第24話 戻ってきなさい
◇ 久世朔
翌朝、久世は病院の小さな面談室にいた。
窓もない部屋には、向かい合わせに置かれた長机と、四脚の椅子しかない。
白い壁に掛かった時計の秒針が、一つ進むたびに音を立てる。
約束の時間まで、あと一分。
久世は左手で紙コップを持ち上げた。
中の水を飲もうとすると、固定された右腕がわずかに動き、肩から肘へ鈍い痛みが走る。左膝にも厚い装具が巻かれていた。立って歩くことはできるが、医師からは必要なとき以外、車椅子を使うよう言われている。
昨日の時点で帰るつもりだった。
検査結果を見た医師と看護師の二人に止められ、結局一晩入院することになった。
扉が三度、等しい間隔で叩かれた。
時計を見る。
約束の時間になったばかりだった。
「どうぞ」
扉が開く。
濃紺のスーツを着た女が、一人で入ってきた。
肩より少し長い黒髪を後ろで一つに束ね、細い銀縁の眼鏡を掛けている。左手には黒い鞄。右手には陰陽庁の紋章が入った携帯端末を持っていた。
昔と変わらず、背筋がまっすぐ伸びている。
変わったのは、目元が少し鋭くなったことくらいだ。
「ひどい顔ね、久世」
「七年ぶりに会った相手への最初の言葉が、それ?」
「仕事で来たの。再会を喜ぶのは、事情聴取が終わってからよ」
「喜んでくれるんだ」
女の眉がわずかに動いた。
「始めるわよ」
相良千景。
星守学園高等部の同級生で、三年間、久世と首席を争っていた女だ。
筆記試験では相良が勝ち、実技試験では久世が勝つ。総合順位は試験のたびに入れ替わった。
卒業後、久世は陰陽庁へ進んだ。
相良も同じだった。
七年前の事件を境に、久世だけがそこから離れた。
相良は机を挟んだ向かい側へ座り、携帯端末を置いた。
「陰陽庁調査官、相良千景。水守南高校で発生した霊障事件について、関係者である久世朔へ事情を確認します」
声から、先ほどまでの僅かな親しさが消える。
「録音と記録を行います。構わないわね」
「断ったら?」
「退院後、陰陽庁まで来てもらう。今ここで済ませたほうが、あなたも楽でしょう」
「構わないよ」
端末の端に赤い光がともった。
「まず、佐々木優香さんと使い魔タマの契約について。契約を行った術者は、あなたで間違いない?」
「間違いない」
「陰陽庁の許可も、ほかの術者による立ち会いもなかった」
「緊急時だったからね」
「理由を聞いているのではないわ。事実の確認よ」
「どちらもなかった」
相良の指が端末の上を滑る。
「契約時、タマはどの程度の邪気を保有していた?」
「正確には測れていない。正面から戦えば、俺一人では祓えない程度」
「あなたが一人で対処できない相手を、術を学んだこともない高校生の使い魔にしたの?」
責めるような声音ではなかった。
だからこそ、軽い返事はできなかった。
「あの場では、それしか二人を残す方法がなかった。失敗した場合に備えて、二人ごと祓う陣も組んでいた」
相良の指が止まった。
「佐々木さん本人にも、その可能性を伝えた?」
「伝えた」
「それでも、本人が望んだ」
「うん」
短い沈黙が落ちた。
相良は何かを言いかけ、口を閉じた。
再び端末へ目を落とす。
「契約後、あなたが佐々木さんへ術を教えていたのね」
「基礎だけだよ。霊気の制御と身体強化、破邪九字。タマの邪気を祓う練習が中心だった」
「無登録の陰陽師が、陰陽庁へ届け出ずに未成年者を弟子として指導した」
「そう書いてくれていい」
「あなたは、すぐ自分の責任にすれば話が終わると思っているところがあるわね」
久世は相良を見た。
相良も端末から顔を上げていた。
「事実でしょう」
「今は責任の押しつけ先を探しているのではない。次に同じことが起きる可能性と、それを防ぐ方法を調べているの」
「分かってるよ」
相良の視線が、固定された右腕から左膝へ落ちた。
「なら、自分が倒れた場合も考えなさい。その怪我で学校へ駆けつけて、結局また入院しているでしょう」
「それは事件の調査と関係ある?」
「あるわ。あなたが今後も二人の監督をするつもりなら、自分の体を使い潰す人間に任せてよいのかも判断材料になる」
反論しようとして、やめた。
正しい。
相良は昔から、正しいところを容赦なく突いてくる。
「学校で佐々木さんが行った部分降霊は、あなたが教えたもの?」
