第23話 見えないものの話
◇ 佐々木優香
病室の前まで来てから、足が止まった。
白い引き戸の横に、真帆の名前がある。
何度確かめても、見間違いではなかった。
消毒液の匂いがする廊下を、白い服を着た人たちが忙しそうに行き来している。遠くで台車の車輪が鳴り、どこかの部屋から小さな子どもの泣き声が聞こえた。
私は、自分の右手を見下ろした。
指を握り込む。
それだけで、真帆へ霊気を放った瞬間が蘇った。
邪気との繋がりを断った手応え。
その直後、止めきれなかった霊気が真帆の左肩へぶつかった。
金属へ体を打ちつける、鈍い音。
足元にいたタマが、私の踵へ額をつけた。
顔を上げると、廊下の壁際に久世さんがいた。
右腕を新しい固定具で吊り、左脚を庇いながら長椅子に座っている。診察を終えたばかりなのに、休むよう言った看護師さんの目を盗んでここまで来たらしい。
「入らないの?」
「……何を言えばいいのか、分からなくて」
「言うことは決めてたんじゃない?」
決めていた。
真帆が目を覚ましたら、本当のことを話す。
もう何も隠さない。
救急車の中でも、診察を待つ間も、そう考えていた。
けれど扉一枚の向こうに真帆がいると思うと、決めたはずの言葉が喉から出てこない。
「嫌われるかもしれません」
「うん」
久世さんは、今回も否定しなかった。
「怖がられるかもしれないし、すぐには信じてもらえないかもしれない」
「少しくらい、大丈夫だって言ってくれてもいいと思います」
「俺が決めることじゃないからね」
分かっている。
中へ入らなければ、真帆の答えは聞けない。
タマがもう一度、踵へ額を押しつけた。
胸の奥から伝わってくるものも、私と同じように震えている。
タマも怖いのだ。
自分たちが傷つけた真帆と、顔を合わせることが。
「行ってきます」
「うん。ここにいるよ」
取っ手へ手をかけた。
指に力を入れる。
扉を開けるだけなのに、採石場で結界の中へ踏み込んだときより勇気が必要だった。
◇
真帆は、起きていた。
少し上げられたベッドの上で、窓の外を見ている。
額の左側には白いガーゼが貼られ、左腕は肩を動かさないよう布で吊られていた。
その姿を見た途端、指先から血の気が引いた。
真帆がこちらを向く。
「優香」
いつもと同じ呼び方だった。
「入っていい?」
「もう入ってるじゃん」
扉から片足だけ病室へ入れていた。
慌てて廊下へ戻ろうとすると、真帆が右手を上げた。
「そういう意味じゃないって。閉めて」
「う、うん」
病室には真帆しかいなかった。
家族は医師から検査の説明を聞いているらしい。戻るまでなら二人で話せると、廊下にいた看護師さんから聞いていた。
タマも一緒に中へ入る。
けれど、真帆のベッドには近づかなかった。閉めた扉のすぐそばに座り、前脚を揃えて真帆を見ている。
私はベッドの横にある椅子へ腰を下ろした。
「怪我は……」
「頭は三針。肩は骨に異常ないって。すごく痛いけど」
真帆は吊られた左腕を見下ろした。
「頭を打ってるから、今日は泊まって様子を見るって。優香は?」
「私は、怪我はなかった」
「そっか。よかった」
迷いなく返ってきた言葉が、胸へ刺さった。
よくない。
真帆をこんな姿にした私だけが、何もなかったはずがない。
「学校、すごいことになってるんだってね」
真帆は私の顔を見たまま続けた。
「ガスが漏れて、みんな気を失ったところに設備まで壊れたって聞いた。私、優香から教室に来てって連絡をもらったところまでは覚えてるんだけど、その先が全然分からなくて」
「その連絡、私が送ったんじゃない」
真帆の表情が止まった。
「え?」
「携帯を奪われてたの。真帆を学校の中へ呼んだのは、私じゃない」
「奪われたって、誰に?」
答えようとして、唇が動かなかった。
扉の前にいるタマを見る。
真帆の視線が、私の顔から同じ場所へ動いた。
そこには、真帆に見えるものは何もない。
「優香」
さっきより静かな声だった。
「そこに、何かいる?」
心臓が大きく跳ねた。
「どうして……」
「やっぱり、いるんだ」
真帆は扉の前を見つめている。
