第21話 一緒に
◇ 佐々木優香
握った光の糸を、もう一度引いた。
暗闇に細い亀裂が走る。
向こう側から白い光が差し込み、黒い靄を切り裂いた。
音が戻ってくる。
何かが激しくぶつかる音。
軋み続ける結界。
私の名前を呼ぶ、久世さんの声。
瞼を開いた。
結界に囲まれた校庭が見えた。
地面へついた膝が痛い。冷たいものが皮膚の下を走り、胸の奥では熱いものが暴れている。
息を吸っただけで、全身が内側から引き裂かれそうになった。
「っ……」
背後で何かが膨らむ。
振り返るより先に、巨大な尾が頭上を通り過ぎた。白い結界へ叩きつけられ、校庭の空気を大きく揺らす。
私の体から伸びていた。
一本ではない。
二本、三本、四本。
その向こうで、五本目が結界を押し広げている。
「止まって!」
叫んだ。
尾は止まらなかった。
止めようと力を込めた瞬間、五本すべてがさらに大きく膨れた。
正面の結界に亀裂が走る。
「優香、急に押さえつけないで!」
久世さんの声が、耳元と光の糸から同時に届いた。
結界の外に、久世さんが立っている。
顔色が悪い。右腕を体へ寄せ、左手だけをこちらへ伸ばしている。その指先から、私が握っているものと同じ細い光が続いていた。
「目は覚めてる?」
「はい……でも、止まりません」
喉から出たのは、自分のものとは思えないほど掠れた声だった。
「君一人で全部押さえようとしないで」
尾がまた結界へぶつかる。
玄斎さんが両手を握り込み、亀裂へ札を飛ばした。さつきさんの髑髏が結界の外へ重なり、漏れ出しかけた力を受け止める。
みんなが、私を押さえるために力を使っている。
少し離れた場所に、先生がいた。
地面へ膝をつき、誰かの頭へ布を押し当てている。
先生の腕の間から、真帆の髪が見えた。
「真帆」
立とうとした。
足に力が入るより早く、尾の一本が真帆のいる方角へ振り上がる。
「駄目!」
黒い尾の先が震えた。
真帆の前にある結界へ落ちる直前で横へ逸れ、反対側の地面を抉った。
胸の奥から、痛みが流れ込んでくる。
苦しい。
怖い。
それでも傷つけたくない。
タマの感情だった。
意識を取り戻した今なら分かる。
私の中で、タマはまだ尾を人から逸らし続けている。
「タマ」
呼びかけると、弱い返事が胸の奥へ触れた。
すぐそばにいる。
けれど、普段のような一つの気配ではなかった。タマの邪気は全身に散り、私の霊気と絡まり合っている。
「久世さん。どうすればいいですか」
「目を閉じて。契約だけを見て」
言われたとおり、校庭から意識を離した。
暗闇の中央に、タマがいた。
四本の足を踏ん張り、首を低くしている。
その足元を、赤い文字が並んだ白い円が囲んでいた。円の一部は裂け、周囲の文字も半分ほど黒く消えている。
タマの体から伸びた五本の太い黒い筋が、その裂け目を通って円の外へ溢れている。黒い筋は私の体を通り、背中から伸びる五本の尾へ一本ずつ繋がっていた。
久世さんの細い光は、白い円の裂け目へ結びついている。今にも広がりそうな裂け目を、外側から押さえていた。
「見えました。タマと、五本の黒い筋が」
「タマに、その筋を一本ずつタマの体に戻してもらう。君は戻した分がまた広がらないよう、霊気で輪を作って囲う」
「久世さんは?」
「俺は封印の裂け目を支える。黒い筋を、そこへ戻すんだ」
誰が何をするのかは分かった。
けれど、五本の黒い筋はタマの体よりも太い。表面からは絶えず靄が剥がれ、私の手足へ広がり続けていた。
「タマ一人で、戻せるんですか」
「戻すのはタマ一人じゃない。君も契約で繋がってる」
タマへ手を伸ばす。
触れた途端、強い拒絶が返ってきた。
私を暗闇の外へ押し出そうとしている。
危ないから、自分だけが残るつもりなのだ。
「それは駄目」
また拒絶が返ってくる。
「一人でやらないって決めたでしょう」
言葉がそのまま伝わったわけではない。
それでも、離れないという私の気持ちは契約を通して届いた。
タマの気配が揺れる。
「一緒に戻ろう」
しばらくして、タマが五本目の尾へ繋がる黒い筋へ牙を立てた。
体ごと後ろへ下がり、黒い筋を円の内側へ引く。
黒い筋はわずかに動いたが、すぐに外へ引き戻された。
タマの前脚が滑り、体が裂け目へ引きずられる。
「待って!」
反射的に霊気を放った。
白い力が黒い筋へ正面からぶつかる。
激しい反発が起きた。
胸の内側で何かが弾け、五本の尾が同時に結界を叩く。
「押さえつけない!」
久世さんの声が飛ぶ。
「邪気へ霊気を当てたら反発する。一本だけ選んで、その周りに輪を作るんだ」
「この太さを、私の霊気で?」
「糸一本分だけ、練習を思い出して」
紙を浮かせようとして、部屋中に飛ばした日のことを思い出した。
見るのは五本の尾ではない。
タマが牙を立てている、一本だけ。
胸の奥から霊気を引き出す。
細く。
もっと細く。
白い糸を、黒い筋へ触れないように一周させる。