「基礎までは教えた。契約を通して、タマと感覚を重ねるところまでね。でも昨日は、教えた段階を越えて二人が深く繋がりすぎた。あそこまでタマの力を体へ引き出させるつもりはなかった」
「本人たちが、追い詰められて使った」
「俺たちの降霊を見ていたから、形だけ真似たんだと思う。やり方は全く違ったけど」
「違いは?」
「俺は相手の力を自分の体へ借りる。優香とタマは、二人の間にある境目を薄くして、一緒に体を動かしていた」
「だから、使い魔の邪気まで佐々木さんへ流れ込んだ」
「うん」
相良はしばらく黙って入力を続けた。
「高城からの報告では、五本の尾が現れたあとも、タマは人間への攻撃を逸らしていたとある」
「タマは最後まで意識を失っていない。暴走した力を止めることはできなくても、向きを変え続けていた」
「佐々木さんは、あなたの呼びかけに応じて意識を取り戻した。その後、二人で邪気を封印へ戻した」
「俺と玄斎も手伝った。一人でできたとは書かないで」
「そこまで含めて記録されているわ」
相良の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「誰も死ななかった。一番大きな怪我をしたのも、額を切った友人一人だけ。あの規模の力が校内で暴れた結果としては、奇跡に近い」
「奇跡にしておくつもりはないよ」
「次は制御できるようにする?」
「次を起こさないようにする。そのために封印を直して、二人に扱い方を教える」
「今のあなたに、それをする資格はない」
久世は黙った。
相良は感情を交えず、事実だけを告げていた。
「あなたは陰陽庁を離れた時点で、正式な陰陽師としての登録を失っている。佐々木さんを弟子として届け出ることも、危険性のある使い魔の監督者になることもできない」
「だから、二人を俺から離す?」
「まだ何も決まっていない」
「候補は」
「まずは陰陽庁の施設で二人を保護し、佐々木さんの霊気とタマの封印を検査する。安全性が確認されるまで、外出も降霊も禁止。危険性を抑えられると判断されて初めて、星守学園への一時転入が候補になる。できないと判断されれば、施設での監視を続けることになる」
「保護、ね」
久世の声から、軽さが消えた。
「檻に入れて調べて、危険ならそのまま閉じ込める。使えると分かれば学校へ移して、あの力を陰陽庁の戦力にする。ずいぶん都合のいい話だ」
「そう考える人間がいないとは言わない」
「否定しないんだ」
「できないもの。あれほどの霊気を見れば、管理するだけでなく、利用しようと考える者も出る」
「だから、優香を渡すつもりはない」
「あなたが決めることではないわ」
「本人の希望を聞かずに連れていくなら、俺は止める」
「決定事項ではないと言っているでしょう。今日は本人からも話を聞く。佐々木さんの意思も、私が責任を持って報告する」
相良の声が鋭くなる。
「ただし、すぐに元の生活へ戻せるとも思わないで。彼女の友人は怪我をした。校舎は壊れ、大勢が救急搬送された。悪霊が原因だったとしても、彼女の力を狙うものが今後も現れないとは言えない」
二人の視線が机の上でぶつかる。
先に息を吐いたのは、相良だった。
「相変わらずね」
「千景もね」
名前で呼ぶと、相良の目が僅かに揺れた。
すぐに厳しい表情へ戻る。
「事情聴取は、ここまで。ここからは録音しない」
端末の赤い光が消えた。
相良は黒い鞄を開き、中から薄い紙の束を取り出した。
机の上を滑らせ、久世の前へ置く。
一枚目の上部には、陰陽師再登録申請書と印刷されていた。
「戻ってきなさい、久世朔」
「ずいぶん急だね」
「急ではないわ。七年待った」
相良が言葉を止めた。
「陰陽庁が、あなたほどの術者を七年も放置していたという意味よ」
「そういうことにしておくよ」
「その顔、やめなさい」
相良の指が机を一度叩いた。
「あなたが戻れば、佐々木さんの指導者として正式に届け出られる。タマの封印を組んだ術者として、修復と経過観察にも関われるわ」
「俺が戻れば、優香を利用させずに済む?」
「そんな約束はできない」
久世は再登録申請書から手を離した。
「再登録は、あなたが無許可でしてきたことを帳消しにする免罪符でも、佐々木さんの安全と引き換える取引材料でもないわ」