「前から時々、誰もいないところを見てたから。廊下ですれ違うとき、急に道を空けたり。話してる途中で、足元に何かいるみたいに笑ったり」
そんなことをしていたとは、自分では気づいていなかった。
「今日だけじゃない。さっき病室へ入ってきたときも、後ろにいる誰かを待ってた」
何も見えていないはずの真帆と、タマの目が合っている。
「ずっと、気のせいだと思ってた。でも今の優香を見てたら、違うのかなって」
逃げ道は、まだあった。
昔からの癖だと言えばいい。
疲れているのだと笑えば、真帆もそれ以上は聞かないかもしれない。
真帆は、私が話したくないことを無理に聞こうとはしない。
その優しさに、私は何度も甘えてきた。
膝の上で両手を握る。
「私、幽霊が見えるの」
声は震えた。
けれど、今度は止めなかった。
「小さいころから、死んだ人や、人ではないものが見える。扉の前にいるのはタマ。十年前に死んだ、私の飼い猫」
真帆はすぐには何も言わなかった。
扉の前へ目を凝らしている。
「猫が、いるの?」
「三毛猫。今は座って、真帆を見てる」
「私には全然見えない」
「うん」
「触れる?」
「たぶん、今の真帆には無理だと思う」
「そっか」
真帆の右手が、掛け布団を強く掴んだ。
怖くないはずがない。
見えないものが同じ部屋にいると言われたのだ。
それでも真帆は、私から目を逸らさなかった。
「学校にいたのも、幽霊?」
「悪霊だった」
真帆の指へ、さらに力が入る。
「人に取り憑いて、体を動かしてた。校舎にいた人たちが気を失ったのも、その悪霊のせい。真帆も取り憑かれて、私を襲った」
「私が?」
「真帆のせいじゃない」
すぐに言った。
「意識がないまま、体を使われてたの。覚えてないのは、そのせいだと思う」
「じゃあ、この怪我は?」
聞かれると分かっていた。
それを話すために来た。
それなのに、視線を上げられない。
「私がやった」
掛け布団を掴んでいた真帆の指が止まった。
「悪霊と真帆を繋いでいたものを、私が切ったの。そのとき、力を止めきれなくて、真帆の肩にぶつけた。下駄箱に倒れて、頭をぶつけたのも、それが原因」
白いシーツの上へ、涙が一滴落ちた。
「ごめんなさい」
もう一滴、落ちる。
「助けるつもりだった。でも、私が下手だったから。もっとちゃんと力を扱えていたら、真帆は怪我をしなかった」
「優香、顔を上げて」
上げられなかった。
「まだあるの。真帆が血を流してるのを見て、私、自分の力を抑えられなくなった。学校が壊れたのも、一部は私とタマのせい。周りにいた人たちを傷つけるところだった」
「傷つけたの?」
「タマが止めてくれた。久世さんたちも来てくれたから、ほかの人は傷つけずに済んだ。でも、次も止められるとは言えない」
自分で口にすると、恐ろしさが形になった。
私は真帆を傷つけた。
それだけでは終わらず、もっと多くの人を傷つけかけた。
「だから、私の近くにいると、また危ないことがあるかもしれない」
これを言えば、真帆は離れていくかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥で冷たいものが動いた。
タマが低く鳴く。
すぐに息を吸い、膝の上の手を開いた。
今は封印されている。
怖さに任せて押さえつけず、そこにあることだけを確かめる。
冷たさは、それ以上広がらなかった。
真帆が、ゆっくり息を吐いた。
「正直に言っていい?」
「うん」
「まだ、全部は信じられない」
胸が痛んだ。
けれど、頷いた。
「目に見えない猫がいて、悪霊に操られて、その優香が不思議な力で私を助けたって、急に言われても分からない」
「うん」
「怖くないかって言われたら、ちょっと怖い。自分が覚えてない間に何をしてたのかも、優香にどんな力があるのかも分からないから」
「……うん」
想像していた言葉と同じはずなのに、真帆の声は違って聞こえた。
私を遠ざけるためではなく、分からないことを分からないまま話している。
「でもね」
真帆が、右手で私の制服の袖を掴んだ。
「優香が、私を怪我させたくてやったんじゃないことは分かる」
「でも、私が――」
