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第20話 目を閉じて

     ◇ 佐々木優香


 教室が見えた。


 今の教室ではない。


 黒板の端が欠け、窓際に色褪せたカーテンが掛かっている。並んだ机の形も、着ている制服も、もう使わなくなったものだった。


「四人の班を作って」


 先生の声がする。


 一斉に椅子を引く音が響いた。


 私の周りだけを避けるように、机が動いていく。


 目の前にいた女の子と視線が合った。


 すぐに逸らされた。


「佐々木さん、こっちに入れてあげて」


 先生に言われた一人が、嫌そうな顔を隠しながら机を空ける。


「……いいよ」


 入れてあげる。


 その言葉が、教室のあちこちから小さな笑いを呼んだ。


 景色が揺れる。


 次に見えたのは、放課後の階段だった。


 踊り場の窓に、知らない女の人が映っている。


 首を不自然に傾け、誰もいない廊下を見つめていた。


 私の隣には、仲がいいと思っていた女の子がいる。


『本当に、誰にも言わない?』


『言わないよ。私たち、友達でしょう』


 そう言われたから、話した。


 昔から幽霊が見えること。


 階段の踊り場にも、今、一人いること。


 女の子は怖がらずに聞いてくれた。


 初めて信じてもらえたと思った。


 翌日、教室へ入ろうとしたところで、自分の名前が聞こえた。


『佐々木さんって、本当に幽霊が見えるって言うんだよ』


『本気で?』


『うん。昨日、ずっとその話を聞かされて。気味悪かった』


 笑っている声は、昨日まで友達だと思っていた子のものだった。


『だから、いつも一人なんじゃない?』


 扉へ伸ばした手が動かなくなった。


 教室の中で笑い声が重なる。


 気づけば、私は床へ座り込んでいた。


 腕の中に、タマがいる。


 小さな三毛猫の体を胸へ抱き寄せ、黒と茶色の毛並みに顔を埋めた。


「見なくていいよね」


 答える代わりに、タマが私の顎へ額を押しつける。


 冷たい。


 けれど、よく知っている冷たさだった。


 強く抱きしめると、教室の輪郭が薄くなる。


 笑い声も遠ざかっていく。


 このまま目を閉じていればいい。


 何も見なければ、傷つかなくて済む。


 線香の匂いがした。


 閉じた瞼の裏へ、黒い服を着た大人たちが現れる。


 正面には白い花に囲まれた写真があった。


 写真の中で、父が笑っている。


 一度瞬きをすると、同じ場所に母の写真があった。


『つらいだろうけど、しっかりしないとね』


『優香ちゃんは強い子だから』


 頭の上から降ってくる声に、何度も頷いた。


 泣けば困らせると思った。


 大丈夫だと言えば、みんな安心した顔をした。


 黒い服も、白い花も消える。


 夜の家に、私だけが残った。


 玄関で「ただいま」と言っても、返事はない。


 食卓には一人分の皿しかない。


 電気を消した部屋の隅で、小さな鈴が鳴った。


 タマだけが来てくれた。


 膝へ乗り、声を殺して泣く私の頬を舐めてくれた。


 腕の中のタマを、さらに強く抱きしめる。


「ずっと、一緒にいて」


 景色がまた変わった。


 車の警笛が鳴る。


 夕方の交差点。


 道路へ飛び出した、小さなころの私がいる。


 後ろから鈴の音が追いかけてきた。


 振り返る。


 タマが道路へ飛び込んでくる。


 眩しい光が迫った。


 ブレーキの音。


 何かがぶつかる、鈍い音。


 私の目の前を、三毛色の小さな体が横切った。


「やめて」


 両耳を塞ぐ。


 それでも音は消えない。


 道路の上で、タマは動かなかった。


 名前を呼んでも、尻尾さえ揺れなかった。


『お前が飛び出したからだ』


 私の声がする。


 口は閉じたままなのに、責める言葉だけが頭の中で響いていた。


『お前が殺した』


「違う」


 否定した声は震えていた。


 違わない。


 私が道路へ出なければ、タマは追いかけてこなかった。


 そう考えた途端、足元の黒い靄が膨れ上がった。


 腕の中のタマが身をよじり、私の頬を舐める。


 違うと伝えるように、何度も。


「ごめんね」


 タマの首へ顔を押しつける。


「もう見たくない」


 暗闇の中で、何かが落ちた。


 軽い袋の音がする。


 足元に、クリームパンが転がっていた。


『また買えなかったの?』


 顔を上げると、真帆がいた。


 今の学校の教室で、呆れた顔をしながらパンを差し出している。


『今日は、昼休みになってすぐ行ったよ』


『優香の「すぐ」は遅いんだって』


『廊下は走っちゃ駄目でしょ』


『誰も走れとは言ってないよ』


 真帆が笑う。


 場面が変わる。


 一人で昼食を済ませようとする私の隣へ、真帆が椅子を運んでくる。


 私が黙っている日は、何があったのか無理に聞かない。


 ただ隣でパンを食べ、ときどき窓の外を一緒に見る。


 話したい日は、くだらない話で笑わせてくれる。


 タマを捜すために学校を休んだ日も、携帯電話へ短い言葉を送ってくれた。