相良は久世の目を正面から見た。
「それでも、あなたが正式な監督者になれば、二人の処遇を決める場で意見を言える」
「あなたが陰陽庁を信用していないことは知っている。信用しろとも言わない」
「七年前のことを、忘れたわけじゃないんだ」
「忘れたことなんて、一度もない」
相良の答えに迷いはなかった。
「あの任務の記録は読んだ。全部終わったあとだったけれど、あなたが何も知らないまま、あの場所を守らされていたことも知っている」
「俺が知ったのは、儀式の当日だ」
久世の脳裏に、小さな背中が浮かんだ。
学校へ行ったことのないすずへ贈った、真新しいランドセル。儀式が終われば使えると思っていた。すずは翌日に死ぬと知りながら、嬉しそうにそれを背負った。
「すずは、名誉なことだって笑ったよ。ほかの生き方を何も知らないまま」
固定された右手に、無意識に力が入る。
「陰陽庁は知っていて、俺にあの儀式を守らせた」
「ええ」
「止めようとして、間に合わなかった。最後には死んだあの子を降ろして、俺が龍脈を押さえた。書類の上では、それで事件は収束だ」
「私も、あれで解決したとは思っていない」
「何と呼んでも同じだよ。すずは戻らない」
面談室から、時計の音まで消えたように感じた。
「その陰陽庁へ戻って、今度は優香を差し出せって?」
「差し出せとは言っていない」
相良の声にも、もう先ほどまでの硬さはなかった。
「あなたの言うとおり、佐々木さんの力を利用しようとする人間はいる。七年前と同じ理屈を使う者も」
相良は再登録申請書を久世の前へ押し戻した。
「だから、同じことを繰り返させないために戻ってきてほしいの」
「中に戻れば、止められるって?」
「少なくとも、すべてを決められたあとに知ることはなくなる。佐々木さんの今後を決める場に、今のあなたの席はないわ」
反論できなかった。
高城が報告書へどれほど正確に事実を書いても、その先で判断する人間を選ぶことはできない。
「変わっていない部分があるなら、中へ入って変えればいい。少なくとも、私はそのために残った」
「一人で?」
「一人ではないわ。高城も、二人を守るためなら力を貸してくれる。口に出さないだけで、七年前の判断を間違いだったと思っている者もいる」
相良は再登録申請書へ目を落とした。
「それに、私はまだ、あなたに腹を立てている」
「七年前のこと?」
「そのあとよ。何も言わずに姿を消したでしょう」
久世は口を閉じた。
「陰陽庁を離れたと知ったのも、あなたからじゃなかった」
「言えば止めただろ」
「止めたわよ」
「だから言わなかった」
「そういうところに腹が立つと言っているの」
相良が睨む。
その目が、学生のころと同じものに見えた。
「勝手に決めて、勝手にいなくなって。私が何も言わないと思った?」
「今、十分言われてる」
「七年分には足りないわ」
言い切ったあと、相良が口を閉じた。
視線が、机の端へ逃げる。
「……とにかく、あなたを野放しにしておくのは不愉快なの」
「随分、個人的な理由だね」
「仕事としても必要よ。あなたの降霊術と、今回の事件で果たした役割は評価されている。処分なしとはいかないでしょうけど、私と高城が推薦すれば再登録の審査は受けられる」
久世は紙の束へ左手を置いた。
すぐに署名するつもりはない。
陰陽庁が変わったとも思っていない。
それでも、優香とタマを守るために必要なものが、ないことも分かっていた。
「考えるよ」
「今すぐ決めろとは言わない」
相良は立ち上がり、黒い鞄を持った。
「午後一時に、佐々木さんから話を聞く。タマと封印の状態も、その場で確認する。あなたにも同席を認めるわ」
「認めてくれるんだ」
「契約と封印については、術者であるあなたの説明が必要だからよ」
「ありがとう、千景」
「仕事だと言っているでしょう」
相良は扉へ向かった。
取っ手へ手をかけたところで、一度だけ足を止める。
「遅れないで。昔から、あなたを待つのは嫌いなの」
振り返らずに言い残し、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
机の上には、再登録申請書が残されていた。
紙をめくる。
推薦者の欄には、相良千景の名前が既に書かれていた。




