第19話 声を届ける
◇ 久世朔
胸の内側から、重いものが抜けていく。
岳の霊気が久世の骨と筋肉から離れ、白い光となって目の前へ流れ出した。
二メートルを超える大男の輪郭が戻る。
同時に、体が急に重くなった。
支えを失った右腕へ、遅れて痛みが押し寄せる。
「っ……」
肩から指先まで、内側を細い刃で裂かれたような熱が走った。
岳が久世の左肩へ手を添える。
実体のない大きな掌から、心配する気配が伝わってきた。
「分かってる。もう無茶はしない」
岳は動かない。
「約束する」
しばらく久世を見下ろしたあと、大男はようやく手を離した。
その視線が、結界の中へ移る。
優香は片膝をついたまま、顔を上げない。
五本の尾は形を保っている。
久世が契約の流れを乱す前ほどの勢いはないが、結界を内側から押し続けていた。
結界が軋むたび、玄斎が新しい札で補う。
「どれくらい持つ?」
「二人がこのままなら、しばらくは」
玄斎が答える。
直後、五本目の尾が結界を大きく歪ませた。
「このままでいてくれるとは、思えんがの」
「だよね」
久世は立ち上がった。
膝がわずかに揺れる。
すずがすぐに手を伸ばしかけ、途中で止めた。
代わりに、久世を見上げて尋ねる。
「私の目と耳で、優香さんの気配を探すんですね」
「うん。優香の霊気とタマの邪気が混ざって、外からでは二人の気配を見分けられない」
白い霊気も、黒い邪気も、今は一つの渦になっている。
その中には優香の魂があり、タマの魂があり、二人を結ぶ契約と、封じきれなくなった邪気がある。
力の総量なら、離れていても嫌というほど分かる。
だが、必要なのは大きさではない。
優香自身がいる場所だ。
「見つけたら、細い道を作って向こうへ声を送る。優香をこちらへ引き戻したりはしないよ。無理に引けば、優香の魂とタマの契約を傷つける」
すずは頷きかけて、久世の右腕を見た。
次に、わずかに震えている膝へ目を落とす。
「朔さんの体には、負担はかからないんですか」
「さっきみたいに体へ力をかける術じゃない。右腕も使わないよ」
すずは結界の中を見た。
心配そうに握っていた両手を下ろし、背筋を伸ばす。
「分かりました。私の力を使ってください」
「ありがとう」
久世が差し出した左手へ、すずが小さな手を重ねる。
触れた感覚はない。
代わりに、澄んだ霊気が指先から流れ込んできた。
久世は目を閉じる。
降霊のための道を開く。
普段なら、すずを呼ぶのに時間はかからない。
七年を共に過ごし、何度も同じ道を繋いできた。久世の体も、すずの霊気を覚えている。
「おいで、すず」
重ねられた小さな手が、白い光へ変わる。
ランドセルも、髪も、細い体も、輪郭から静かにほどけていく。
光が左腕を伝い、胸の内側へ入った。
世界が変わる。
最初に聞こえたのは、無数の呼吸だった。
校庭で倒れている生徒。
昇降口の奥で、怪我をした少女へ呼びかけ続けている教師。
浅い息。速い鼓動。衣服が擦れる小さな音。
校舎の中からも聞こえる。
教室や廊下で意識を失っている人々の呼吸が、壁を何枚隔てても一つずつ分かった。
視界も広がる。
砕けたガラスの細い断面。
床を這う邪気の濃淡。
玄斎の結界を構成する線の一本一本。
遠くにあるものまで近すぎる。
久世は息を止めた。
情報の多さに意識を持っていかれそうになる。
胸の中で、すずの気配が一つの方向へ集中した。
余計な音が少しずつ遠ざかる。
倒れている人々の呼吸は残しながら、探す必要のないものだけを視界の外へ押し出していく。
すずが普段、何気なく行っていることだった。
よく見えるだけではない。
何を見るべきかを選び続けている。
「やっぱり、すずはすごいね」
胸の奥から、少しだけ得意そうな気配が返ってくる。
久世は結界へ向き直った。
五本の尾が、今までとは違って見える。
白と黒に分かれていた色の中へ、さらに細い流れが無数に走っている。
優香の霊気。
タマがまとっている、優香とよく似た霊気。
タマ自身の魂。
長い年月をかけて蓄積された邪気。
