第25話 三つの道
◇ 佐々木優香
午後一時になる少し前、私は病院の面談室へ入った。
長机の向こうに、紺色のスーツを着た女の人が座っている。
細い銀縁の眼鏡。その奥の目が、私と、足元のタマを順番に見た。
タマが私の脚へ体を寄せる。
見えている。
そう気づいた途端、肩に力が入った。
「佐々木優香さんね。陰陽庁調査官の相良千景です」
「よろしくお願いします」
頭を下げると、タマも隣で座った。
「そちらがタマ?」
「はい」
返事をしたのは私だけだったけれど、相良さんは気にした様子もなく頷いた。
机の横には久世さんがいる。
車椅子に座り、右腕を固定具で吊っていた。左膝にも厚い装具が巻かれている。朝より顔色はよくなったと聞いていたのに、私にはそう見えなかった。
「久世さん、大丈夫ですか」
「座ってるだけならね」
「事情聴取が終わるまで、本当に座っているだけにしてもらえる?」
相良さんの声が少し低くなる。
「信用ないなあ」
「治ってもいない体で、昨日あれだけ無茶をした人を信用しろと?」
久世さんが目を逸らした。
今のは、相良さんの方が正しいと思う。
「久世には、契約と封印について補足が必要なときだけ話してもらいます」
「分かりました」
「緊張しなくていい、とは言わないわ。事実を確認するための聞き取りです。分からないことは分からないと答えて。無理に思い出す必要もありません」
相良さんが机の上の端末に触れた。
端に赤い光がともる。
「それでは、水守南高校で発生した霊障事件について、佐々木優香さんから事情を確認します」
◇
聞かれたのは、私が思っていたより普通のことだった。
いつから幽霊が見えていたのか。
タマが亡くなったのはいつか。
久世さんと出会い、使い魔の契約を結ぶまでに何があったのか。
分かる範囲で、一つずつ答えた。
タマが十年間、私の霊気を食べていたこと。
私を狙うものを、知らないところで退けてくれていたこと。
体に邪気を溜め込み、限界を迎えたこと。
そのほとんどは、久世さんと出会ってから知ったことだ。
「使い魔の契約に失敗すれば、あなたもタマと一緒に祓われる可能性があると聞いていたのね」
「はい」
「それでも契約を望んだ」
「私がお願いしました」
相良さんの指が止まる。
「久世に強制されたわけではない?」
「違います」
そこだけは、考える必要もなかった。
「私がタマを助けてほしいと言いました。久世さんは、危険なことも全部説明してくれました」
「分かったわ」
相良さんは、それ以上同じことを聞かなかった。
学校で起きたことに話が移る。
操られた生徒たちから逃げたこと。
タマと一緒に戦ったこと。
真帆を助けようとして、傷つけたこと。
そのあとの記憶は、途中から途切れている。
「気がついたときには、暗い場所にいました」
「暗い場所?」
「本当にそこにいたわけじゃないと思います。昔のことが見えて、タマと一緒に、その中へ隠れていました」
相良さんが何かを書き留める。
「外で自分が何をしていたかは?」
「分かりませんでした。久世さんの声が聞こえて、初めて外でみんなが止めてくれていることに気づきました」
「タマの意識が残っていたことは分かる?」
足元を見る。
タマが顔を上げた。
契約を通して、心配する気持ちが伝わってくる。
「はい。言葉が聞こえるわけじゃありません。でも、タマが人を傷つけないようにしていたことは分かります」
「今も、タマの感情が伝わるのね」
「大まかにです」
「タマから、あなたの感情も分かる?」
「たぶん」
タマが尻尾を一度、床へ打ちつけた。
「分かるそうです」
久世さんが小さく笑う。
相良さんも一瞬だけタマを見たが、すぐ端末へ視線を戻した。
「最後に確認します。あなたは今後、どうしたい?」
「タマと一緒にいたいです」
また、考えるより先に声が出た。
「邪気を祓えるようになって、もう暴走しないようにします。」
真帆の顔が浮かぶ。
退院したら、昼食とクレープを奢る約束をした。
教室の机も、置いたままの教科書も、昨日までと同じように私を待っている気がしていた。
相良さんは、すぐには答えなかった。
端末へ何度か触れ、赤い光を消す。
「正式な聞き取りは、ここまでよ」
張り詰めていた息を、少しだけ吐いた。
けれど相良さんは席を立たなかった。
「ここから話すことは、陰陽庁が正式に決めた処遇ではない。私が報告書と、これまでの対応から予想していることです」
声は先ほどより柔らかい。
その言葉が、安心させるためのものではないことだけは分かった。
「今までと何も変えず、タマと一緒に水守南高校へ戻る。それが認められる可能性は、ほとんどないと思って」
指先が冷たくなる。
「どうしてですか」
「昨日、学校一つを巻き込む事件が起きた。封印も傷ついている。今までどおりでいいとは、陰陽庁は判断しないわ」
「封印を直せば」
「次にあなたの力を狙うものが現れたとき、同じことが起きないと言える?」
答えられなかった。
一度目の封印も、久世さんが命を懸けて作ってくれた。
それでも私は、壊しかけた。
「私が考える限り、残る道は三つよ」
「一つ目。陰陽庁が管理する星守学園へ移る」
聞いたことのない学校だった。
「陰陽師を育てる学校よ。霊気の扱いを学ぶための設備も、封印を調べられる術者もいる。最初は一時転入になるでしょうけど、その間にあなたとタマが安全に力を扱えるか確かめる」
「タマも一緒ですか」
「封印の検査は受けてもらうし、自由に降霊することも認められない。それでも、危険がない限り引き離す必要はないと私は考えている」