『手伝えることがあったら言って』


 私は本当のことを話せなかった。


 以前のように、気味悪がられるのが怖かった。


 それでも真帆は、嘘をついた私を見放さなかった。


 何かを打ち明けなくても、無理に心の中へ入ってこない。


 私が拒まない限り、当たり前のように隣にいてくれる。


 教室の中で一人にならずに済んだのは、真帆がいたからだった。


 暗かった学校で、真帆のいる場所だけは息ができた。


 目の前の真帆が、ゆっくりと左手を上げる。


 指が自分の喉へ食い込んだ。


「やめて」


 真帆の瞳が黒く染まる。


 埃のついた頬。


 苦しそうに開いた口。


 喉を締める、自分自身の指。


 私は九本の光を握り、床を蹴った。


 間に合った。


 真帆の胸に巣くっていた黒いものより、先に。


 邪気との繋がりが切れる。


 黒い塊が真帆の背中から弾き出された。


 同時に、私の光が真帆の左肩へぶつかった。


「駄目!」


 何度見ても遅かった。


 伸ばした指は、真帆の袖を掠めるだけだった。


 肩が下駄箱へ当たる。


 体が回る。


 額が金属の角へぶつかった。


 鈍い音がする。


 真帆が床へ崩れ落ちた。


 額から流れた血が、頬を伝っていく。


「真帆」


 駆け寄ろうとしても、足が動かない。


『お前がやった』


 また、私の声がする。


 声が響くたび、暗闇が濃くなっていく。


『お前が傷つけた』


『また一人になる』


 目を覚ました真帆に、何と説明すればいい。


 校舎で何が起きたのか。


 どうして真帆が自分の喉を締めていたのか。


 私が何をしたのか。


 幽霊が見えることも、今度は何も隠せない。


 床に倒れていた真帆が、ゆっくりと目を開けた。


 私を見た途端、その顔から笑顔が消える。


『今まで、ずっと隠してたの?』


 真帆の唇が動いているのに、聞こえたのは私の声だった。


『気味悪い』


 秘密を打ち明けたあの日に聞いた言葉を、私の声が繰り返している。


『もう近づかないで』


「真帆は、そんなこと言わない」


『本当に?』


 真帆の頬を伝う血が、止まることなく増えていく。


『お前のそばにいれば、傷つけられる』


 学校で初めて、そばにいたいと思えた人だった。


 何も話せない私の隣に、真帆はいてくれた。


 その真帆を傷つけた。


 私の力で。


「ごめんなさい」


 もう一度、タマの体へ顔を埋める。


「起きたくない」


 目を開ければ、血を流す真帆がいる。


 私の力は、また誰かを傷つけるかもしれない。


 ここにいればいい。


 タマと二人で、何も見ずにいればいい。


 タマが喉を鳴らした。


 いつもより弱い音だった。


 背中へ回した手に、細かな震えが伝わってくる。


「タマ?」


 顔を上げようとすると、また真帆の血が見えた。


 私は目を閉じ、タマを離さなかった。


 遠くから、誰かが名前を呼んだ。


『優香。聞こえる?』


 知らないふりをした。


 聞こえなければ、戻らなくて済む。


『俺だよ。迎えに来た』


 久世さんの声だった。


 暗闇のずっと向こうから、細い糸を伝って届いてくる。


『優香。起きて』


「嫌です」


 口にしても、声にならなかった。


『君が眠っている間も、タマは君を守ってる』


 腕の中で、タマの体が大きく震えた。


 今度は目を逸らせなかった。


 タマは私に抱かれているだけではなかった。


 四本の足を踏ん張り、私へ押し寄せる黒い靄を小さな背中で受け止めている。


 毛の間から黒いものが入り込むたび、輪郭が薄くなった。


 それでも一度も私へ背を向けず、牙を剥いて暗闇を押し返している。


 私の頬を舐めていたのも、震えていたのも、怖くないからではない。


 タマも苦しんでいる。


 それでも、私を一人にしないためにここにいる。


『このままだと、またタマ一人に全部背負わせることになるよ』


「また……」


 十年前から、ずっとそうだった。


 私へ近づくものを、知らないところで食べ続けた。


 苦しくなっても何も告げず、私を傷つけないために一人でいなくなった。


 私はタマを守るために陰陽師になると決めた。


 それなのに今も、タマを抱きしめたまま、押し寄せるものを全部タマに受け止めさせている。


『君もタマを守るって、俺に言っただろ』


 暗闇の奥に、一本の細い光が見えた。


 手を伸ばせば届く。


 けれど、そのためにはタマから腕を離さなければならない。


 力を緩めると、タマが顔を上げた。


 緑色の瞳が私を見る。


「一人で行かないでね」


 タマが私の手の甲へ額を押しつけた。


 言葉はない。


 それでも、伝わった。


 一人ではない。


 私はタマを床へ下ろした。


 離れるためではない。


 隣に立つために。


 タマと並んで、暗闇の中へ手を伸ばす。


 指先へ、細い光が触れた。


 温かい。


 私はその糸を握り、向こう側へ一度だけ引いた。


 今度こそ、タマを守るために。

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