それらが何重にも絡まり、互いを押し、引き、反発していた。
目だけで追えば、すぐに見失う。
久世は耳を澄ませた。
霊気がぶつかる音がする。
高く、低く、途切れることなく重なっている。
その奥に、同じ間隔で繰り返される響きがあった。
人間の心臓より遅い。
一度鳴るたび、周囲の膨大な霊気がわずかに揺れる。
優香の霊気の中心だ。
「見つけた」
声に出した瞬間、五本の尾が一斉に動いた。
久世の視線を感じ取ったように、結界の正面へ集まる。
「玄斎、来るよ」
「分かっておる!」
五本の尾が結界へぶつかった。
結界が大きく膨らむ。
玄斎の札が三枚、同時に燃えた。
線の隙間から漏れた力へ、さつきの髑髏が噛みつく。
霊気と邪気が妖気へ反発し、校庭の空気を震わせた。
「朔、急げ」
「分かってる」
久世は左手の人差し指を立てる。
指先へ、自分の霊気を集めた。
太くしてはいけない。
優香の霊気は、外から触れた久世の力を異物として押し返す。力を込めるほど反発も大きくなり、玄斎の結界を内側から破る手助けになってしまう。
必要なのは、髪の毛よりも細い糸だ。
久世は霊気を伸ばした。
結界を通り抜け、優香へ向かう。
邪気へ触れた瞬間、糸が弾けた。
冷たい痛みが左手の指を走る。
久世はすぐに霊気を引き戻した。
無理に押し込まない。
もう一度、同じ場所を見る。
優香の霊気の中心は分かった。
だが、そこまで真っすぐ進む必要はない。
二人を結んだ使い魔契約がある。
久世が組み、優香とタマが受け入れた道だ。
封印の形は歪んでいても、契約そのものは切れていない。
絡み合う力の中から、自分が作った術の形を探す。
すずの視線が、優香の胸元から足元へ下りた。
そこから背後へ回り、五本の尾の根元をなぞる。
黒い邪気の下に、細い輪が見えた。
優香からタマへ。
タマから優香へ。
二つの魂を巡り、途切れずに戻ってくる輪。
久世の封印は、その一部へ重なっている。
「そこだ」
今度は、優香の魂へ直接向かわない。
左手から伸ばした糸を、自分の術が残る場所へ触れさせた。
同じ形を持つ霊気同士が重なる。
反発はない。
糸が、封印の縁へ沿って滑り込んだ。
冷たい。
最初に流れ込んできたのは、タマの邪気だった。
怒り。
恐怖。
何かを守れなかったと思い込む、深い痛み。
言葉ではない。
誰の感情なのかも、一つずつ分けることはできない。
優香とタマのものが、契約の中で重なっている。
久世は糸を止めた。
これ以上深く触れれば、二人の感情に呑まれる。
呼びかけられる距離まで来た。
それで十分だ。
結界がまた軋む。
一本目の尾が正面を叩く。
二本目と三本目が左右へ広がる。
四本目が頭上を押し、五本目はさつきの髑髏へ食い込んでいた。
玄斎の霊気が急速に削られていく。
時間はない。
久世は、細い糸へ声を乗せた。
「優香。聞こえる?」
返事はない。
霊気の渦だけが鳴っている。
「俺だよ。迎えに来た」
糸の先は動かない。
それでも、切れてはいない。
届いている。
久世は目を閉じた。
暗い場所へ声を投げるように、もう一度呼ぶ。
「優香。起きて」
五本の尾が結界を押し広げる。
玄斎が低く唸った。
さつきの髑髏に亀裂が走る。
「君が眠っている間も、タマは君を守ってる」
契約の中から感じる抵抗は、今も消えていない。
タマは邪気に呑まれながら、優香へ流れ込む力を少しでも減らそうとしている。
周囲の人間へ尾が向くたび、無理やり逸らしている。
「このままだと、またタマ一人に全部背負わせることになるよ」
糸の先で、何かが揺れた。
霊気のぶつかる音とは違う。
小さく、不規則な震え。
すずの耳が、それを捉えた。
「君もタマを守るって、俺に言っただろ」
久世は声を強める。
「だったら、こんなところで眠ってる場合じゃない」
細い糸が、向こう側から一度だけ引かれた。
優香の霊気の中心で、止まりかけていた響きが鳴る。
今度は、さっきよりもはっきりと。
久世は糸を離さなかった。
「優香」
暗闇の奥へ、もう一度名前を呼ぶ。