今の学校から離れる。
真帆とも、毎日は会えなくなる。
けれどタマはそばにいる。
「久世さんは?」
相良さんの目が、机の横へ動く。
「久世が陰陽師として再登録されれば、正式な監督者として同行できる可能性がある。私と高城が推薦するつもりよ」
「まだ戻ると決めたわけじゃないけどね」
久世さんは軽く言ったが、相良さんは取り合わなかった。
「二つ目。今の学校を辞めて、久世と逃げる」
「え?」
「千景」
久世さんの声が低くなった。
「本人が選ぶなら、先に何があるかも伝えるべきよ」
相良さんは久世さんから目を逸らさない。
「陰陽庁の管理を拒み、タマも渡さないなら、久世はあなたたちを連れて姿を消すと思う」
「勝手に決めないでくれる?」
「では、二人が無理に引き離されても何もしない?」
久世さんは答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
「待ってください。そんなことをしたら、久世さんは」
「今度こそ陰陽庁から追われる立場になる。あなたも今の名前と生活を保ったまま学校へ通うことは難しい。住む場所を変え続け、いつ見つかるか分からない暮らしになるでしょう」
「そんなの、駄目です」
思わず立ち上がりかけ、タマが足へ触れた。
久世さんの怪我が目に入る。
私とタマを止めるために、また傷を増やした体。
これ以上、私たちのために何かを失わせるなんてできない。
「二つ目は、陰陽庁が認める選択肢ではないわ。私も勧めない。ただ、久世が同席している以上、起こり得ることとして隠すべきではないと思った」
「三つ目。タマを陰陽庁へ引き渡し、あなたは監視を受けながら今の学校へ通い続ける」
タマが私の脚から離れた。
低く身を伏せ、相良さんを見つめる。
「引き渡したら、タマはどうなるんですか」
「施設で封印し、邪気と魂の状態を調べることになる」
「いつ戻ってこられますか」
「約束はできない」
胸の奥が強く縮んだ。
「危険だと判断されたら?」
相良さんは答える前に、わずかに息を吸った。
「封印を解かず、隔離を続ける。制御できないと判断されれば、祓うべきだという意見も出るでしょう」
「そんなの選べません」
タマを抱き上げる。
腕の中へ伝わってくる不安は、私のものかタマのものか分からなかった。
「嫌です。タマを渡すくらいなら――」
逃げる。
そう言いかけて、久世さんを見た。
二つ目を選べば、久世さんまで巻き込む。
言葉が喉で止まった。
「どれも、選べません」
やっと出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
「今の学校に戻って、タマと一緒にいるだけじゃ駄目なんですか」
「それを認めてもらうには、今回のことが二度と起きないと示す必要がある。でも、今のあなたには、その方法も力もない」
冷たい言葉だった。
けれど、嘘ではなかった。
私はまだ、破邪九字を作るだけで時間がかかる。
タマと繋がる方法も、暴走してから戻る方法も、一度経験しただけだ。
それどころか、私は実際に真帆を傷つけた。
「相良さんなら、どれを選びますか」
「一つ目よ」
迷いのない答えだった。
「星守学園なら、タマと離れずに力の扱い方を学べる。危険を抑えられると示せれば、今の学校へ戻る道も残せる。三つの中では、それが一番、あなたの望みに近い」
けれど、星守学園へ行けば、タマは陰陽庁の人たちに調べられる。
腕の中にいるタマを抱く力が、少しだけ強くなった。
「陰陽庁は、どんなところなんですか」
「何が知りたい?」
「タマには、たくさんの邪気があります。それだけで危険だと決められて、祓われることはないんですか」
「力の大きさだけで判断しようとする人間はいるわ」
否定してほしかった。
けれど相良さんは、安心させるための嘘を言わなかった。
「でも、高城の報告には、タマが学校にいた人たちを守ったことも残っている。私も、それをなかったことにはさせない」
「相良さんは、陰陽庁を信用しているんですか」
「すべてを信用しているわけではない。それでも、あなたに必要な設備と術者がそろっているのは陰陽庁の側よ。タマを利用しようとする人間がいるなら、そうさせないために見張る人間も必要になる」
「相良さんが?」
「そのつもりよ」
きっぱりと言い切った。
「久世が戻るなら、久世もね」
「また勝手に決めてる」
「嫌なら早く申請書を返しなさい」
二人の間にあるものを、私はまだ知らない。
けれど相良さんが、陰陽庁の命令だけでここにいるのではないことは分かった。
「優香」
久世さんに呼ばれる。
「俺は、どれを選べとは言わない」
「でも」
「選ぶまで一人にはしない。タマから離れろとも言わないよ」
胸の奥にあった固いものが、少しだけ緩んだ。
同時に、二つ目の道が消えていないことも分かってしまった。
私が望めば、久世さんは本当に陰陽庁を敵に回すかもしれない。
そんな選び方はしたくなかった。
「いつまでに決めればいいんですか」
「明日の正午まで」
「そんなに早く?」
「明日の夕方、あなたたちの処遇を検討する会議がある。そこへ本人の希望を出すためには、それが限界よ」
腕の中で、タマが私を見上げている。
タマと離れる道。
久世さんから、今の生活まで奪ってしまう道。
真帆や、今の学校から離れる道。
どれを選んでも、昨日までと同じには戻れない。
選ばなければ、きっと誰かが代わりに選ぶ。
明日の正午までに、何を手放し、何を守るのか。
今度は私が、自分で決めなければならなかった。