両端を繋ぐ前に、糸が千切れた。
輪の隙間から黒い靄が溢れ、私の左肩へ入り込む。
「もう一度」
タマは引くのをやめ、私を待ってくれた。
同じ場所へ白い糸を回す。
今度は両端が繋がった。
黒い筋の周りに、細い輪が一つできる。
「できました」
「タマに引いてもらって。君はその輪を、封印の方へ滑らせる」
タマが黒い筋を引く。
私は白い輪を、赤い文字が並ぶ円の裂け目へ少しずつ近づけた。
輪を通った黒い筋は細くまとまり、靄を出さなくなる。
久世さんの光が、封印の裂け目を一本分だけ開けて待っている。
タマが引く。
私が輪を動かす。
黒い筋の先が裂け目を通り、封印の内側へ消えた。
外にある五本目の尾が、先端から細くなった。
できる。
そう思って目を開けると、視界の端に真帆が映った。
先生が名前を呼んでいる。
真帆は動かない。
胸の奥で、また私の声がした。
『目を覚ましたら、お前を嫌う』
霊気の輪が歪んだ。
封印へ入りかけていた黒い筋が太さを取り戻し、タマを押し返した。
「優香!」
久世さんの声に、辛うじて線を繋ぎ止めた。
「怖いです」
声が震えた。
「友達に嫌われるのが、怖い」
久世さんは、すぐに大丈夫だとは言わなかった。
「その子に、嫌いだって言われた?」
「……言われてません」
「じゃあ、今ここで決めない」
久世さんの左手が震えている。
それでも、私へ続く糸を離さない。
「答えは、その子が目を覚ましてから聞けばいい。今はタマと一緒に戻ることだけ考えて」
怖さは消えなかった。
真帆が私を見て顔を強張らせる姿も、頭から離れない。
それでも、それはまだ起きていない。
目を閉じ直し、契約の内側にある白い輪へ意識を戻した。
「タマ。もう一度」
歪んだ白い輪を作り直す。
タマが黒い筋を引き、私は輪を封印へ向かって滑らせる。久世さんの光は、裂け目が広がらないよう両端を支えている。
黒い筋が裂け目を通り、封印の内側へすべて収まった。
外に残っていた五本目の尾が、根元まで細くなって消える。
尾を形作っていた白い霊気は光の粒にほどけ、私の胸へ戻ってきた。
次に、タマは四本目の尾へ繋がる黒い筋へ牙を立てた。
同じ場所へ白い輪を作る。
タマが引く。
私が輪を動かす。
久世さんが裂け目を支える。
四本目の尾も、少しずつ短くなっていった。
三本目に繋がる筋を引いたとき、外で尾が大きく膨らんだ。さつきさんの髑髏の顎へ食い込み、結界を軋ませる。
タマが尾を人のいない上空へ逸らす。
その間に白い輪を封印まで動かし、黒い筋を裂け目の内側へ押し込んだ。
二本目も同じ手順で、時間をかけて戻した。
尾が一本ずつ減るたび、体の中の冷たさも薄くなっていった。
黒い邪気はタマの封印へ、尾を形作っていた白い霊気は私の中へ戻っていく。
代わりに、タマの疲れがはっきり伝わってくる。
一本目の尾へ繋がる黒い筋だけが残った。
ほかの四本よりも太く、表面から黒い靄を噴き出している。
タマが牙を立て、四本の足で踏ん張った。
黒い筋は動かない。
私が作った白い輪も、外へ広がる力に押されて形を失いかけた。
「久世さん」
「分かってる」
封印の裂け目を押さえていた光が、少しだけ太くなる。
消えかけていた赤い文字が再び光り、裂け目が黒い筋一本分の幅で止まった。
「今だよ」
「タマ!」
タマが黒い筋を引く。
私は崩れかけた白い輪を繋ぎ直し、封印へ向かって動かした。
外では、結界を押していた最後の尾が先端から崩れていく。
黒い靄が筋へ戻り、私の輪の中へ収まった。
胸の奥に、真帆の血と、道路で動かなくなったタマが浮かんだ。
怖い。
また失うかもしれない。
それでも、白い輪から意識を逸らさなかった。
タマと一緒に黒い筋を引く。
久世さんが支える裂け目へ、白い輪を押し進める。
黒い筋の端が裂け目の内側へ消えた。
外へ溢れていた最後の邪気まで、封印の内側へ戻る。
赤い文字が、不揃いに光る。
裂け目は細い傷を残したまま閉じた。
目を開けた。
校庭を覆っていた重さが、急に消えた。
逆立っていた髪が肩へ落ちる。
頭にあった猫の耳も、光の粒になって消えていった。
白い光が胸の奥から抜け、小さな三毛猫の姿を結ぶ。
タマは足をつこうとしたが、前脚から力が抜けて体が傾いた。
地面へ倒れる前に抱き止める。
「タマ」
腕の中の体は冷たく、いつもより薄かった。
それでも、緑色の目が開く。
か細い声で、一度だけ鳴いた。
「ありがとう」
タマが、私の胸へ額を押しつけた。
周囲を囲んでいた結界の一部が、ゆっくりと開く。
久世さんが近づいてきた。
「よく戻ってきた」
「真帆は」
「息はある。先生が出血を押さえてる。学校全体を覆う結界を解いたら、すぐに手当てしてもらう」
真帆を見る。
まだ目は閉じたままだった。
起きたら、何を言われるのか分からない。
私のことを知って、それでも隣にいてくれるのかも分からない。
怖かった。
それでも今度は、目を逸らさなかった。