「優香が悪霊から助けようとしてくれなかったら、私はどうなってたの?」
答えられなかった。
悪霊は、私の霊気を奪うために真帆を使った。
用が済んだあと、素直に開放するとは思えない。
「怪我が痛くないわけじゃないし、なかったことにもできないよ」
真帆が、吊られた左腕へ目を向ける。
「でも、助けようとして失敗したことと、最初から私を傷つけようとしたことは同じじゃない。全部自分のせいみたいに言うのは違うと思う」
「私、真帆に嫌われると思ってた」
「それは、ちょっと怒ってる」
顔を上げた。
真帆は怒った顔を作ろうとして、額の傷が痛んだのか、すぐに眉を下げた。
「私がどう思うか、勝手に決めたでしょ」
「ごめん」
「話せなかったことは、仕方ないと思う。こんな話、簡単にできないだろうし。でも、何も聞かないうちから私が優香を嫌うって決められるのは嫌」
「……うん」
「信じられるかも、怖いかも、私が決める」
真帆の指が、私の袖から離れた。
拒まれたのだと思うより早く、その手が私の前へ差し出された。
「だから、まだ話してないことも教えて」
「たくさんあるよ」
「今日だけで全部聞いたら、頭の傷より先に頭が痛くなりそう。少しずつでいい」
差し出された手を握る。
温かかった。
「分かった」
「それで、タマはまだ扉の前?」
振り返る。
タマは同じ場所に座ったまま、こちらを見ていた。
「うん。真帆を怪我させたのは自分のせいでもあると思ってる」
「似たもの同士だね」
「そんなことない」
否定すると、真帆が少しだけ笑った。
その笑顔を見て、ようやく息ができた。
「こっちに来てもらって」
「でも」
「見えないんだから、近くに来てくれないと挨拶もできないでしょ」
タマを見る。
「タマ」
呼ぶと、タマは立ち上がった。
迷うように一度足を止めてから、音もなくベッドへ飛び乗る。真帆の傷ついた左側を避け、右手のそばへ座った。
「来たよ」
真帆が何もないシーツの上へ右手を置く。
その指先へ、タマがそっと鼻を寄せた。
触れることはできない。
真帆の手は、タマの顔を通り抜けてシーツへ沈んだ。
それでもタマは逃げなかった。
「初めまして、タマ。真帆です」
タマが短く鳴いた。
「今、鳴いた」
「何て?」
「タマは人の言葉を話せないよ」
「じゃあ、今の返事?」
「たぶん」
「そこは飼い主なんだから分かってよ」
「鳴き声だけで全部は分からないよ」
「幽霊の猫なのに?」
「幽霊になっても、タマはタマだから」
いつものように言い返してから、気づいた。
私は、真帆とタマの話をしている。
ずっと隠してきた、大切な家族のことを。
「あのね、真帆」
「何?」
「話を聞いてくれて、ありがとう」
真帆は少し考えてから、何もいないように見える右手の隣を軽く叩いた。
「お礼は、退院したらお昼を奢って。今日の約束、まだ果たしてもらってないから」
「真帆を学校に呼んだのは、悪霊だけど」
「最初にお昼を約束したのは優香でしょ」
「……何が食べたい?」
「クレープ」
「お昼じゃないよ」
「じゃあ、お昼のあとにクレープ」
「増えてる」
真帆が笑う。
タマが、真帆の右手に見えない額を押しつけた。
怖さは、まだ消えていない。
真帆が本当はどう思っているのか、不安になる気持ちもすぐにはなくならない。
それでも、今聞こえた言葉は私の中で作ったものではなかった。
目の前にいる真帆が、自分で選び、私へ伝えてくれた答えだった。
「そういえば、さっき廊下にいた人は?」
「久世さん。陰陽師で、私の師匠」
「師匠ねえ」
「何?」
「ずっと廊下で待ってるし、優香が入ってくる時随分心配そうに見てたから」
「弟子だから心配してくれてるだけだよ」
「本当にそれだけ?」
「それ以外に何があるの?」
真帆が意味ありげに笑った。
何を言いたいのか分かり、顔が熱くなる。
「違うから! 久世さんとは、そういうんじゃないから!」
扉の向こうから、大きな咳払いが聞こえた。
「聞こえたみたい」
「真帆!」
真帆が額の傷を庇いながら、楽しそうに笑った。
恥ずかしくて仕方なかった。
それでもつられて、私も笑った。




