久世さんには、逃げるんじゃなくて先生としてついてきてもらう。それで、私とも友達のままでいる」
真帆が一つずつ数えるように言った。
「全部欲しいって言っていいよ」
「そんなにうまくいくかな」
「分かんない」
すぐに返された。
「そこは、大丈夫って言ってくれるところじゃないの?」
「無責任に大丈夫って言って、駄目だったら嫌だから」
久世さんと同じようなことを言う。
思わず、少し笑った。
「でも、一つ目だけは、誰も諦めなくていい可能性が残ってる」
真帆の声が、少しだけ柔らかくなる。
「優香が怖いのは分かる。私も、知らない学校へ行けって急に言われたら怖い。でも、タマを渡したり、誰かに全部捨ててもらったりするよりはいい」
「何も犠牲にしなくていい?」
「少なくとも、誰かを犠牲にして選ぶ道じゃない」
その言葉が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。
私はずっと、何かを選ぶなら、代わりに何かを失わなければいけないと思っていた。
タマを守るなら、学校を諦める。
学校へ戻るなら、タマを諦める。
両方を望むなら、久世さんにすべてを捨ててもらう。
けれど、一つ目の道は違う。
今の学校から離れることにはなる。
怖いことも、嫌なこともきっとある。
それでも、タマはそばにいる。
久世さんも、逃げなくていい。
真帆とは、友達のままでいられる。
全部が今までどおりではなくても、全部を残そうとすることはできる。
腕の中のタマを見る。
「タマは、どうしたい?」
返ってきたのは、不安と、私を心配する気持ちだった。
自分のことより、また私のことを考えている。
「私も一緒だから」
タマの額へ、自分の額をそっとつける。
「今度は、一緒に勉強しよう」
タマが短く鳴いた。
「今、タマが鳴いた」
「何て?」
真帆が聞く。
「分からない」
「大事なところなんだから、そこは分かってよ」
「言葉じゃないから仕方ないでしょ」
タマから伝わる温かさが、少しだけ強くなった。
「でも、たぶん賛成してる」
「なら決まりだね」
「まだ相良さんに返事してないよ」
「じゃあ、今する」
真帆に促され、鞄から携帯電話を取り出す。
相良さんから渡された連絡先を表示した。
発信の印へ触れる直前で、指が止まる。
怖くないわけではない。
知らない学校も、陰陽庁も、タマがどう見られるのかも怖い。
それでも、守るためなら進める気がした。
「真帆」
「何?」
「ありがとう」
「転校しても、友達だからね」
「うん」
発信の印へ触れる。
二度目の呼び出し音で、相良さんが応えた。
「佐々木です」
タマを抱く腕に力を込める。
タマと真帆がいれば大丈夫。そう思えた。




